第一部 開拓篇

第六章 生きてある日々




明治3 7年2月、日本艦隊の旅順港外の露西亜艦隊への攻撃を端緒に、対露宣戦布告は発せられた。 満州を自己の支配下に掌握しようとする両国の帝国主義政策の対立にあった。
 旭川第七師団にも旅順攻略のための動員令が発令されていたこ この年、新十津川村では、「全村的水利計画が意見の不一致から難航したため森秀太郎等、上徳富、5 1人の有志を集め、士寸川以南の高台から石狩川に至る区間を一区域として徳富川から引水し、八百町歩を造田する計画をたてた。この工事は無許可のまま着工し、翌38年5月完成した。」上徳富の水田計画が着実に進行し始めていたのである。
この年、源二郎は五歳の春を迎えている。源二郎が初めて人の死に出会っだのは、去年、母のエノと源蔵の妻、サノを見舞った時であった。見舞って数日経ってからサノの死を知ったのだが、痩せ衰えたサノの顔は源二郎の記憶に残った。同時に、父である源蔵を、ただ母の友達という感覚で受け取っていたが、次第にその考えに変化が起こり始めて来ていた。  

サノの死後、一年の間に、カネの死もあり、源蔵が滝川に来る回数も少なくなったが、それでも、時に訪ねて来た時の、源蔵の取る仕種、それに対する母の応対を見て、二人の関係に普通でない何かを感じていた。又、源蔵の住家と母の住家が何故に斯くも遠く離れているのかと不思議であった。

その頃、時に、母は、源蔵の事を「父さん」と呼ぶことがあった。「父さん」と呼ぶ、その言葉も不思議であった。事実、親子として、暮らした時間は少なかった。父を父として理解出来なかった。母も又、父を父として知らせる事はなかった。母は、時に自分の勤めている呉服の店や、飲み屋の「えちぜん」に連れて行くこともあったが、源二郎はその職場が何をする所なのか分からず、又、理解しようともしなかった。
母は「働かなければ人は生きては行けない。だから働くの」と言いながら、源二郎を呉服屋の旦那の子供部屋で遊ばせながら、自分は店に出て客の応対に努めていた。 窓の隙間から、母のその姿を見ながら、働くということは、こういうことなんだと源二郎は思ったこともあった。 ただ、母の手に引かれ滝川の本通りを歩く時だけは、妙に冷ややかな他人の目に出会う時があり、子供ながら、「何故なのか?」と思うこともあった。 
この時、源二郎が思ったのは「家」であったかもしれない。「家」が己を生かし、守り、育て、働かせ、尚、終わりには死を与える。源二郎にとって、「家」とは無限に深い意味の伴うものであった。 その頃、源二郎の考える事に、もう一つ「国」があったかもしれない。源二郎は時に、振られる日の丸の旗に送られて、出征して行く若い村人を見たことがあった。「その村人はどこに行くのだろうか?」と思ったことがある。「兵隊さん…」エノが呟くように言った言葉が耳に残った。 

また、兵隊服を脱いだ屯田兵が野良着に着替え野良仕事をしているのを時々見掛けた。「その人はお国のために…」働いている。その「お国」とは何であるのだろうと思った。 「国」と「兵隊」が重なりあって、

