第二部 立志篇

第六章 帰去来

 大正十一年、源二郎、二十二歳の年。この年は源二郎にとって人生の長い道程に一区切りをつけ、一段と飛躍する画期的な年になるのである。
ただ、この章に移るにあたって、筆者が源二郎の年齢相応に疑問に思い、関心を深めるのは源二郎の「兵役義務」の事である。
端的に源二郎の軍隊経験の有無についてであり、取材の範囲内に於いて、源二郎の軍隊経験、軍隊生活は確認出来ず、結果は無なのである。
 源二郎の生涯の中で、霧の中に関する事項は多数だが、その中でも、特に、人生の最重要部分が欠落し、明確さが失われているのは何故なのか?誠、不思議なのである。
源二郎は己の負の部分は語らなかったのである。又、周囲の環境も源二郎の人格を傷つけることなく、その部分について探索することなく時は流れて行ったのである。誠、築き上げたものが大きければ大きいほど、放たれる光の輝きが大きければ大きいほど、その人の負は遠去かって行くものであろうか。 

ここで当時の徴兵制について記しておく。
徴兵制とは国民に兵役の義務を課し、強制的に軍隊に徴集する制度をいう。近代国家においては、特権による兵役免除や、金銭による代人を認めず、身体的、精神的障害者にのみ免除を認める一般兵役義務制(必任義務制)である。徴兵制を採用する国の多くは、憲法に国民の兵役義務を明記しているが、事実上は、男子のみを徴兵とする例が殆どであった。
 わが国に於ける徴兵制は一八七三年(明治六年)制定の徴兵令に始まる。(山県有朋による)フランスの徴兵制に範をとったものであったが絶対君主制的な兵役免除などを認めていた点で一般兵役義務制に立脚した近代的徴兵制とはいいがたかった。 一八八九年一月に徴兵令は大改正されたが、これは同年二月に制定された大日本帝国憲法の第二〇条が定める臣民の兵役義務の規定を先取りしたものであった。 この改正で一般兵役義務制に基く国民皆兵が実現され、満十七歳から四十歳までの男子に兵役義務が課せられることになった。兵役は常備兵役(現役及び予備役)、後備兵役及び国民兵役に分けられ(後に補充兵が加えられた)満二〇歳から三年間現役に服するものとされた。
 以上の兵役令に基ずき、徴兵検査も制度化され、その年の十二月」日から翌年の十一月三十日迄の間に満二十歳に達した者が徴兵適齢者となり徴兵検査を受けなければならなかった。徴兵適齢者は本籍地の市町村長に徴兵適齢届を差出し検査を受けることになる。適齢届を出して置くと、徴兵検査通達書という書付を本人へ送ってくる。 この通達書には
1、「徴兵検査のある場所と其の日、検査を始める時間
2、徴兵検査を受けるにっいての諸心得等が
記されていた。 
西村源二郎の生誕日は(一九〇〇年)明治三十三年五月二十五日であり、二十歳到達時は(一九二〇年)大正九年五月二十五日であった。そして源二郎が徴兵適齢届を差出さなければならないのは、大正八年十二月一日より大正九年十一月三十日迄に二十歳に達した者の該当する大正十年一月中であった。 この間、源二郎は何処に所在していたか?
本稿によれば、未だ函館市新川町に居住していた。そして、偶然のように、早稲田大学の受験を目指して上京するのが、大正十年一月二十日前後であり、徴兵適齢届を差出す月間と符号が、一致し、重なる事になるのである。
この頃、源二郎は本籍を、北海道樺戸郡新十津川村より函館区新川町三〇九番地に、未だ移動させていなかった。徴兵適齢届は、原則として本人現住地(現在居る所)を記載し、本籍地の市町村に差出すのが普通であった。この届を差出し後、徴兵検査通達書が届き、徴兵検査を受けなければならなくなるのであるが、果たして、この適齢届が源二郎自身の手で書かれ、差出されていたか、否かが問題なのである。 最も、この徴兵制度が大きく改正され、兵役法として名を換え、施行されるのが昭和二年であり、この時以降、日本はファシズムへの道を歩み始め、徴兵制度も本格化して行くのであるが、その間、大正末年より昭和二年迄は、未だ国民皆兵とは言いながら、徴兵回避の間隙があったのかもしれない。 
仮に、徴兵検査後、軍隊徴集を回避出来る事項があるとするなら、次の二点が挙げられる。

