第一部 開拓篇

第五章 別離 (わかれ)- 1 9 00年-




明治3 2年3月に入った。サノの出産の兆しが見えはじめた。新十津川に降った雪は未だ凍ったままであった。
早春とは言いながら、寒さの厳しい一日。源蔵は、近藤に果たせなかった目的を、西村宏平を訪ね、宏平から当座の生活費を含め、出産費用として若干の金を借り受けた。西村宏平もサノの出産に驚いたようであったが、源蔵の家の水害の大きさなども知っていて、快く源蔵の依頼を受け入れためである。 
 その日は空っ風の吹く日でもあった。薄暗い上徳富の黄昏時であり、源蔵が宏平の家から帰ったとき、サノは、ランプもつけず布団の中で寝ていた。カネがサタノを見ていた。 
 「もう今夜あたりに生まれそうです。私、利市に頼み、菊水の姐さんを呼びにやりました。」と言った。
菊水の姐さんと言うのは正式の産婆ではなく、出産の取扱いに手慣れた農家の婦人を指していた。
サノは、その朝まで普通の通り働き続ける一方、生まれてくる赤子の産着などを作って準備に怠りはなかった。 
 「ああ……苦しい」
とサノは言った。
サノは一層衰弱しているように源蔵は思い、無事に産み落とせるだろうかという不安が生じた。
サノの年齢は出産の適齢期を遥かに超えていた、当然、産むためには重い負担があった。それを覚悟の出産でもあり、力不足な源蔵に対するささやかな抗議を込めていた。 
「産まれたら、あんたの力を借りずに私は育てるの…どうしても育てなければならない。。」
と言うサノに
「費用の融通はつけた。安心して産んでくれ」と源蔵は言った。
 夜半、寒風の中を馬轄に乗って利市と中年の女が駆け付けて来た。
 「おっ母!間に合って良かった!」
顔を赤くして利市が言った。湯を沸かしていたカネは飛び出して来て利市の手を握った。
「姐さん、お願いします。」
と言うサノに、
「大丈夫、安心して」
と励ますようにその女は言った。

翌日の明け方、明治3 2年3月16日、一人の女の子が源蔵の家に誕生した。
しかし、女が赤子を手に取って、湯の張ってあるタライで産湯を使わせた時、産毛の軟らかい赤子は産声が小さく、体は未熟児のように見えた。
その子を見ながらサノは深い眠りに落ちて行った、源蔵とサノはその子をヲナヲと名付けた。 
出産後、入植以来の疲れもあり、サノの体は雪が溶けて春が来ても、一向に回復の兆しは見えなかった。手足も少しずつ痩せて行った。胸の当たりに大きな窪みも出来、布団の中で寝ている日が多くなって行く。カネが母親代わりとなって、家事をとりしきる事になってった。
「父親の手を借りずに育てる」
と言っていたサノの決意は空虚で弱々しい虚言になって行くのをサノは臍を噛む思いで感じていた。
この年、開拓民に貸付され、開墾し終わった土地が、国から付与されたが、一方、度重なる災害に会い、将来に希望を失った農民が新十津川から次々と離農して行った。
土地を付与された者は旧十津川移民が殆どであり、開拓の苦難を乗り越えた結果であった。離農して行く者は、付与された土地の権利を他人に譲り渡しての離農であった。
源蔵の場合は、移住して1年目であり、手つかずの未開拓の土地が残っていたこともあり、給付の話しは、後日に回され、相変わらず、開墾と畑作を兼ねての作業であった。
源蔵は、村の信用組合に借り入れの申し込みをした。
近藤林太郎が
「貯まるより、借金が増えて行く」
と言ったが、源蔵にとっても、それは現実となった。
しかし、これは、開拓民の全てに当てはまる言葉であった。 当面、家族の食料作りが課題であり、水害で荒れ果てた土地を整地し、再び、馬鈴薯、大豆、黍、麦、野菜などを植えて 行った。
源蔵と利市が働き手であり、時々カネが手伝だったが、サノは出産以来、畑作に出て来ることはなかった。体力を使い切ったからであった。当然、人手が足りなくなった時、初めて、木下エノの助けを借りてみようかと源蔵は思った。源蔵は、役場に開墾の指導員を訪ね、補助の働き手を依頼する一方、滝川に出向き、直接、エノにを頼んだのである。源蔵にとって珍しく行動的であった。
 5月の終わりの暮れ方で、「えちご」は閑散としエノは店に出てはいなかった。女将に聴き、エノが借りている西裏通りの家を訪ねて行った。家は開拓小屋に似ていたが、その中の一室が借りているエノの部屋であった。エノは、勤めている呉服屋から帰ったばかりであった。部屋は、こじんまりとした渥酒な部屋で、小さな箪笥と鏡台が並び、部屋の真中に卓袱台が置かれていた。 前触れもなく、突然、訪れた源蔵を見て、一瞬、恐怖を感じたエノは、
「どうしたの?」」
と問い詰めるように言った。
突然、訪れた源蔵は、一人の中年の男にすぎなかった。 
「お願いに来ました。」
「お願い?…私に」
「手伝って下さい。畑を…。人の手を借りなければやって行けなくなった…。
明日からでも頼む。もう一人連れて…」
と年下の女に哀願するように源蔵は言った。
働ける話しを聴き、エノは、初めて安堵の表情を浮かぺた。強張った顔が微笑に変わった。
「わざわざ来てくれて有難う。手伝うわ。大将の許しを貰って…。」
とエノは言った。 
二人は律儀であった。
律義な者同志が、まともに生きて行ける人生がそこにはあった。至難な人生を歩いて来た二人であり呼号するものがあった。