「日本」という言葉も聞いた。日本と北海道の大きさも想像してみた。広大な石狩平野、そこを流れる石狩川、空知川、遠いピンネシリを中心とした山脈。恵まれた天然。広大な日本の自然であった。 しかし、源二郎にとって、それは、まだ判然として理解出来ぬ年代であった。
その年の春。野良着に着替えた母に着いて行き、雨竜の畑で一日を過ごした事があった。雪が溶けて、畑の土起こしの頃であった。土起こしとは、冬の間に固くなった土をほぐし、柔らかくし、肥料を与え、種を蒔き、苗を植え付ける状態にすることである。 広大な畑の一角が母の引き受けた作業場所であった。寒い春の日であった。小川の流れる側の、畑の畔道に源二郎は一人、置かれた。
「仕事が終わる迄、待っていて…」
母は、そう言うと畔道に筵を敷き、その上に、毛布と、水筒と、麦飯を置いて、鍬を手に持ち、まだ、耕していない土を踏み締めながら歩いて行った。
何時まで待てば良いのかはっきりとは言わなかった。 鍬を振り下ろす母の働く姿が次第に離れて行き、豆粒のように小さくなって行く。豆粒が二つ、三つ、動いている背後に、遥かに遠い地平線があった。小川の側で遊んだり、枯れ草の茂る道を歩いたり、麦飯を食べたりしていた。豆粒のような母は、一向に働きを止める気配はなく、ただ黙々と鍬を振り下ろしては持ち上げていた。
「ただただ広い畑だ」と源二郎は思った。 
夕方、寒さが増し、風が出て来た時、源二郎は初めて半泣きになった。しかし、泣き叫ぶ事はしなかった。母が仕事を終え、帰って来た時は既に暮れ始めていた。
「良く待ったね」 平然と、そう言う母を源二郎はきつく睨み母の側に駆け寄った。「働かなければ人は生きては行けない。」 だから母は働いていたのか…。 その時の孤独感と夕暮れの寒さは、忘れずに残ったが、あの広大な大地もまた源二郎の脳裏に強く残ったのである。


母は、その夏から上徳富の源蔵の畑で働くことになった。サノ、カネが去り、働き手を失った結果、源蔵と利市だけでは労力不足であった。一方、源蔵は西村宏平に相談し、開墾中の土地のうち、約、2町3反の権利を利市に任せ、自分は、かねてから近藤林太郎に勧められていた、小作として条件の良い雨竜村の恵岱別に入植しようと
冬の滝川
冬の滝川
冬の恵岱岳
冬の恵岱岳
考えていたのである。当然、恵岱別では、エノとの同居も考えていた。  しかし、この同居は実現しなかった。 いずれにしても、この年は何等かの対策を必要とする年であった。エノは、源蔵の願いを聞き入れて、夏の訪れを感ずる五月の末、源二郎を連れて源蔵の家に来た。 源蔵と利市が見守る中でエノは粗末な家具の上に置かれたザノとカネの位牌に手を合わせた。それが源蔵の家での再度の活動の開始を意味していた。しかし、二年前の手伝いと違って、今は、微妙な立場であった。周囲の目も厳しかった。サノの死も絡んで仇の子を生んだエノに対する村人の風当たりは強かった。 ただ、源二郎だけは別であった。本人は、幼かったが、礼儀正しく、快活であり、利発であった。周囲の誰からも愛される素地があったと言えるが、源蔵の家の暗い雰囲気を奇妙に明るくさせたのである。  源蔵、利市、サタノ、勇の四人の家族の中に、一人の異能が加わったのである。その意味でエノと、源二郎の源蔵の家への参加は、今迄の沈滞ムードを転換させる上で好結果を生むことになった。そして、エノと女衆の参加は畑作の速度を増すと共に、家事についてのやりくりも今迄よりも楽になって行ったのである。 エノは、サタノ、勇の世話もし、育児に長けていた。 週末になるとエノと源二郎は滝川に帰る。その繰り返しが、その年の秋迄続いた。

明治3 7年7月1 1日から7月1 6日迄、石狩地方に豪雨が襲った。再び石狩、空知地方に被害が発生した。石狩川沿岸に被害が重なった。上徳富の畑作も少なからずの被害であった。順調に成育していた農作物の成育を阻んだのである。この水害が源蔵の雨竜えの転住を決定的にさせた。再び、生活に目途の立たぬ時が訪れたのである。不運と言えば限り無く不運であった。地主からの一時的借入金も生きるために必要であった。地主の庇護に頼る外なかった。
ウリュウコウホネ
雨竜湿原に咲く
珍種ウリュウコウホネ
雨竜湿原
雨竜湿原
夏の雨竜湿原
夏の雨竜湿原
 明治37年1 2月、源蔵は単身で雨竜郡北竜村恵岱別に入植した。源蔵の最後の賭けであった。恵岱別は事前に調べていた。下見もしていたが未開の地であった。 利市などを上徳富に残すのは心残りであったが、それ以上に生活が切迫していた。恵岱別では、全くの小作であった。恵岱別川添の井林農場であり、原始林を多く残していた。 明治3 7年代、雨竜郡の主要土地は、蜂須賀農場、戸田農場、本願寺農場の三農場により、開拓されてはいたが、未開拓の原野が大量に残されていた。三農場、共に開拓の拡張を実行中であった。三農場の拡大により、明治3 7年から4 3年にかけて、移住者はいよいよ増加して行く。