 1.家事の都合による徴集延期 
 2.修学の都合による徴集延期。

1は、徴兵検査を受けた者が現役兵として徴集される時は、家族が生活することが出来なくなる確証がある場合は二年間徴集を延期する事が出来る。
2は、中学校又は中学校の学科程度と同等以上と認める学校に在学する者に対しては、本人の願いにより学校の修業年限に応じて、年齢二十七年になるまで徴集を延期する事が出来る。 
この学校の中に、高等学校、大学予科、大学令による大学学部などがあったのである。源二郎が仮に兵役を回避することが出来たとすると「早稲田大学に在学中」がその要因として最も濃厚な線ではあるが。
この辺りは泉下の源二郎に問い質す以外に真実を知る事は出来ない。
源二郎自身は強い愛国心の持主であり、皇室を崇拝し、御国のために奉仕する強い信念の持主であったので、兵役回避は別の要因があったのかもしれない。若し、源二郎に軍隊経験があったとするなら、源二郎の人生観に多少の変化を齎していたかもしれない。
 この「兵役義務」については明確な資料が発掘された時、更に改訂をする事としたい。

大正十一年四月末の或る朝、三國屋蒲団店の統括責任者として、店主の野口亥次郎を補佐しつつ業績の向上に勤めていたその頃−。函館の河村定一より一通の電報が源二郎宛てに届いた。  
「西村君に電報だ。」
亥次郎から差出された電報を開いて読む。 
 「エノ キトク スグカエレ」
母の急変を知らせる電報であった。それまでは母の消息は全く途絶え、音信もなく、新十津川の義兄弟との連絡も途絶えたままであった。ただ、河村家の織右工門や、スエ、定一は、その所在を密かに知っていたのだろう。
 西村康之氏の記す。 「時空遊悠浪漫−西村家のルーツを尋ねる」 に拠れば、エノは、 「西村源蔵の死後、二年後に函館で再婚した」と書かれている。再婚したとすれば、狭い函館の事でもあり、当然、源二郎も其のことを知っていたはずである。しかし、それとても、今では確かではなく、謎のままなのである。源二郎は河村の家族の一員であり、母との繋がりは断ち切らねばならなかったのは当然であったが、それにしても、源二郎には、何故かその所在を知らされず、源二郎自身も不思議にその行方を追わなかった。
運命的な母との血の繋がりではあったが、その関係は、時を経る毎に淡白なものに変わって行ったのかもしれない。母と別れてからは、源二郎にとって母の力を借りぬ独立自存の人生であったのだ。
源二郎にとって、父も母も霧の中であった。源二郎の脳裏に、幼年の頃の、北海道の滝川での暮らしの日々が浮かんでは消えた。あの開拓の地での闘いの日々、辛苦の日々が浮かんでは消えた。瞬間と瞬間の走馬灯であった。 

