下の写真は中央研究所(昭和60年) |
会議室に一瞬、緊張が走った。何時の場合でも、相談役、光源の発言には関心が集中するのであるが、この場合は格別であった。
その頃の光源のすべての行動は、光源が自身の人生を終えるための前段階のように各委員は思い始めていたからである。
自身の名を銘した「光源郷土地」とは、会社が所有する北海道伊達市北有珠町に所在する38,000坪の土地を指すのであった。
明治年間、伊達亘理藩が入植し、道南、内浦湾に面したこの土地を開拓したので、伊達市の名があるのが由縁だが、この近辺には、洞爺湖や昭和新山があり、今尚、煙を漂わす有珠山があり、道南でも屈指の景勝地であった。
会社の所有する土地は、規模が大きく、火山灰地の上に原生林が生える未開発の土地であったが、ここからの眺望は、限りなく美観を呈し、一部は観光道路にも提供されていた。この土地を会社に対して功績のあった社員に分譲するというのである。
光源は、ここに光源の理想郷を打ちたてようと思ったのである。 それは数々の大事業を成し遂げてきた光源の最後の悲願に近いものだった。その端緒として、土地測量を行い、水源の有無の調査も終え、整地計画の途上にあった。 当然、そこには規制もあり、その規約の作成を専務伊藤胖に命じていた。伊藤は「太洋土地分譲予約事業目論見書」として、その場に提出した。
1.目的
2.分譲予定と規模
3. 分譲の方法
4.管理委員会
5.分譲予約の条件 分譲対象者の選別
目論見書には細部の規約が書かれていた。
光源の意思が反映された規約であった。 分譲価格の規制もあったが、土地量に比し僅少であり、その場の委員も納得の行くものであり、希望の持てる内容のもので、異議もなく可決されていた。悲願は実現に向けて歩み始めなければならなかった。
実際に光源はその実現のために「分譲予約証書」を交付し、74区画を功労者、18名に分譲の予約をしたのだった。
譲り受けの初めは、社長西村成之に10区画、分譲理由は、「東芝、ブラザーに対する渉外、折衝の功労」によるものだった。 その他では、光源が終生、その恩義を失わず、光源の亡き後を託した「コドモわた株式会社」社長、河村寿郎に対し、5区画の分譲などの特別なものもあった。
理想郷の建設は、最後の悲願であり、光源と共に幾春秋を歩いた同士への餞の印であったのだ。光源は、この理想郷を夢見ながら翌、昭和58年1月、辞世の歌を詠んだ。
辞世 |
有珠山より駒ケ岳遠望 | 有珠山より伊達市遠望 |
西村光源創業のベッドが全室に納入されたウインザーホテルから洞爺湖遠望 |
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