 
移住民の地方別を調べると、1.富山 2.香川 3.徳島となっている。全体を通覧すると、四国、北陸地方の諸県が多い。四国地方では徳島、香川、愛媛が多く、北陸では富山、新潟、石川県が多かった。 一方、転住者も多かった。

 雨竜町百年史によれば 

「移住者が増加する一方で、転住者も増加の一途をたどっていることも見逃せない。転住者の推移傾向は、移住者とほぼ同じ動きを見せているが、相次ぐ災害や、小作制度のきびしさに新天地にかけた夢が破れ、去って行く人々も年をおい増加していた。」とあり、移住と転住が交互に繰り返されていたのである。
また、源蔵のように、移住者の全てが直接、現地から雨竜に移住して来たのではなかった。 
「ここで注意しておきたいのは、これまで雨竜村へ移住した人々の出身県は、全てが、郷里の諸県より、まっすぐに雨竜村に大ったのではないことである。
蜂須賀農場の戸籍謄本6 1 1名分を調査すると、約4割の人々が雨竜の近隣町村や道内各地(両者の割合は半々)から入村している。道内移住をくりかえしながら雨竜村に転住して来たのである。移住と安住の地”を得ることの、むずかしさをこの数値は物語っている。」と百年史は続いて記している。 

 

源二郎の「祖先の記」には 
「新十津川村に居住して数年、努力したが天災にしばしば厄し遂に雨竜村に開拓の地を求めて……」とある。

実際、源蔵の転住には理解しかねるものがあった。
生活の切迫を切り抜ける為の転住ではあったが、災害は何処も同じであり、雨竜とて同様であった。小作の厳しさは新十津川を上回るものがあったのに何故、転住する必要があったのか、エノと雨竜に一戸を構えたのであろうか。 今となっては事実を確かめる事は不可能であるが、いずれにしても源蔵は「火中の栗」を雨竜に求めたのである。源蔵の並々ならぬ決意が感じられて来る。

恵岱別…現在の行政字名。
もとは雨竜村の一部。当地は、かって雨竜村から北竜村が分村するまでは現北竜町字恵岱別とともに、恵岱別として一地域を画していた地域であった。明治24年増毛道路が開削され、尾白利加・恵岱別・仁奈良・の駅逓が設置された。同36年、地内に2戸が入植して開拓が始まり当初は畑作が行われていたが現在は水田地帯になっている。エノは、滝川から恵岱別の源蔵の開拓小屋にしばしば出掛け源蔵を扶けていた。男の一人暮らしをエノが支えていた。エノは日帰りに明け暮れた。源蔵の仕事の成功を限り無く祈り、男と女の感情は捨てていた。 その間、源二郎は上徳富の家の利市に預けられていた。源二郎と勇の世話は利市の役目であった。世話を仕切れぬ時は村の若い女が手伝いに来た。 源蔵は、休みが続く時は、家に帰ったが、言葉は少なかった。休みが終わると無言で帰えるのが常であった。 

サタノは9歳になり小学生になっていたが、学校に通っていなかった。サタノも又、不健康であった。成育が遅れていた。食欲もなく、か弱く、脆い体格であった。しばしば病で倒れていた。当時の食料事情にも原因があった。根本的に鈴木医師の手に負えぬ中で成長していたのである。 そんな環境の中で、源二郎だけは健康であり快活であったのは天性によるものであったろうか。滝川との二重の生活が逆に良い結果を生み出していたとすれば、それは、エノの持つ力のせいであったのかもしれない。更に、源二郎は利市を中心とした家族の一員として溶け込んでもいた。手の掛からない子供に成長しつつあった。