取り敢えず、其の場の仕事を引き継ぎ、身の回りの生活用品を整理し、其の日の夜、上野発の夜行列車に乗った。花も散り、底冷えのする晩い春の夜であった。 つい先日、新調したばかりの、其の頃としてはハイカラなスーツを着た源二郎は、どこか洋行帰りを思わせる服装であった。 カタカタ揺れる汽車の、薄暗い電灯の下の、木の座席は、体の節々に重い圧力を加えた。長い間、車窓を黒い闇が通り過ぎて行った。それでも、仙台の駅を過ぎる頃から暁の光が雲の切れ間から射してくるのであった。朝の五時頃であった。  
「函館へ!」
約一年半の東京の生活を終え、今、再び、函館に帰りつつある。早稲田大学の受験を経、三國屋と言う商店に身を置き、東京と言う首都の、神田と言う都会の真ん中で、貴重な経験を積んだ源二郎は、一回り大きな風格を醸し出していた。
 時に、野口亥次郎が、店員を並べ社是を説く姿が不図、蘇る。
「作る喜び、売る喜び、買って喜ぶ信じ合いの商いは、そのことが即ち社会への責任であり商いは報恩感謝の心から生まれる人の命を愛せない者に 自分の命を愛せるわけはない。」自分は再び生まれ新しい生活に戻らねばならない。絶えず脱皮と飛翔を繰り返しながら一段と高い目標を求め、自信を持って、徹底した商道を歩いて行く。それが育てられた周囲の人々に対し示す源二郎の姿勢であった。野口から教えられた、そんな悟りのような感慨が今、函館に帰る源二郎にとって、東京生活から学んだ一つの結論であったのかもしれない。そして、源二郎は、その後、再び三國屋に戻ることは無かった。 津軽海峡は時化ていた。船の舳先に荒波が激しく寄せ、砕けて散った。 
 「今年の函館は春から景気が良くてよう。暮れから今年の初めにかけて、下海岸は勿論、大森浜にも、住吉の浜にも、鰮の大群が寄せてきて、取り切れねえ程でよう。  そんなに来るって思ってねえもんだから、慌ててよう・・。取っても始末し切れず腐らす程で・・・…そんな、こんなで函館は不景気ば吹き飛ばしているべさ・・。」
大揺れに揺れる、油くさい船室で、源二郎に大声で話し掛けてきた函館衆が、函館の景気の良さを吹聴してくるのを聞いて、源二郎の顔に初めて微笑が漂った。 
 「おめえさん、何処から来たのさ?。」 
 「東京から函館に戻って来たんだ。」
  「家は何処さ?」 
 「新川町の蒲団屋だ。」 
 「そうか:…河村さんか。そうだ。先日、河村さんの家で祝言があった。娘さんが嫁に行った。」
源二郎ははっとした。
河村スエヲの事だと思った。
源二郎にとって、母の急変による帰郷であったが、今、揺れる船の、世間の噂話の中で、スエヲの近況を知らされる結果になったのは皮肉な事であった。  
「河村は河村なりに栄えているのだ」と源二郎は思った。

 函館の港に入ったのは黄昏迫る頃であった。五月に入り、花が綻びる頃であったが、曇り空で、風が激しく吹き、それは、函館特有の東風(やませ)であった。
 港には大漁旗を靡かせた数十般の漁船が入港していて、汽笛を鳴らしたり、発動機の音を大きく響かせながら走り港は大賑わい時であり、それは、北洋に出発する船団の群れであった。
 西村エノは、源二郎が函館に着いた数日後、函館の山の手の病院で、近くの教会の鐘が鳴る黄昏時、源二郎と、河村家の縁者に看取られながら息を引き取った。鐘の音は葬送の時を暗示するかのように緩やかに静かに流れて行った。エノの死因は風邪を拗らした肺炎が直接の原因であった。享年四十八歳であった。
 初七日が過ぎた数日後、福井から、エノの甥と言う男性が出て来て、エノの遺骨は故郷の地に、悄然として引き取られて行った。
 母、エノの死を境に、源二郎は新川町にある河村製綿所の社員寮の一室に再び舞い戻ることになった。
源二郎の感慨は格別のものがあった。即ち、河村製綿所、及び蒲団店の一社員に復帰したのである。一年半に渉る東京での修業は、源二郎の天稟に一層拍車をかけ、事業家としての素質を開花させることになる。三國屋の野口亥次郎や、接触した同業者から教えられた事業家としての在るべき心構え、信条などは、此れ以後、源二郎の生き方の哲学的な指標となるのである。
 河村織右工門も、定一も、そんな源二郎を知り尽くし、将来の会社の重要な幹部として再び迎えることに異存はなく、特に織右工門は、定一の補佐役としての源二郎に大きな期待を抱いていたのであった。
 源二郎の人の心を逸らさぬ応対。柔らかい仕草の中に隠された強靭な精神力。取引先を煙に巻く老檜さ。数字に精通し、何事も数字を基礎に分析する計数力。実体験から生まれた強力なリーダーシップ。その何れをとってみても優れた事業家としての素質を充分に有していた。