エノが明治28年、空知太の駅で、あの野望に燃えた若者と別れ、31年8月、源蔵を知る迄の間に、3年の月日が流れ、その後、お互いが未曾有の災害に出会い、年を越し、間も無く4年の歳月を迎えていた。
その歳月の中で、あれほど固い約束をしたにも拘らず、若者からの音信は全く途絶えた。若者が、「再び北海道を目指す」と言った言葉を信じて良かったのか!若者が福井に帰り、いかなる方法で再起を期しているのか。エノは知ろうとしていたが敢えて連絡は取らなかった。若者の真実を知りたかったのである。
明治29 年、従兄の鉄五郎に若者が、福井で縁組をしたと聴いた時、エノは絶句した。裏切られたとは思はなかったが、信じていたものが音を立てて崩れて行くのをエノははっきりと意識した。網走で、若者がエノに渡した大枚の金は殆ど掌中にあった。これから女ひとりで生きて行くのに金銭の不安はなかった。
その上、エノの処世が周囲の信頼をかちえ、周囲から暖かい扶けを受ける迄になっていたのである。4年の歳月はエノを意思堅固で生活力のある女に育て上げ、エノは24才になっていた。そんな時、エノは源蔵を知ることになる。
その後、週に1. 2日、源蔵の畑に女二人の働く姿を見潜けるようになった。土を耕し種を撒き、草取りなど、エノの働き振りは男の働きを上回るものがあった。畑で種撒きをするときの素早さは目を見張るものがあり、一町歩近くの馬鈴薯の種撒きなど6、7日で片付けるほどであった。二人の女の蜂須賀農場での経験が物を言ったのである。 
「エノさんが来てくれて本当に助かる。」
利市は、ふたりの女に感謝の意を込めて、そう言った。
サノの体調は、平行線を辿り、良くも悪くもならなかった。ヲナヲを育てるのがやっとの体力では、労役はサノには無理であった。
サノは、畑に二人の女が出現したのを知ったが、自分の体力の衰えを知ってる以上、流れに任せるより仕様がなかった。
畑を女衆に任せる時は、 源蔵と利市は、原始林に入り、残っている木の伐採に全力を集中した。依然、熊笹を刈り、巨木を倒す仕事の繰り返しであった。 
夕暮れ、サノは、布団から出て、窓から、畑で働いている女衆を見ることがあった。源蔵の家族が一丸となって、手塩にかけた畑に今、女衆が来て、巧みに仕事をしているのを穏やかならぬ気持ちになって眺めているのであった。
「今年こそ、良い年になるように… …」
という思いがあり、働けぬ自分自身が情けなかった。
 
五月に入って、漸く野山に緑が蘇った。遠くのピンネシリも、近くの夫婦山も、緑を増した。尾白利加川に張っていた氷も溶け、近くの石狩川に流れこんだ。水害から逃れた菊水の土手の桜や、玉置神社の桜の蓄も膨らみ始めているということであった。 
それから一月後の初夏を思わせる日、源蔵とエノは、上徳富にある玉置神社の祭礼に出掛けて行った。
玉置神社も、前年の石狩川の氾濫で水害を受け、安全で、環境に適した徳富の中央地区に遷座させる気運が村人の間に持ち上がり、遷座の準備中であり、その日は上徳富では最後となる祭りの日であった。 
源蔵が新十津川に移住して、初めて見る祭りであった。その祭りの日を境に二人の関係は深みに入って行くことになる。
源蔵は、サノに充たされぬものをエノに求めていたのかもしれない。
一方、エノには、若者との絶縁の寂しさがあったのかもしれない。
当然、エノはサノの存在も知っていた。知っていながら源蔵に近ずいたのは何故であったか。
しかも、二人には親子ほどの年齢の開きがあったのに。
境内の幟も、露店も少なく、質素な祭りであった。静かに祭り囃しが流れ、数人の村人が撃剣に興じていた。
 鳥居をくぐり、本殿に詣でた時、突然、エノは、父を思わせる源蔵に若者には無い懐かしさを感じた。その懐かしさが、、今の、独りの、自分を救ってくれるような気がして、エノは柏手を打っていた。 
しかし、この日を境に源蔵を取り囲む環境は、苦渋の連続となってゆく。
その秋は、前年に比し馬鈴薯を初めとし、他の作物も、豊作とまでは行かず、普通の収穫量であり、かすかに希望の持てる年になった。
「神様の御加護のたまもの…」と源蔵は言って喜んだ。
サノは一向に回復せず毎日が布団の中での寝起きであった。半年が経過していた。
「菊水に出来た村医詰所に滝川から招かれて村医をしている鈴木莞爾という医者がいるので一度、往診してもらったらどうか」
という西村宏平の薦めもあって、鈴木医師にサノの体を診て貰うことにした。
しかし、直ぐには鈴木医師は上徳富の西村の家までは足を運ばなかった。
利市が再三再四、折衝を重ね、漸く12月の初め、鈴木は源蔵の家を訪ねたのである。
その頃の往診は乗馬であった。鈴木は聴診器をサノの体に当てながら、細部に渡って診断した。しかし、どこが悪いとも言はず、
「疲れているね。…当分休ませてあげて…」と源蔵に言った。
「休めば治るんですか?先生」と問う利市に、
「多分大丈夫でしょう…。きっと元気になるよ」と鈴木は言った。
鈴木はその時、3 0歳であった。千葉県印旛郡公津村の出身であった。従兄弟にあたる吉植庄一郎が雨竜村の恵岱別川と雨竜川の合流地点に農場を開くために50戸を連れて来道した時に、鈴木も一緒に来て医師を開業したが、新十津川で村医を求めていたので、明治28年、嘱託医として新十津川に迎えられていた。従って、雨竜や恵岱別について詳しい事情も知っていた。
鈴木はサノよりもヲナヲの成育が心配のようで、それからは、時々、源蔵の家を訪ねて来るようになった。往診の時は、手に牛乳の入った瓶を下げ、
「赤ちゃんに飲ませて…」と言ってサノに渡すのが常であった。
鈴木は温情に溢れた医師であった。 しかし、翌年の1月、ヲナヲの命の短いことを予告して、
「長くは持つまい。」
と源蔵とサノに念を押した。
ヲナヲは生まれながらにして未成熟であり、食糧の事情もあり発育が遅れていた。
 ヲナヲは、咳をしはじめ、発熱が続いた2月の中頃、鈴木医師や家族に見守られながら突然、あっけなく息をひきとった。肺炎が高じたものであり、僅か11ヶ月の命であった。サノは半狂乱であった。
「自分が殺したのだ…」
と言って泣き叫んだが手遅れであった。
これが、新十津川に移住してからの源蔵にとって第一の別離となった。
ヲナヲの亡骸は士寸の墓地に家族の手によって寂しく埋葬された。