 一方、西村エノの心の中に、源二郎の将来を見越しての別天地への転出の模索が生じ始めていた。「源二郎の才能は滝川や新十津川では生かせない。視野を広め、新しい時代の息吹に燃えている環境が必要だ。」と思っていた。石狩の野からの飛躍であり、仇の子と噂される我が子に対するせめてもの償いであった。その点で、エノは親としての責任を自覚し、先進的でもあった。 明治38年、源二郎は6歳になり心身共に順調に成長していた。利市と源二郎は年の差のある兄弟であったが、不思議に意気投合するものがあった。利市は23歳であった。利市の生きる厳しさが、怖さを超え、源二郎に通じるものがあったのかもしれない。利市の生き方は親の生き方を確かに上回っていた。親以上の力を有していた。
 

 春の終わりの朝。裸で木刀を振るう利市を見て、「自分もやりたい」と源二郎は言った。利市は子供用の木刀を源二郎に持たせた。源二郎が、その切っ先を利市に向ける構え方は、正に正眼の構えであった。
源二郎の振り下ろす木刀には迫真の気力が感じられた。 一日、利市は菊水にある新十津川高等小学校の武道場に源二郎を連れて行った。当時、新十津川文武館は閉鎖されていたが、
文武館
新十津川の文武館   
文武館の伝統を受け継いだ武道場であった。文武館の精神を踏襲し、道場も同じように造られていた。剣道だけでなく、柔道も指導していたので、講道館の嘉納治五郎を呼んで指導を受けたこともあった。そこは、撃剣をやり、勤皇論を唱え、終始、思想を鍛練する場であり、国家有用の人材を養成する場でもあった。源二郎は、そこで習練を積む若者の集団を目を輝かして見たのである。 
 「汝等ハ万事質素ヲ旨トシ、勤倹ヲ守り、北海ノ一弊害タル驕奢ノ風二感染ス可ラズ。万一二モ驕奢ノ風感染スルトキハ、兵農ノ本務ヲ完ウスル能ハザルノミナラズ汝等ノ不幸モ亦甚々シケレバ、常二質素倹約ヲ守り驕奢事之ナキ様心掛ケル可シ」 
 「身ヲ立テ道ヲ行イ、父ノ名ヲ後世二挙ゲルハ孝ノ至りナリ」
道場に掲げてあった、その教示を利市は、じっと見詰めていたが源二郎がこれを理解出来たのは新十津川を去る間際であった。
又、こんな事もあった。その日。利市が馬を借りて来て、馬にプラオく耕運機)を引かせていたことがあった。それを見ていた源二郎が、
「馬に乗って見たい。」と言った。
「そうか…」
利市は妙に納得した気持ちになって、
「乗って見るか」と言った。栗毛色をした、いかにも走りそうな馬であった。馬に轡(くつわ)を掛け、手綱を掛けて、源二郎を鞍の上に乗せ、利市が手綱を持って歩き出し、途中で手綱を源二郎に預け利市は馬から離れた。源二郎は面白そうに手綱を受け取り手綱の左右を操りながら馬を進め始めた。それは、今、初めて手綱を取るとは思えないほど巧みな禦し方であった。小走りに馬は走り始め広い畑の畔道を一周して走り続けた。夕暮れ時であった。落日の陽の光りを背に、子供の乗った馬は果てしない影を地平線に刻んでいるように利市には思はれた。
源二郎は、この後、時々馬に乗った。この後、成人してから、趣味を聞かれることがあったが、
「乗馬です。」と答えるのが常であった。
事実、河村製綿所時代、
「京都、奈良を巡り、奈良に一泊した翌朝、早く起こされて、奈良公園を乗馬で散歩した。支配人は仲々上手であった」
と中居由太郎は書いているが、その馬術は新十津川時代に習熟したものであった。
 
明治3 9年。源二郎は7歳になった。源二郎の小学校入学の年である。当時、新十津川村には小学校が四校、高等小学校一校、簡易教育所が四ヶ所が設置されていた。
小学校は明治24年3月1日、上徳富下二号基線に上徳富簡易小学校が設置されたのが上徳富小学校のはじめであった。
 明治2 7年5月、この上徳富小学校は学級の増加と通学上の便宜を考慮して、上徳富小学校(上二号山一線)、および、徳富高台小学校(上徳富下六号高台)の二校に分割移設され、翌28年4月、それぞれ尋常小学校と改称されている。 明治42年9月、再び両校は統合されて、上徳富下二号山一線の現在地に新校舎が建築され、五学級編成による上徳富尋常小学校となった。 
 