この年、大正十一年、河村家は不思議に慶弔が重なった。三女、スエヲと中田善七との婚姻。西村エノの死。そして織右工門の妻、河村スエの死であった。
 六月十三日、午後十時三十分、河村スエは自宅に於いて倒れ、その十八時間後、六月十五日午前五時半、息を引き取るのである。死因は脳溢血、享年五十二歳であった。
創業70年回顧録’には次のように記されている。 
 「先代織右工門は、本邦製綿業機械化のパイオニアたるの光栄を担うと共に、コドモわた並びにその一連の事業を今日の繁栄にまで導く基礎を確立した大功労者である。それは何人と雖も否定はできないが、その光栄と功績の陰には、当然、妻スエの偉大なる助力があったことをここに強調しておきたいと思う。 若くして織右工門に嫁ぎ、まだ幼い定一を連れ、夫に従い、北海道に渡って以来、スエは一日の休みもなく家庭の中心たる主婦として、子供たちには駘蕩たること春風のごとき優しい母であり、製綿機の改良・製作に寝食を忘れて熱中する夫に対しては実に協力的な理解深い貞淑な妻であった。 
スエの自分を忘れた献身的努力があったればこそ、先代織右工門は、製綿事業の機械化という真に画期的な大事業を見事に完成することができたのだといっても決していい過ぎではあるまい。」

 


妻スエ事急病の処薬石効なく本日午前五時半死去致候間御通知に代此段謹告仕候
葬儀は来十七日午後二時自宅出棺東川町西別院に於て執行仕候
                         大正十一年六月十五日
                         新川町三〇九番地 
                               河村織右工門 
  親戚総代                        紀太惟修
    同                          鈴木繁延
    同                          中田善太郎
    同                          河村高治
    同                          木下萬次郎
    同                          明石音五郎
    同                          鈴木岩三郎
 


源二郎にとって、生みの親が西村エノであるとすれば、育ての親は河村スエであった。その二人の親を、この年、一挙に喪うことになったのである。運命の徒と言うべきか。源二郎にも二重の深い悲しみがあった。二人に対しては、夫々に、深い恩と義があることを自覚もしていた。
河村織衛門夫妻
晩年の河村織衛門夫妻  
それにしても、悄然として葬られた西村エノと、盛大に営まれたスエの葬儀を比較し、彼我の差を、これほど実感として味わったことはなかったであろう。人生は正にドラマであった。
然し、源二郎自身は、二人の死に怯むことはなく毅然とした態度を崩すことはなかった。独立独歩の気概を喪うことなく生きて行くことに何の不安もなかったのである。二人の死を乗り越えて生きて行く源二郎に人としての価値が高まるのであった。

                            

                            補記 二)大正十一年の日本

原敬が死ぬと、蔵相であった高橋是清か総理となり、内閣を組織した。大正十年十一月十三日のことである。翌、大正十一年六月六日、総辞職する迄の七ヶ月間の短命内閣であった。閣内不統一が原因であった。高橋是清は蔵相としては優れていたが総理としては欠けるものがあった。 この間、日本の経済、政治の状況は如何なるものであったか。