明治3 3年、西暦1900年、西村源蔵の家族は、入植3年目に入っていた。当時の日本の政治、経済、社会はどのように動いていたか。義和団事件による北清事変が起こり日本よりの出兵があった。伊藤博文が立憲政友会を組織する。伊藤博文が日露協定交渉を開始する。田中正造が足尾鉱毒事件で天皇に直訴する。 日清戦争以来、再び日本全休が騒がしくなりつつある時代であった。世界的には、第一回、ノーベル賞が授与された時代でもあった。
 北海道の開拓は道東、道北に伸びていた。移住者は激増して行く。それ迄の開拓地に於ける農業は従来の和式の農法にプラウなど洋式の農具を組み合わせた畜耕平刈型の北海道的農法を確立させると共に、稲作も寒冷地に適した品種の発見、改良や、タコ足と呼ばれる籾の直播器の出現により大きく発達し始めていた。 
新十津川村では、大半の土地が開拓し終わっていた。畑作が中心であった。稲作は明治 26年頃から試作が行われていたが、明治30、3 1年の災害を契機に水田造成熱が急激に高まって行く。この2年間の災害によって、当時の重要な作物であった亜麻をはじめ、畑作は殆ど全滅に近かったにも拘らず水稲は何等の被害も受けず発熟したことによる。
道内各地でも水稲作は成功の域に達し造田熱は著しく高まっていた。 新十津川は、その試作期間を含め明治3 3年以降は水田造成時代に入って行くことになるが、これは、一部、第三章末尾に書いた通りである。

 この年、5月10日、皇太子殿下御婚儀の大礼に村民代表沖垣文太郎上京祝辞奉呈 
6月12日、東京高等師範学校長嘉納治五郎来村、 文武館において教育及び柔道につき講演
9月1日、新十津川農会設立    
10月14日、天理教新十津川出張所設立。この年、奥徳富学田地の貸付を受ける 
4月2日、北海道拓殖銀行設立 

畑作の季節が訪れたが、その時から女衆の姿は源蔵の畑から消えた。消えた原因を源蔵は知っていた。源蔵は前年の玉置神社の祭礼以来、時々家を空けるようになっていた。
理由をつけて滝川に出向き、エノの部屋に泊まってくるようになっていた。家を空けるのは家の重圧から逃れたかったこともあるが、明るいエノの側に居る時に不思議な開放感に浸ることが出来たからであった。 
1月、エノの部屋でエノは
「私、あんさんの仕事を手伝えなくなった。」と言った。 
「何故だ?どうしたんだ?」と源蔵は問い返した。
暫く押し黙っていたエノが意を決したように
「あんさんの子供が出来たの…」と言った。
「俺の?」
「そうよ、あんさんの子供よ!このお腹の中に、あんさんの子供が出来たのよ!」と念を押すようにエノは言った。
エノの、この言葉が源蔵を狼狽させた。困惑した、弱腰な、自信のなさが源蔵の顔を覆った。
前年の春、ヲナヲが生まれ、今またエノが懐妊したのである。しかも、産んだサノも生まれたヲナヲも、回復の兆しもなく、発育は遅れ四苦八苦の状況の中でのエノの懐妊であった。
 「あんさんを知る前に、命がけで好きになった人がいました。新しい仕事を探す人でした。しかし、燃え上がったのは極く僅かの時間でした。その人に、私は忘れられてしまったの。」
「忘れられてしまったの・・・・」
と言う言葉が意外に淡白であり、それが却ってエノの深い思いやりにも思え源蔵は押し黙ってその告白を聴いていた。 
エノは福井で、その男を知り、空知太の駅で別れた、それ迄の一部始終を源蔵に語ったのである。  
「その人を思い出すまいとすればするほど思い出されて苦しかった。あんさんを知った時は私が立ち直った時だった。みんなが扶けてくれた。有難かった。そして世間から嘲笑れるだろうけれど、あんさんを知った。私も開拓の土地に来て、ひとりの女として生きて行こうと覚悟を決めていた。しかし、あんさん。あんさんが居た。私があんさんと一緒になれないことは良く知っている。あんさんは遊びと思っていたかもしれないけれど゛・・…-。私は遊びでなかったつもり。たとえ、あんさんと一緒になれなくても、あんさんを想い続けて行こうと思ったの。あんさんの子を産んで育ててみよう。一人前の子供に育ててみようと思ったの。私は決して恥ずかしくない。あんさんの愛を信じるだけ。子供を育てて行けるお金もあるし…。」と言った。
 源蔵は頷きながら聴いていた。源蔵はエノなら子供を充分、育てて行けるだろうと感じていた。自信を持ったエノの女としてのとしての力を知っていたのである。信じてもいた。
「この若さで芯のある女だ」と付合い初めの時から感じていたのであった。