上徳富尋常小学校は現在の大和小学校であり、当時の通学区域は、現在の北大和区、大和区、里見区、宮前区の一部で広範囲にわたり、修業年限4年間であった。
 一方、高等小学校としては、明治3 5年、私立新十津川文武館を廃校とし新十津川高等小学校が設置されていた。 
また、恵岱別には、明治3 5年、私立教育所が設立され、大正6年、恵岱別小学校となっている。 源二郎を色々検討をする時、滝川や恵岱別の小学校に入学したとは考え難い。源二郎が仮に新十津川に於いて小学校入学を経験していたとするなら、その学校は、上二号山一線の上徳富小学校が一番適切である。
現在の国道27 5号線添、大和小学校から数キロ、雨竜側の地点に在った小学校である。しかし、当時、現在の北大和の家から、小学校一年生の徒歩での通学は可能であったろうか?という疑問が湧いてくる。通学が不可能であったとすると、義務教育としての制度は施行されていたのであろうかという疑問も湧いてくる。
そこで当時を回想した田中由忠氏の一文をここに取り上げてみる。
 
 「校舎の周辺は湿地帯で、あしが密生し、道路は草木を切り開き割り木を敷きつめたものである。学童の服そうは、もめんで、手ぬいによる半纏、股引き、たび、はき物は、ぞうり、げた、冬はわら靴、雨天の時などは悪路の為はだしで通学した。 晩秋降霜のある朝。兄弟親戚の者四人づれで樺戸道路を上二号の学校へ登校中、下四号川二線辻から約六丁程、北の石狩川沿いの大樹林にさしかかったとき熊が路傍のやぶの中にいるのに気ずき、いっせいに退却をはしめた。とたんに熊が後ろに現れ、うなり声をあげて仁王立ちになった……。
その頃、熊はいたるところ人家に接近出没し、時には畑に出没し、時には畑に昼寝し、うっかり通行できず、従って通学にしても年上の者は年少者をいたわり、仲むつまじく登校したものである。学科目は読書、作文、習字、修身、算術、唱歌、体操で、みな相当程度の高い学習で、学期末試験の成績五十点以下の場合は進学できなかったものである…。」 
 
この回想談によって、当時の学校通学の様相は伺えるのであるが、源二郎ならずとも、他の学友も長距離の通学であったことを考えれば、(下四号川二線から上二号山一線の距離など)源二郎の徒歩での通学、おそらく家より学校までの距離、片道、6キロから7キロであったろうが、それは可能であったに違いないと思われてくるのである。
筆者はこの点を含めて、明治39年時代の小学校生活や、入学者名を知ることが出来ないかと新十津川役場の教育委員会の識者に調査を依頼し、
大和小学校
大和小学校 現在廃校  
現在の大和小学校所有の資料まで当たっていただいたが、所有資料の初出は明治44年の卒業生名簿であり、残念ながら源二郎の名を見出だすことは出来なかった。当時の資料の発掘は今後の努力に待つしかないのである。
 当時の小学校の修業年限は4年であり、(明治4 1年、修業年限、6年となる。)入学が9歳であったとすれば、新十津川における源二郎の小学校生活は消滅するが、仮に源二郎が上徳富小学校に入学し、二年間の学校生活を経験したとすれば、短い期間ではあったが、本人にとって、極めて貴重で有意義な一時期であったろうと思われる。
 