大正九年(一九二〇年)の戦後恐慌は、政府の救済で一応、収まったとはいえ、その後も不況の状態は続いていた。大銀行は、いち早く経営を立て直したが、二流以下の銀行では後から後から取付け騒ぎや休業が続いていた。戦時中の経済膨張が、投機的な無計画性を広く持っており、それを政府が、放漫な財政救済策で隠そうとしたために、不況は根深く長いものになって行ったのである。日本の貿易は大正八年以来、入超続きで、大正十二年八月迄それが続くことになる。もはや、政友会の、いわゆる積極政策を続けて行けなくなっていることは明らかであった。財政膨張の最大の原因は過大な軍事費であった。 その頃、国際連盟の発足によって国際的な軍縮への関心が高まりつつあった。そんな中ドj 代  総  戚 鈴明木河中鈴木石下村田木 岩音萬高善繁三五次 太郎郎郎冶郎延 で、高橋是清内閣が果たした重要な事項は、ワシントン会議で海軍軍縮条約に調印したことであった。内容は、アメリカ全権のヒューズ国務長官の提案による  
「英米日の海軍比率を10・10・6」とし  
「英米日仏伊の主力艦保有量の比率を5・5・3・1.67・1.67」
とするものであった。 
この時、同時に日英同盟の失効が規定された。この失効は、太平洋方面の島嶼たる属地、及び領地に関する日英米仏の四ケ国条約が結ばれたものの、日英同盟を葬る為の葬礼のようなものであった。
 これらの条約を結んだワシントン会議によってアメリカはイギリスと並ぶ世界一の海軍国となると共に、東アジアにおける日本との帝国主義的対立についても、自国に有利な解決を外交的手段によって達成したのである。第一次世界大戦まで勢力拡大を続けてきた日本帝国主義は、これによって進路の枠を嵌められ、部分的に後退を余儀なくされて行くのである。
 ワシントン会議の諸条約が調印された大正十一年二月六日の数日前の二月一日、帝国主義的対立の中で、日本の地位を確保し、朝鮮、中国に対する支配を拡げて行こうとする政策を取り続けて来ていた元老、山県有朋が八十三歳の生涯を終えていた。 このような経過を辿りながら大正十一年六月十二日、高橋是清内閣に代わり、加藤友三郎内閣が成立していた。河村スエが倒れた十三日の前日の事であった。

                          補記(二)大正十一年の函館

 函館は本州本道間の物資集散地にて、中継港たるためその経済関係も、広く内外に及び、殊に沿海州とは露領漁業策源地といふ関係にある。然るに近年、交通機関の発達につれて函館を経由しないものが多いが物資呑吐港として、確実なる基礎あるため、他地方の発展如何によりて、商勢に打撃あらんとは全く杞憂であらう。況や各種事業と、金融機関と密接鞏固で他の追従を許さない……。此れに反して工業は所謂ピンク土フンド(経済影響地域)の狭小より原料需給と動力供給不足の為萎靡として振るはないから将来は一層此点に発奮を要する。然しながら最近十ヶ年は異常の繁栄と膨張をなした。そこで函館経済力の消長を見るに欧州大戦中未曾有の好況につれて函館も商工業の進歩著しく大正八年の如きは黄金時代といふも過言でない:…然るに、同九年三月以来の財界大波瀾の影響を受けて先ず海運界、並に海陸運輸者は凋落し、一般企業家の警戒に金融梗塞とに事業計画を縮小し、解散変更するありて、函館商工界の発展を阻害したる市頗る大なるものがあった。幸い、京阪神地方に比して財界不況の影響が比較的大ならざりしため、暫次経済界が安定さるると共に港湾設備の改良、海陸運輸設備の達成、その他都市計画等の実現の暁は、益々商工業の発達を遂ぐるは以下叙する最近十ヶ年累進的経済力によりても予測する事が出来るが函館は「地」や「時」の時代は過ぎて今や「人の和」の時代となった。その繁栄は函 館人の協力如何によると思う。
 