源蔵はサノにも利市にも、このことは隠していた。隠し続けていたが、家族に対する罪悪感は日を増すにつれて深くなって行った。 震えおののくような日が続いて行った。一層、罪の意識は強くなって行った。まともにエノの顔を見ることは出来なかった。かすかに「家を出る」という意識が心の中に芽生えて行った。
 源蔵は、時々、ヲナヲが埋葬された士寸の墓地に歩を向けた。墓標の前に立つ源蔵の頬を石狩の寒風が吹き抜けて行く。「あんさんを想い続けて行く…」そのエノの言葉が頭から去らなかった。 1900年一明治33年5月25日、
滝川鳥瞰図
滝川鳥瞰図  
石狩郡滝川村西裏通りの木下エノの住む一部屋で産声も大きく一人の男子が誕生した。 その日は晴れた日で、太陽が輝き、青空が何処までも広がり、石狩の野に五月の薫風が吹く快い朝であった。源蔵と「えちご」の女将が付き添った。  
「丸々と太った男の子よ…。お目出度う。目の当たりが父さんの顔に似ていて・・。きっと父さんよりも良い子になると思うよ」と源蔵の顔を見ながら産婆は笑って言った。
 産婆がいくら励ますように言っても源蔵の心には喜びが湧いて来なかった。生まれて来た子は、明確に源蔵の私生児であり、源蔵とエノの、道にはずれた不義の子であり、源蔵の過失は明らかであった。又、サノに対する明らかな背信であり、罪悪感は一層募った。 それを回避する方法としてそれ迄にも、源蔵は産婆に頼み、子供を欲しがっている、どこかの夫婦にでも預けて世間の目から逃れる方法はないかと思案することがあった。
そんな事をエノに冗談を装って話してみた時があったがエノは頑なに受付けなかった。そして生まれて来た今も源蔵の、ためらいと尻込みは変わらなかった。エノは源蔵の逃げの心を見透して  
「あんさん、私が育てますよ。育てて行く自信がある。あんさんの手を借りずに立派に育てて見せますよ。乳だって、こんなに沢山出るんですよ。」とエノは言った。 
一人の女が開拓の地に踏み留まって、運命とは言い乍ら、一人の男に出会い、そしてその子まで出来てしまった事にエノは悲運を感じていたが、決して表には出さなかった。
 エノの体は出産という女としての大仕事を終えた割りには若々しさが漲るっていた。考えも若さに似合わぬ堅実なものがあった。 
 「この子は運命を背負って生まれて来た。しかし運命を怖れずに、どんな荒波にも負けないように私は育てて行きたい。この子が大きくなって私とあんさんを恥じるような時が来るかもしれない。その時に、私の生き方が正しかったか、あんさんの生き方が正しかったかを、この子が決めるでしょう。その為にも私は、この子を決して捨てることはしない! !あんさん!お願いです。名前を付けて下さい。名前を付けて下さい!」と哀願するようにエノは言った。

 それまでに源蔵は死なせた子もいたが、一男七女の子を作っていた。つい三ヶ月前にヲナヲが逝き、目まぐるしくも、代わって、男の子の誕生である。長男に続いて男の子は二人目であった。自分の名の一字を取って
「源二郎ではどうか」とエノに言った。
エノは頷いた。「あんさんの家にはないような名前ね。西村源二郎、強そうな名前。語呂も良い。ついでに今日から私も、西村エノになる。」とエノは嬉しそうにそう言った。
 西村エノと言う言葉を聞いて、源蔵は戸惑いを感じたが、今はどうすることも出来なかった。しかし、それは不合理で悲哀の伴った解決であった。そして源二郎はその後、「仇の子」と世間から噂されるようになるのだが…。父と母は、まだ、そこまで考えるゆとりを持ってはいなかった。 

エノに急かせられるように源蔵はサノに隠れて、明治33年5月26日、源二郎を戸籍上、西村源蔵と正妻、サノの二男として村役場の戸籍係に届け出た。「沖垣文太郎受付同日届書発送同年六月壱日受附」と戸籍台帳に記録されている。それは全くの虚偽の申告であった。源二郎の非嫡出子(婚外子)としての事実を嫡出子(婚内子)に変えたのである。明治はそれが許される時代であったのであろうか。 源蔵はこの事実を数ヶ月後、サノに告白する事になるのだが、サノはその時から一層体が衰弱して行く。