 日露戦争は前年の明治38年9月に終結し、講和条約が調印されていたが、戦争遂行中の国難による、国威の発揚、教育勅語を基にした徹定的な倫理教育、そして直接経験する開拓精神など、後々の本人の人格形成に繋ったにちがいないと思われてくると共に、学校の往還時に接する石狩平野の四季の移り変わり、山、川、野の自然の雄大さ。自然の脅威。それに対処する人々の生活など、見たり聞いたりするもの全てが、源二郎の哲学的思想の形成に影響を与えたと思われるくるのである。
源二郎の体得した開拓精神とは、何であったろうか?千古不抜の原始林を前に、くじけた勇気を奮い起こして敢然と、その大自然に対決していった精神的条件は何であったか。 
「開墾事業ハ一時一期ノコトトハ違イテ、一度彼ノ地二入リコム以上ハ墳墓ノ地卜定メテ永ク此土二衣食セントスルモノナレバ、最モ多数ノ歳月ヲ要シ倒レテ後止ムノ精神ナクハアラス。 夫レニハ夫婦相倚リ兄弟相助ケ親子相親ミテコソ堪工難キヲ忍ビ遂ニハ目的モ達スルナレ」
伊達亘理藩の田村穎光の言葉が甦ってくる。
この年、3月、中徳富水田組合水路成功祝賀会が第八部演武場で開催され、4月、日露戦役戦病死軍人14名の招魂祭を役場前で挙行するなど、戦争の影響はこの新十津川にも及んできていた。
11月、新十津川高等小学校々舎、寄宿舎が全焼している。 一方、傷心の源蔵は、恵岱別の2町歩の開墾の完了を間近にしていた。
しかし、小作制に縛られた源蔵の収入は限られていた。以下は小作人に対しての井林農場の小作規定である。
 1. 小屋掛は当分木材と一戸金20円宛支給す。
 2. 開墾料は、一反に付き2円以上5円を支給す。 特に奨励金の設けあり。
   3.  移住後一年又は二年間は一戸に付二町歩以内農場直営の開墾地を貸付し、該地小作料一反部金七十銭以下とす。 
   4. 鍬下年限は四年以内とす。 
   5. 小作料は当分一反部に付五十銭以下とす。
 6. 味噌は一切貸付せざるも現金払なれば相当価格にて分配す。 
   7. 土木、伐木等は可成小作人を使用する。 
   8. 小作人には三ヶ年賦にて耕馬を渡す。
 
源蔵に貸付された土地は2町歩であったが、伐木も兼ね、38年から3年を費やし、それは完了に近ずいていた。小作の条件は新十津川や雨竜の三農場の条件よりは有利であったが、日々の生活を潤す程度であり、エノの力に頼る他ないのが現状であった。源蔵はそんな暮らしの中で1 2月の歳の瀬を迎えていた。
 
『 西村エノの独白』
 
1 2月1 5日。その朝、恵岱別の開拓小屋にあんさん、私、源二郎の三人が居ました。源二郎はまだ眠ったままでした。寒い朝で、雪が降り始めていました。その上、降る雪が風に舞い遠くが見えなくなる程でした。こんな日でも、あんさんは、働きに行くのだと言って八時が過ぎた頃、作業衣を着、藁靴を履いて同じ仲間二人と出掛けて行きました。出る間際、今日もあんさんが、無事で戻って来てくれるようにと私は心で言いながら送りだしたのですが……。この頃、あんさんは非常に疲れ気味で、体も痩せ衰えて来ているように感じていました。度重なる不幸があんさんを、それ程までに追い詰めていたのでしょうか。徳島から出て来て十年になるが「楽しいと思った日は一日もなかった…」と、一度だけ溜息まじりに言った時がありましたが、あれは、あんさんの本当の気持ちであったのでしょう。でも、この恵岱別に来て、働くだけ働いて大願が成就される所まで来ていたのです。 
その日、朝早く起き、暖めた残り飯を食べ終わり、お茶を飲んでいる時、ストーブに手かざしながら、「お前には、世話になった。お前がいなければ…俺はどうなっていたか。有難う…。後は子供を頼む。」と静かに言ったので、私は「なんだか別れるみたいね…。気にしないでよ。」と言いましたが、本当に、これが最後になるのではないかと不安が湧いて来るのを私はどうすることも出来ませんでした。それまでにも何回か別れようと考えた時がありましたが、別れることは出来ませんでした。月日だけが流れるように過ぎ去っているのでした。 「利市はどうにか親に負けぬ子に育った。一人でも生きて行ける。源二郎もきっと一人で生きて行けるだろう。大きな出来事さえ無ければ。誰にも負けず、自分の意思を曲げず、自分の心と目で生きて行く子に育って行くような気がする…。」 
「気がする…と言っても…」と私は言いました。既に、あんさんは、四人の肉親と別れていました。残ったのは、利市と源二郎、孫の勇の三人です。これで、農業という大仕事を果たしていけるのでしょうか。「クラを呼ぼうか」と言っていましたが実現していませんでした。
 その上、今、年の瀬が来て正月が来るのに、あんさんには何の蓄えもなく返せない借金だけが残っているのでした。私の蓄えを何度使ったことか。私の蓄えだって、あの人から網走の宿で受け取った金を取り崩していたのです。「金が欲しい」というあんさんの言葉を何度聞いたことか。金を求めて、この恵岱別に来てみても、それは果たせぬ夢のようなものでした。しかし、これが開拓人としての運命と言うものでしょうか。あんさんも私も同じ運命に巻きこまれていたのです。 
「出来ることなら源二郎は、この村以外で育ててみたい。」と私は私の意思をあんさんにはっきりと告げました。「百姓にはしないのか」と顔を曇らせてあんさんは言いました。「百姓以外のもので生きさせてみたい。百姓では可愛想です。私達と同じ道を歩ませたくはないのです。」と私は念を押すように言いました。「この子はどんな荒波に会っても、きっと耐えて生き抜いて行くと思います。思う存分生きさせてみたい!」私は確信をもって、そう言い切っていたのです。
 