@ 函館の戸口の最近十ヶ年は、全く累進的に膨張している。 
       大正十年 三一、七四九戸 一四〇、二三七人 
A 内国貿易額は海運による府県諸港と陸運鉄道による外、朝鮮貿易を合わせたもの 
       大正十年 一、二四二、九二頓 二二四、四六六、九〇九円
B 外国貿易部は普通、外国貿易と漁業貿易の二種なるが、各事を通し鉄材〜鉄製品の輸入増加し食塩燐鉱石も亦頗る多し。
  漁業貿易の輸出は食塩魚網最も多く、輸入は塩鮭鱒を最高とし何れも累進的に進み大戦後七年より激増し九年は最も盛大を極めた。
       大正十年 二四三、四二六頓  二五、八一七、四七六円
C 出入船舶数  函館の内外国出入船舶は汽船帆船にして大戦前ニケ年の大正元二年は略同じく、大戦最後の七年を除き四ヶ年は隻数減少し、
  頓数も大戦中及び大戦後も元年より少し以て大戦以来船舶界の不況の世界的なるを知る。
       大正十年  一四、一四五隻   五、五〇八、五五頓
D 法人と個人  職業別にすれば左表の如く累進的に増加し十年の資本金も七千八十萬四千九百四十一円にて元年より七倍し、
  払込資本金は、四千二百三十九萬八千二百三十八円にて約九倍 し、積立金、配当金に於いても、元年に比すれば雲泥の差があり隔世の感がある。 
  斯様に逐年累進的に激増するのみで函館の商工業の前途は洋々として祝せずには居られぬ。 

 

  農業 鉱業 工業 商業 銀行 運輸業 その他
大正十年 五七 二四七 一五 四一 一四 三八〇
 
                                                  (大正十一年六月十五日 函館新聞より) 

 

この頃の函館では鮭鱒の缶詰の缶詰生産が軌道に乗り、露領漁業も近代産業に転換し、それに伴い、それまでの個人企業家に代わって、産業資本としての漁業企業が露領漁業の主導的地位を占めるようになると共に、大正十年には母船式蟹漁業(蟹工船)が操業を始め、さらに北千島での漁業が発展することによって、露領漁業を含めた広義の北洋漁業が全盛期を迎えることになったのである。そして、この期の北洋漁業の基地も又、函館であった。

 こうした露領、北洋漁業の飛躍的な発展を背景として、造船界、鉄工業、木製品工業、食料品工業、肥料製造業、製網業、電気産業他の関連産業が飛躍的に発展し、それに伴い函館の工業は、近代的な産業へと大きな変貌を遂げて行く過程にあったのである。また、これら諸産業の飛躍的発展は、当然の事ながら、これらの諸産業に従事する労働者t、y/rIr一 I/と の増加をもたらすことになった。 これら、経済の発展と共に函館は近代的(モダーン)な街に変貌しつつあった。度重なる大火に見舞はれたことによって、鉄筋コンクリートの構造の建物が商業地に建て初められつつあった。又、本格的な百貨店も登場して来ていた。「森森屋百貨店、E今井呉服店、 荻野呉服店などであった。また、市民の娯楽施設として、劇場や映画館が繁栄を極めていた。この頃、寄席や劇場が一〇ケ所前後存在し市民を楽しませていた。 又、この年頃から本格的な「カフェー時代」も現出していた。大正末期は銀座街や大門通りに大小のカフェー、五〇軒余を数えるようになり繁華街は赤い灯、青い灯に飾られた不夜城のような様相を呈していたと言う。