光源西村源二郎は、父、西村源蔵と母、サノの弐男として、明治33年5月2 5日、北海道樺戸郡上徳富1340番地にて出生したことに戸籍上記録されている。 
しかし、これは一見、自然で正確なようであるが極めて不自然な入籍と言わざるを得ない。それは、源二郎が父、源蔵と木下エノの子であることを一部資料が物語っているからである。又、サノの出産過程を検証して見てもそれは確認出来る。 前年、明治32年3月1 6日、七女、ヲナヲ出産、この時、源蔵、44歳 サノ、4 7 歳であり、源二郎が、続いた年に同じ母から生まれた子。一つちがいの姉弟の年子と考えても不自然と言わざるを得ない。両親がいかに生殖能力があったとしても、出産の適齢期を遥かにに超えた高齢であり、開拓の地という不便な環境の中で2年続きの出産は不可能と思われるのである。
戸籍法上、源二郎は非嫡出子(婚外子…)であった。そうであれば何故、認知の(法律上で婚姻関係以外で生まれた子の父又は母が、その子を自分の子であると認める行為)届けをしなかったのか疑問なのである。様々な要因が考えられるが、ここでは、源二郎の将来を考え、西村家の血筋として虚偽の申告をして安泰を図ったものと見るべきであろう。源二郎に取ってそれは逆に、幸運であったと言えるが…。
虚偽の申告が可能であったという事については、作家、佐多稲子の「ある女の戸籍」にも書かれているが、要は、明治の戸籍法が完成されずに、細部に至るまでの法の適用が為されて居なかったのではないかと推定される。
事実、当時の戸籍謄本上に記載されている事柄については理解し難い事項が散見される。明治の時は、そして新十津川村では、その程度の戸籍管理であったろうと納得するより外ないめである。
しかし、これでは、家系の流れを知ろうとする場合は極めて真実から遠いものになって行くにちがいないのである。
今、西村源二郎の出生を書くに当たって、そのことを痛切に感ずるのである。 
誰でも、一生の知られたくない部分については語らない。語ろうとしない。西村源二郎も語らない。又、今から100年前の事については確かめられぬ事もある。ただし、異腹の子であったことについては、西村康之氏の一文が参考になる。 
開拓民のくらし
開拓民のくらし  
 「西村エノという女性像は戸籍に現れて来ない、いわゆる正妻ではない女性なので謎に包まれたまま封印されているが…。源二郎が仇の子と呼ばれていたこと。源二郎がわが子にさえ、生母のことを語らなかったこと等を考えると、情熱家で独立志向の強い肌あいの異なる女性像が浮かんでくるのである…」と書く。 
ここで仇の子とは何を意味するのか。「仇の子」とはカタキノコと呼ぶのが正しいのかアダノコと呼ぶのが正しいのか。
他の開拓物語の中に父親違いの子を「いじわる子」と呼んでいるのを読んだ記憶があるが、その意味は「不倫の子」としての共通した意味を持つものであろうか。
筆者は、「仇」は「徒」に通じるものではないかと考えた。「徒」を使った言葉の中に、「あだの名」(浮気だという評判)「あだの枕」(かりそめの情、男女のはかない交情)等の言葉があるが、交わりの不正常な状態を意味していることに「仇の子」と併せて意味の深さを改めて知るのである。 
さらに新十津川町史第1 8章町民生活。第四節 結婚・誕生・葬送・成人式・娯楽の中に「ヨバイと酒つり」の一項目がある。奈良十津川にはヨバイの習慣があった。
「若い衆が夜分、好きな娘のところの家に行き、雨戸をこじ開け娘のところにしのびこみ若い衆と娘が結ばれる…。このような風習が新十津川に持ち込まれたのはたしかで、新十津川のチョウチンヨバイといえば随分有名であった」とある。
「仇の子」と関係深いように感じられここに記しておく。
ヲナヲが逝き、源二郎が出生し、これ以上の生死の波瀾に出会うことはなかろうと、ただひたすら無事安泰を祈っていたにも拘らず、途切れることなく波瀾は訪れる。
 何故に生死が斯くも執拗に繰り返えされるのであろうか。奇異な感じがする。
しかし、個人の生き方次第では、波瀾は制御出来るはずである。波瀾は運命がもたらすものではない。源蔵の生き方には波瀾を招く要素があったのだと言えなくもない。軌道を踏み外した者に慈悲と無慈悲は交互に訪れて来ることになる。
 木下エノが人の子を生み、それがきっかけとなり、形だけでも西村エノと改姓したことについては、下徳富の西村宏平にも雨竜の近藤林太郎にも即ぐ伝わった。 近藤は、エノの人柄を知り尽くし、若さに似合わぬ苦労人であることに好感を抱いていたのである。そのエノと源蔵の近ずく原因を作ったのは近藤自身であり責任は重かった。近藤は二人が結ばれることを等閑視していたと言ってよい。反面、飲み屋で知ったエノを守る責任を自覚していたのである。
 一方、西村宏平には源蔵を新十津川に呼び寄せた責任があった。サノを守らなければならなかった。両者両用の立場があったのである。、それぞれ別の場で、二人は源蔵を厳しく責め立てた。
「開墾はどうなる?生きる糧をどうする?」と宏平は言った。
「お前さんは家族を養う資格はない!」と近藤は言った。
厳しく責める二人の言葉は源蔵に対する叱咤であり、源蔵の再起を促す言葉であった。
二人はずば抜けた硬骨漢であり、その時、二人の目的は新十津川と雨竜で達成される寸前にあった。源蔵を置きざりにすることは出来なかったのである。
源蔵は二人の言葉を反芻したが、今はどうすることも出来なかった。ただ一度の過失が大きな波紋を呼んで行く。ただ一度の過失が流れを大きく変えて行ったのである。 

西村エノは女ではあったが、自立する力を持っていた。その自立する力に源蔵は甘えていた。己の責任を回避していた。
「あんさんを想い続けて行く」と言うエノの言葉に甘えてもいた。
今、二つの世帯を同時に切り盛りする力は源蔵にはなく、綱渡りの状態であった。家を出る事を考えたが、それも優柔であった。
武人であった興市が家訓の中で、克己を説いたが源蔵は、それに目覚めていなかった。 その上、現実に、未開墾の土地が残っていた。目途を立てなければならなかった。斧を持ち、鍬を手にすることが源蔵の使命であった。源蔵は、今こそ目覚めなければならなかった…。


明治3 3年は、兎も角も、石狩地方は天候の異変は少なく、前年の水害の後遺症からも立ち直り、畑作も順調に成育して来ていた。 
上徳富の源蔵の畑から女衆が消えて久しかった。その分、忙しさは増した。サノの体調の回復は遅かったが、時々往診に来る鈴木医師の診察もあり、家族の食事の準備やサタノの世話を出来る程になっていた。
しかし、衰えた肉体は再び元に戻ることはなかった。女衆の消えた分、カネが働くことになる。カネは1 8歳になっていた。畑作の合間を見て源蔵と利市は木の伐採に全力を傾けた。しかし、それとは別に源蔵の滝川行きは止むことはなかった。利市とカネは次第に源蔵に対し不信感を抱いて行く。 
3 3年の8月の終わり、久し振りに開拓の指導員と西村宏平が訪ねて来た時、利市とカネは、源蔵とエノと源二郎の三人の事を宏平から聞かされることになる。宏平は、上徳富の一部の水田化の相談に来ていたのであった。それ迄にもカネは、村の知り合いの家で源蔵の噂を聞いていた。
「お前の家の親父が…」」と、その男は言った。
「お前の家の親父が女と滝川の町を歩いていたのを見た…」と男は言った。
男は滝川と新十津川を行き来する駅逓で働く男であった。
 源蔵は、時々、夜遅く酒の臭いをさせて家に戻ることがあったが、カネは、雨竜に住む美馬の仲間達と飲んで来るものと理解し余り気に止めることもなかった。しかし、源蔵の行動は度を超えて行った。
その頃は、異常と言える程になっていた。 その事をカネは西村宏平に話したのである。西村宏平の顔が強張った。宏平は、今は二人の子に真実を伝え、父親としての立場を理解して貰うように話すべ・きだと思ったのである。
宏平は、源蔵と女が結びついた過程を話し、子供が出来ていること。女は若いけれど非常に出来た女であること。子供だけを西村の籍に入れた事などを神妙に話したのである。その話しを聴きながら、利市は、
「あの女は仕事の出来る人だった。」と言った。
利市は、源蔵と女の歳の隔たりを考えていた。若い女だと思っていた。それがどうして結ばれたのか不思議であった。しかし、男女の感情の流れを理解することは出来なかったが、今の自分の家の在り方を考えながら、そんな結果になったことが分かる気がしていた。
収穫の終わった1 2月に連続して源蔵は家を空けた。既に年の瀬が迫っていた。その頃の源蔵をサノは諦めていた。しかし、一家の主が居ない年の瀬は惨めであった。
 利市とカネは母を慰めていた。利市とカネが側に居る限りサノは平穏であった。利市とカネは源蔵の事は隠しに隠していたのである。しかし、堪えきれなくなったのは利市であった。
「親父に女が居るんだ」と唯、一言、言ったのである。その一言でサノは全てを理解したのである。 
通夜のような年の瀬が続いた。サノの無言の日が何日も続いた。源蔵が帰って来て、その異状さに驚いたが、ただ沈黙しているサノに手の施しようもなかった。 年が明けた松の内の一日、利市が源蔵を責めた。
「親父!おっ母をどうする積もりなんだ!親父の連れ添いだ!粗末に扱ったら罰が当たるぞ!」と利市は言った。
「親父は侍の倅だ。侍には侍の情けがあるだろう。何の為に北海道に来たんだ!侍であることを忘れないでくれ。女も子供も捨ててくれ!」と容赦なく利市は言った。 
「捨てる事は出来ねえ。捨ててどうしろと言うんだ。わしもエノも浮かばれねえ。許してくれ。頼む!利市!わしを扶けてくれ!働くんだ。ただ働くだけだ!」
 そう言う稼猛とも思える源蔵の目から涙がこぼれ落ちた。
今では、エノも子供も不思議な程、喪いたくなかった。エノの子供が西村の血を正当に引き継いで行く気が源蔵にはしていたのである。
 それがあっても、源蔵は滝川行きを止めることはなかったが、上徳富に居る時だけは、人が変わったように働き続けて行った。利市もカネも、その源蔵の働きに目を見張った。 三人の働きが次第に農地を殖やして行った。速度が増したのである。その年の春には、一町歩程の水田も造り始めていた。