思えば、私はあの人と別れ、木下の鉄五郎さんを頼って滝川に来て、根を下ろしたのでした。そして、あんさんを知りました。これも運命でした。あの玉置神社の祭りの日があんさんと結ばれるきっかけの日となりましたが、あの時のあんさんは私の父のように忘れられない程優しい人でした。ただ私は、あんさん、そうです西村源蔵に、飽き足らぬものを感じたことがあります。それは私の子、源二郎を何故、サノさんの子として戸籍の上で届け出たのでしょう。私の意思では決してありません。知らぬ間に源蔵とサノの二男として届け出ていたのです。それを知った時、私は浮かばれぬ私自身を感じたのです。 あんさんは私の永遠の夫ではありません。若し私の永遠の夫であるとしたなら、あんさんは、私と源蔵の子として届け出たはずです。あんさんは世間体を慮かったのです。私はその時、その場限りのあんさんと言う夫を感じたのです。時に、私は木下の鉄五郎さんに注意されたものです。「年の差を考えてみろよ。親と子程違う男に真心なんてあるはずがない……。あんたは編されている。」あの戸籍を知った時、鉄五郎さんの言葉を思い出し私は泣きました。死をも考えたのでした。私は一時の思い付きで源二郎を生んだわけではありません。私のいのちとして生んだのです。いのちはどんな型であっても源二郎に受け継がれるはずです。これからの私の行く道は茨の道となるかもしれません。しかし私は自分を信じ、源二郎を信じて強く生きて行きます。
 
その日、雪は激しく降り続きました。この石狩の平野に非情な程残酷に雪は降り、風はますます強く、ますます激しく吹きつけていました。凍っている恵岱別川の下流添いの雪の中に、まだ伐り終わらない巨木が林立していた。西村源蔵に貸付された土地である。源蔵はその年中に何としても伐木を終える必要に迫られていた。整地のための条件に時間の制限があり、又、農場から借りた生活費の返済の期限も迫っていた。伐木の全てをやり終えてからの賃金の請求であった。 吹き付ける雪の中での伐木であったが、それでも仕事を成し遂げる歓びと安堵感で今は力が入っていた。源蔵は、激しく意気込みながら木の幹に記した目印を目掛け、かじかんだ手に息を吹き掛け、重い斧を振り下ろしていた。 木に斧を入れてから、反対側から鋸を入れ、切目に襖を入れてから、綱を巻き、仲間二人が、木を倒すため、その綱を引き始めていた。だが切り終えていない源蔵は、まだ鋸を引いていた。仲間二人が綱を引いて行った時、バリバリと木の折れる音がした。「危ない!」そう叫んで身を交わそうとした時、藁靴が滑った。転倒する源蔵の真上から直径3尺を超える巨木が地響きを立てて倒れて行った。巨木が源蔵を標的にするかのように源蔵の脳天に一瞬のうちに達し、雪煙が高く舞い上がっていた……。
 