                         補記(三)大正十一年の河村製綿所 

 「創業70年回顧録」からは、不況期であっても、経営は極めて堅調に推移したことが伺える。 

 「戦時中の一時的な好況時代において、すでに来るべき反動的な不況時代の到来を充分に予測していたのである。」
河村織右工門、定一の優れた先見性は堅実な経営方針を崩すことはなかった。福井県人としての質素、勤勉の真骨頂を見る思いがする。社員数が、管理職、営業職、工員、女工を合わせて百五十人。近代的製造機械を設置し、景気に左右されもせず、製綿高、売上高に大きな変動がなかった。当時の函館経済圏において有数な企業の一つに成長していたのである。
生産力は常に平均していた。販路は道内は、函館を中心とした道南地区、根室・釧路を中心とした道東地区・小樽・札幌・旭川地区などであったが、時節柄、販路の拡張には慎重で、比較的に好況な青森・八戸・弘前・樺太地区へ重点的に販路を拡大していた。同時に高利廻りの市中販売、及び小売り販売に全力を集中していた。この頃、鶴岡町蒲団店、新川町蒲団店に於いて中元、歳末セールがしばしば行われて居たことが、新聞広告から伺える。広告の活用については「特別に深い注意を払っていたのである。正しい営業方針・誠実さ・商品の確実さというものは、常に需要者の頭の中に沁み込ませておかねばならない。」鶴岡町蒲団店の主任は紀太惟修であり、大正三年、小売部として発足し、この間、大火に会い、類焼の被害を受けた一時期もあったが、着実に実績を積み重ねていた。大正十年三月、販売部に友禅モスリン部を新設し、販売をはじめたが、これは、当時としては画期的なことであった。 モスリンとは梳毛(そもう)織物の一。薄地の毛織物で、わが国ではメリノ、メリンスとも呼ぶ。 羊毛の細糸によって織られた織物で今ではウールと言う言葉で表現されているものである。友禅とは友禅染のことを言い、染色の一つである。糊置防染の染で、繊細な糊置の技法と色彩華麗な絵模様が特色である。糊置とは抜染法の一つであり、布のある部分に還元剤を調合した糊を塗り、色の染まないようにする技法の事であった。友禅染のウール生地は当時の先端を行く蒲団生地であり、これを他業者に先駆けて取り入れたのも、織右工門、定一の先見性によるものであった。 「薄利多売主義の営業方針で、全力を傾注してこれにあたった。一般に対する宣伝が功を奏して、大いに世人の注目を集めたのであった。しかし、売上は増加しても、その割に利益率がこれに伴わないので、卸売を廃止して、小売一本だけにしぼることにしたのである。」紀太惟修の自宅は、巴座前小路の松風町にあり、ここにも丸村蒲団店の看板を掲げていた。新川町蒲団店の主任は鈴木繁延であり、大正十年に開店していた。「主として蒲団講、賃綿等に着眼して、大々的に売出しを図った。本支店を通し、陳列台の増設、店舗の大改善を行い、休憩場をも設け客の便宜を計った。」 河村製綿所が、不況の中で、「高利廻りの市中販売、及び小売に全力を注いだ」事や、「蒲団講」の事などは、後年、源二郎が独立後の或る一時期に採用した営業方針と重なるものがある。上磯製灰工場の主任は、渾田和一郎であり、大正八年、石灰製造事業を目的に建設され、製造石灰の新たな販路を開拓する途上にあった。

 @、大正十一年の河村製綿所関係の、製綿高、及び売上高は次の通りであった.     
                      製綿高     九三.000貫    
                      売上高    四七四.000円
A、従って、この年の店舗は次の通りであった。 
         本店工場 鶴岡町販売部  新川町蒲団店  上磯製灰工場札幌支店 以上五店舗
 

内部的には従業員の労働間題にも真剣に取り組んでいた。賃金、勤務時間、食堂の改善、研究会の開催など、人事問題に細心の注意を怠らず全店一致の事業推進に意を注いでいた。

この年、大正十一年は、函館にとって記念すべき年になる。一つは、7月八日より十日までの摂政宮殿下東宮(その後の昭和天皇)の北海道御巡啓の途路に於ける函館への行啓であり、一つは、八月一日、函館区が札幌、小樽、旭川、室蘭、釧路と共に区制を廃止して市制を執行し函館市になったことである。 
 

 

 
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