明治34年5月20日から5月29日にかけて石狩地方に豪雨が降った。しかし、上徳富は被害を受けなかった。3 2年の被害を反省し、対策に怠りは無かった。灌漑も整備され始めていた。試みに造った水田も被害は無く水田の良さを再認識する程であった。その年は平穏に暮れ、収穫も先ず先ずの出来であった。一方、サノの体は衰弱して行く。一時は回復の兆しも見え、家事にも携わる程であったが、畑は無理で、働く体力を失っていた。源蔵の事があって一年後の秋も終わり、診察していた鈴木医師が、
「肺かもしれない…」と源蔵に漏らした。
「肺?」その頃からサノは、体がダルそうで、何事も根気が続かぬようになり、時々微熱も続いた。
サノは、源蔵の事を知ってから、気力も衰えて行くようであった。しかし、心を入れ替え、命賭けのように働く源蔵を知り、事は事として許していたのである。その間、病は急速に進行していたのであった。

 明治3 5年、この年は、春になっても雪の溶けるのが遅かった。雪が溶けても春らしい日和は戻らなかった。石狩地方の気温が低く、夏になっても畑作の成育は不良であった。冷害が石狩地方を襲ったのである。 気温の低いのも影響してか春先からサノは布団から出なくなった。食事の量も減って行く。咳も出、血痰も出るようになっていた。五月の終り、サノは初めて喀血した。枕の側の手洗いの桶に、血を吐いたのである。 鈴木医師が駆け付け、注射をし、薬を飲ませたが、それは一時の凌ぎに過ぎなかった。数日後、鈴木は「詰所の病室にザノを入れてはどうか」と言った。菊水に簡易な療養所が出来ていたのである。しかし、「詰所に入る」と言うことは、病人の末期を意味していた。
「もう、二、三ヶ月しか持つまい」と鈴木は言った。
鈴木は、このような病人を多数看ていたので、その診察に狂いはなかった。源蔵も利市もカネも茫然としていた。サタノは、
「かあさん かあさん」と泣き、側を離れない。
鈴木医師の宣告に、三人はサノを詰所に入れる事は止めた。このままで、この家で。死を迎えさせようと考えたのである。源蔵も家から出なくなった。サノの側に居てやる事がサノを救う事だと考えたのであり、それは当然であった。この年。源蔵の事があったこの家で、サノが死を迎えようとしている、その時に、更にもう一つの不幸な出来事が進行していた。 あれ程、源蔵の所業を非難していたカネに、村の男との付合いが始まっていたのである。。
この年の7月で、カネは2 1歳になっていた。年齢としては、結婚の適齢期であったが、。その付合いに確としたものがなかった。 それ迄、人知れず、家の近くに男が出没することがあった。その影に誘われるように、カネも家を空けた。男の苗字も名前も明らかでなかった。本人同志は素性を確かめていたのであるが、カネは相手の事は秘事として口を閉ざして語らなかった。男の方は、夜這いに似た感覚であった。その場限りの悦楽をカネに求めていたのかもしれない。カネ自身は、男の魔性に魅かれたのかもしれない。父親の不在。母親の病床。サタノの養育。その上での畑作。カネは疲れていた。疲れ切っていたところに魔性が忍び寄ったのである。間も無く、カネは、正体の知れないその男の子を宿すことになる。子供を宿しながらのサノの介護を勤める日々であった。一度だけカネはその男に言ったことがある。「家に来てくれますか」男は黙っていた。
「私はどこに行けばいいの?」尚、男から返事は無かった。
その男の子をカネは宿していたのである。
明治3 5年8月の初め、サノを訪ねて来た親子があった。今は仮にも、改名もした西村エノであり、その側に子供の源二郎が立っていた。源蔵と利市が畑から駆け付け、カネもサノの寝ている部屋に来た。サノの枕の側にエノが座り、その横に源二郎が座った。源二郎は三歳の夏を迎えていた。股引の上に絣の着物を着た幼い源二郎は、丸々と太り、利発そうな目が黒々と輝きサノを見詰めていた。エノと源二郎は不思議に源蔵の家族を圧する風格を持っていた。  
「お初にお目にかかります。私が西村エノです。」とエノは言った。 
 「西村?」と、利市が反問した。  
「はい。苗字はあんさんから頂きました。この子が源二郎です。」と言った。
その時、源二郎は取り囲む家族を見ながら子供らしくかすかに笑い頭を下げた。
源二郎は家族に初対面であった。相変わらず源蔵の事を、あんさんと呼ぶエノである。しかし、飾り気のない真実味のある挨拶であった。 弱々しく目を見開いたサノはじっとエノと源二郎を凝視した。
そして
「サノです。」と静かに言った。
親子程年齢の違う二人の母親がそこに居た。  
「今日は私の過ちを詫びに来たんです。許して下さい。私が悪かったのです。あんさんを誘ったのは私です。」と言って深々と頭を下げた。
「あんさんの畑に来て、あんさんを知ったのがきっかけでした。あんさんに扶けて貰らおうと思って。寂しかったんです。辛い毎日で今日まで来ました。許して下さい。…私はこの子が必ず一人前になると思っています、仇の子と呼ばれるかもしれない。しかし、私は仮の親で、本当の親はサノさんです。私は、あんさんとサノさんの子として大事に育てて行きます。」とエノは心のままに言った。 
 「あんたは若い…。働きどきだね。子供も元気だ。私は美馬から遥々この村に出て来て、こんな様になってしまった。暮らしに望みを抱いて来たのに…。娘も死なせた・・・。ただ、自分が情けなくて…。利市とカネが頼りで…二人が居れば安心で…」
 弱々しく途切れ途切れに言うサノの言葉を聴きながらエノは手下げの中から慰斗袋を差し出した。 
「これ、私の気持ちです。使って下さい。良くなって。良くなって…皆を安心させて…」エノは心から言った。
エノの差し出したこの見舞の金は今まで手を着けずに来た網走で若者から受け取った生活のための金であり、人生の闘いの為の金でもあった。
 「有難う…。源蔵をよろしく…。」と、サノはかすかに言った。
それはサノが源蔵を工ノに託す最後の別れの言葉であった。その母二人のやり取りを源二郎は、じっと不思議そうに見詰めていた。三歳ではあったが、この時の遠い記憶は源二郎の脳裏から生涯消え去ることはなかった。弱い午後の陽射しが降り、暑さの来ない夏の一日であった。