源蔵は折れた巨木の下に、白い雪の中に凍るように鮮血を流し倒れていた。その周りを五、六人の仲間が取り囲んでいる。暗く閉ざされた空から固く冷たい雪は、間断なく降り、空を覆う樹林も、熊笹の原野も白一色に変わり、その上を恵岱の山下ろしが吹き抜けて行く。 
 
急を聞き駆け付けたエノと源二郎が、その側に立ち尽くしていた。「源蔵は死ぬために、ここに来たようなものだ。源蔵は命賭けであったのだ。」と、エノは思った。今朝、小屋を出る前に交わした二人の会話。その中で源蔵の残した言葉。偶然、それは訣別の言葉になっていた。エノの目から涙が流れた。  
「源蔵にとって開拓とは何であったのだろう。武士としての衿持を捨て、開拓の戦士として、生きるために枯れ葦と熊笹の土と木と闘った、この十年間は何であったのだろう!」全てが徒労に終わったのだとエノは思った。 
源二郎は、父をじっと見詰めているだけだった。父の両膝の中で抱かれた時は一、二度あったことを覚えているが、それは、妙に生暖かいものだった。後は煙る囲炉裏の側で一升徳利を傾けている姿だけであった。 その時、エノが声高く言った。
「源!函館に行こう!函館に!」 その一言は生涯、源二郎の脳裏から消えることのない一言になった。
函館に生活の夢を賭けようとエノは思ったのであるが、しかし、その年、明治40年8月 1 5日、函館は大火に見舞われ、12. 390戸が焼失していた。
とまれ、明治40年1 2月1 5日午前 1 1時、北海道雨竜郡北竜村恵岱別の土に源蔵は帰った。源蔵、51歳の冬であった。 
 
     
 
 
参考資料

市史 
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GC-245- 51           徳島県美馬郡重清村誌      美馬町友会               1982- 8 
 GC- 7- 18           新十津川町史            北海道新十津川役場         1965-11
GC- 7-E151           新十津川百年史          新十津川町史編簒委員会       1991- 3   
   GC- 7-E133        雨竜町百年史           雨竜町百年史編集委員会       1990-11
GC-111- 32           鯖江市史(上下)          鯖江市史編簒委員会          1986- 3   
 GC-111- 52          清水町史(上下)          清水町史編簒委員会          1978-12  
GC- 7- 208           北見市史(上下)          北見市史編簒委員会           1983-12
211  1-A1112          網走市史(上下)           網走市史編簒委員会          1971-11  
211-4-Ta611t          滝川市史(上下)           滝川市史編簒委員会           1962- 
 
 
紀行    
                  街道を行く12(十津川街道)           司馬遼太郎          朝日文庫
                  街道を行く15(北海道の諸道)            同             朝日文庫
                  街道を行く32 (阿波紀行・紀の川流域)      同              朝日文庫  
    
 
伝記 
 
DH-22-178           河村織右衛門創業70年回顧録     コドモわた株式会社        産業研究所
88 3-Ka299s          相馬哲平伝                 神山  茂                
 
 
辞典一写真
 
2 GB-8- 94           北海道大百科辞典                                北海道新聞社
                  角川日本地名大辞典                                角川書店
     211           北海道写真史 幕末・明治                            平凡社
 
 
その他
                  
               “時空遊悠浪漫”一西村家のルーツを尋ねる                   西村康之
 GC-5- 68           高倉新一郎著作集・(第四巻〉
                北海道開拓精神の形成           榎本守恵                雄山閣
AZ-857-G25         戸籍制度と子どもたち            榊原冨士子編
                北海道・草原の歴史から          更級 源蔵                新潮社
 
 
小説
 
                石狩川                     本庄 陸男             新日本出版社
                石狩平野(上下)                船山  馨             河出書房
                お登勢                     船山  馨              角川文庫
                赤い人                     吉村  昭              筑摩書房
AZ-857-G25        ある女の戸籍                 佐多 稲子             改造社 
                新十津川物語                川村たかし              偕成社
                空知川のほとり                國木田独歩              集英社  
 
 
 
 
 
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