明治3 5年8月11日、午後8時、再び喀血があり、薄幸のサノは息を引き取った。安政元年9月3日誕生のサノは、その時、4 9歳であった。源蔵にとって新十津川でヲナヲに続く第二の別離となった。野辺の送りの日、西村宏平や、近藤林太郎、国見泰平等が弔った。サノの死顔は穏やかであった。棺の中にサノの使っていたズタ袋、草履。足袋などを入れた。棺の蓋を釘で止める時、カネは、何を思ったのか大声で泣き始めた。利市がカネの肩を抱き、宥めたが泣くのを止めなかった。カネの泣き方は確かに異状であった。そして、かすかに呟いた。
「私も逝きたい…」と。
つづら折りな野良の道を同郷の有志に担がれた亡きサノの棺が行く。位牌を持つのは利市。源蔵とカネやサタノは導師の後に続いていた、林の道に入った時、秋の日の弱い木洩れ陽が棺を照らした。数匹の蝉の声ははあったが異状に早い秋の訪れであり寒ささえ肌に感じられる昼時であった。 
源蔵は、重清村でのサノとの生活。移住の時の心労などを歩きながら思い出していた。自分とサノの二人の夫婦としての生活は一体何であったのだろう。一瞬の休みもなく押し寄せた来た人生の波涛。開拓の地での悪戦苦闘。この三年間は取る作も取る作も思うような収穫も無かった。何遍もサノに手を着いて謝りながら今日まで生きてきたがそれは何であったのだろう。空漠たる二人の人生に何の価値を見出だせばよいのか。その幸せを、その栄光を見届けることもなく、ただ働くだけ働き去って逝ったサノ。
ヲナヲが死んだ時、
「自分が殺したのだ…」と泣き叫んだサノ。
今、源蔵の心の中に、ひたひたとサノを喪った重い悔悛の情がのしかかって来ていた。
 香華が供えられた墓地の、ヲナヲの墓標の側に掘られた土の中にサノの棺は埋められた。弔いの人が、それぞれ棺の上に土をかけていく。読経が続いた。 この墓地には真新しい墓標が多くあった。サノと同じように開拓の途次、倒れて逝った先住者の墓であり、それらは、次の時代の為に闘った戦士の墓であった。

エノはサノの死を滝川で知って、静かに合掌した。「開拓には鋼(はがね)のような強い意思が必要なのだ」と思った。
源二郎はエノの様子を見て、その異変を知ったようであった。「上徳富のかあさんが死んだ」とエノは言った。「かあさんが……死んだの?」と源二郎は問い返し、それからは無言のままであった。 源二郎が物心が着いて来た時、側に父親は居なかった。一緒に住んでは居なかった。自分の側に母親が居るだけであり、時に母の友達が遊びに来ているものとばかり思っていた。父を母の友達と幼い源二郎は理解していたのである。しかし、友達が来た時だけは、母は活々とし、元気が良くなるのが不思議であった。 あの時、何故、母親に連れられて、遠い友達の家に連れて行かれたのだろう。その家で、母親は、何故か真剣な目付きで取り囲んだ人達に頭を下げていた。その人達の中に、時々訪ねて来る母の友達が居たのは何故か。そして、その布団の中で寝ていた人が死んだと言う。源二郎は未だ人の死を理解出来なかった。出来なかったが、何か重いものが起きたのだという事は子供ながら感じていた……。

その年は異常な低温が続いた。夏になっても肌寒く、冷害で不作の年となった。不作は新十津川の不景気を生み出して行く。 そして、西村源蔵の家族の生死は、これで終らなかった。カネに関わる生死が翌年、明治3 6年に続く。非情の運命と非情の年としか言いようがない。サノが去った翌年、明治3 6年4月、カネが一人め男の子を産んだ。サノが去って半年後の事であった。カネの懐妊は、サノの死の前から、その兆しが見えていた。宿した事については、源蔵や利市に打ち明けたが、その子の親が、村の誰であるかは頑くなに明かそうとはしなかった。しかし利市には思い当たることがあった。去年の夏、家の近くの林の入口に立って居る青白い影のある若い男が居たが、利市を見ると、即ぐ小走りに逃げ去った。「あの男だ!」と利市は思っていた。 そして「露西亜との戦争が始まる」という噂が村に流れ、村からも兵役に取られて行く若者が多くなっていったが、その中にその男が居た。旭川の第七師団に入隊したのだと、これも噂で聴いた。利市が、その事実を相手の家に問い正そうとした時、その家族は村から消えていた…。後の祭りであった。 サノが去った時、悲しみに明け暮れたのはカネであったが、カネの深い悲しみは、その男の狭間で揺れ動いていたのが、その原因の一つであった。

今、源二郎が残した「祖先の記」の家系図には、カネの夫を「某」としか表示していないのは、西村家が「某」を隠蔽したか、確認することが出来なかったかの何れかであろう。
 榊原冨士子編「戸籍制度と子どもたち」によれば、 「日本の婚外子に対する差別の根底に戸籍制度が大きく横たわっている。」とある。 「婚外子を産むど戸籍が汚れる”などと言われ、他の家族の結婚に差し支えるとも言われたり、あるいは、父に家庭があれば、“家庭を壊しだと言われる。実際に婚外子の戸籍は、見れば、すぐ、婚外子であるように表記されている。筆頭者との続柄は、女、男、と性別しか表示されない。婚内子は「長女」「二男」と表示される。認知がなければ父の欄は空欄となる。だから、婚外子の中絶率は婚内子に比べて非常に高い。婚外子を生むことで、子ども自身も差別され、親もまた、社会的に孤立することが予想されるからであろう。」とある。

 カネの生んだ子は「勇」と命名されたが、その戸籍欄は上記の通り父の名前は記載されず、続柄も「男」と表示されているのである。源二郎の戸籍欄と比較し、対照的と言わざるを得ない。
ただ、命名された「勇」という名前の謂れについては、種々推察されるものがあるが、ここでは推測の域を出ないので書かないこととする。
源蔵は、カネを除籍は出来ず、「勇」を戸主、源蔵の孫として入籍する。以後、利市が「勇」を養育することになって行く。 そして、西村家の血統が、谷本家に嫁した長女、クラにも、長男、利市にも世嗣が誕生しなかった結果、この婚外子、西村源二郎、西村勇に引き継がれて行くことになるのは運命の悪戯と言うべきであろう。
勇を生んだ後、カネも又、回復は遅れ、布団の中の寝起きとなった。勇を生んだことを誰も祝福しなかった。カネだけが愛情深く、わが子を育て始めていた。 あの明治3 1年の大水害の時、「四国に帰りたい!」と泣き叫んだのはカネであり、父も母も信じる事が出来なかったあの時のカネであった。ただ、利市の励ましに引かれ、今日まで生きて来て、今また、辛い苦しみに出会ったことに不思議な因縁を感じていた。勇を生んだ後、カネも又、回復が遅れ、布団の中の寝起きとなった。祝福のない出産であったが、源蔵にとって初孫であった。源蔵と利市は、神棚に、神酒と僅かな餅米で作った赤飯を供え、源蔵は柏手を打った。「この子だけは一途に育てて行こう」と誓ったが、苦しい神頼みであった。カネも神に祈った。 
サノが死の前、
「お前、この頃、どこか変だね。訳がありそうだ」と呟くようにして問い質したことがあった。
「訳があるなら言いなさい。ひどく、ふさぎこんでいる」搾り出すような声で言った。
その時は既に、サノは話す力を失っていた。
「母さん・・・」と薄い翳りが溜まっている顔で、
「子供が出来たの…」とカネは言った。
「相手は?」と言う問いに、
「言えません!言えないの」と必死でカネは言った。
 「今となっては私の間違いだった。初めは好きな人でした。しかし無理矢理に…。最後は、その人が可愛想になって。…」
「可愛想なことなんかあるもんか。お前は責任が取れるのかね。…」と言うサノに、
「仕方がない。神様が授けてくれたと思って・・・私の子供として育てて行く…」とカネは言ったのだ。 
「苦労するよ。私はお前に何もしてやれなかった。謝るよ。許して。…悔しい。心配だ。挫けないで、良い子を生んで…育てて。」そうサノは言って大きな溜め息を出しカネから目を放した。
それから数日してサノは去った。カネにとって信じることの出来るのは母であった。母の命が救われる事を念じていた毎日でったが、その希望の灯は消えたのである。その時の事があって、カネの悲嘆は、どうしようもなく激しかったのである。 源蔵も利市も自分達が、カネを扶けて生きて行こうと思っていた。カネも強く生きて行くものと信じていたのであったが。 そのカネが、その年。明治36年8月1 9日の朝、サノが去って僅か1年の後、流行病に罹って去って逝くことになるとは。 カネも入植以来の疲労が積み重なっていたのである。流行病に罹る素地があったと言わざるを得ない。 初め、寒気が来た。次に吐き気が来た。腹に異状の痛みがあった。「おこり」であった。蚊によって媒介される病であった。 何枚か布団を重ねて着ていたが、蒼白な顔でカタカタ慄えている。体温も40℃を超えていた。体を慄はせながら腹の痛みで夜中中、七転八倒を繰り返した。 きなえん(こキニーネ)を持って鈴木医師が駆け付けた時は既に手遅れであった。口に薬を含ませてから1時間後の午前10時、カネは、源蔵、利市、サタノに見守られながら息を引きとった。 源蔵も利市もサタノも茫然自失の状態であった。人の死が斯くも簡単に訪れるものであろうか。一寸先は闇であり、これが人の世の儚なさであろうかと源蔵は思っていた。戦士が又一人去って行った。カネはサノの側の墓地に埋葬された。蝉しぐれが激しい夏の盛りの日であった。
この年、新十津川在郷軍人団が組織され戦雲はこの村にも押し寄せて来ていた。又、上徳富シュスン川水田組合が創立されている。




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