第一部 開拓篇

第一章  遠い血脈

 

現在、西村家の家系については、光源の残した「祖先の記」を基本にして、西村康之氏が調査し作成した細密な家系図により概ね知ることができる。

 
西村家は源平の時より、江戸期まで、代々、四国地方に定着し、武家を通して来た家柄であったと言われている。
光源の父、西村源蔵の生涯については、それが波乱の多かった割には手掛かりが少ない。
時代が風化してしまったことと、生き証人が少ない。
 

徳島県重清村上空  
徳島県重清村上空
光源の「祖先の記」も父親のことについては、簡略な記述で終わっている。 時の流れがすべてを消し去ったのである。しかし、西村源蔵が光源と云う経営の秀れた先覚者を後に残したことは明らかな事実であり、このことを中心に書き進めなければならない。

西村源蔵は、安政4年11月7日、父、西村與市、母、西村カノの四男として、徳島県美馬郡重清村に生まれている。
源蔵の出生地である徳島県美馬郡重清村は、吉野川中流左岸、讃岐山脈三頭山の南麓に位置する。
 江戸末期、重清村は徳島藩領、美馬郡に属し、徳島藩家老、稲田九郎兵衛の知行地であった。 稲田氏の家臣を猪尻侍といった。猪尻侍は、幕末期の尊王運動の中、京都で事情探索方として活動した。
慶応3年12月、稲田氏は直接、朝廷に召集を受け戊辰戦争では、東征大総督有栖川宮熾仁親王の親衛隊として、郡の猪尻侍が江戸に随順している。京都での事情探索方としては、奈良吉野郷十津川郷士と相通じるものがあった。
十津川郷士は、主に、京の御所の衛士を務めていたが、その後、戊辰戦争では北越から、奥州に転戦していた。
 この戦争の間に徳島藩士と十津川郷士とよく交わる機会があった。 それが明治維新後の交流につながることになった。
稲田氏にとって重要なことは、維新後に行われた版籍奉還後、藩の士族が陪臣であったところから、士族として認められず、卒族として認められたところから庚午事変と呼ばれる 稲田騒動が持ち上がったことである。

司馬遼太郎著「街道を行く32 “阿波紀行、紀ノ川流域”」には次のように書かれている。『陪臣と云うのは、例えば三百石の藩士が自分勝手に召抱えていた者のことを言う。版籍奉還という新時代になっても、当然ながら、その三百石の藩士は、彼が雇用していた者を自分の収入の範囲で扶養しなければならない。このことは、日本全国どこでも問題は無かったのだが、ただ淡路稲田氏の家中がみな陪臣になってしまうと、ことごとく路頭に迷ってしまう。 稲田の家中が三百戸として、それに家族平均五人とすれば、千五百人が無収入になる。その日から路頭に迷ってしまう。
重清村
・・・なんのための勤皇であったか。と、彼らは思ったに違いない・・・』とある。

この後、稲田氏が淡路国洲本城番である稲田氏の分藩を新政府に願い出ることにより、徳島藩との騒動は持ち上がり、最後は、騒動を起こした徳島藩士は罰せられ、稲田氏の家臣の一部は北海道静内郡に移住して、開拓を行うのことになる。
この中の2点、

1.稲田家臣と十津川郷士の接触
2.稲田騒動による稲田家臣の移住開拓

は、徳島県人の北海道への移住開拓に大きな影響を持つことになる。


重清村は、古来、純農村地帯であり、農作物は、米麦が中心だったが、江戸中期以降、甘藷、藍も生産していたが、農耕地が狭隘で、労働生産性が低いことから、飢饉や藩の租税の取り立て、庄屋の不正事件など、騒動や一揆、逃散がそれまでに、たびたび発生している村だった。
そのため、零細農家が多く、農業のかたわら、四国、中国、九州への行商などもし、生計を立てる家も多かった。幕末には、多くの困窮農民が出たが、一部の上層農民だけは、稲田氏の家来となり、勤皇の志士として、戊辰戦争に参加したのだった。

戊辰戦争時、(明治元年〜明治2年)西村源蔵の父、與市は(源二郎の祖父)62歳、母、カノは(源二郎の祖母)53歳、源蔵自身は12歳であった。與市が重清村の上層農民であり、苗字帯刀を許された郷士であったところから、稲田氏の家来となり勤皇の志士として倒幕にに参加した。
「豪気闊達で尊王攘夷の風潮に和し」の性格で、維新改革の波に乗って倒幕運動家と交流したという。
しかし、運動に参加してみたが、年齢62歳に達しており、果たして満足の行く結果を残すことができたか否かは疑問である。與市の倒幕運動への参加は単に「尊王攘夷の風潮に和し」て参加しただけではなかっただろう。その先には、戦後の「身分の取り立て」と「生活安定」があったのではないか。論功行賞の行方を追っていたのかも知れない。
しかし、結果は逆であった。與市の大義のための行動は、稲田騒動にも見られるように、正当に評価されず、逆に、1.戦争から受けた心身の疲労 2.私財の喪失(戦争には私財で参加することが多かった) 3.家業の不振をもたらすことになった。
西村源蔵の流転は、ここから始まるのである。


源蔵の兄姉は6人であり、源蔵は末弟であった。
明治10年、源蔵は父、與市と母、カノを携帯し分家する。兄姉は既に独立し、一家を構えていたので必然的に両親の養育を源蔵が看ることになったのである。源蔵は両親から信頼されていたのかもしれない。
源蔵21歳の時であり、西南戦争勃発の時代であった。
しかし、與市は、真に武士道精神を尊び心も肉体も強壮であった壮年時代を思わせるものはあったが、戦争から受けた疲労からは抜け切れず、老いも重なり、衰えは次第に與市の心身に寄せて来ていた。
源蔵一人の力では、家業を支えきれなくなり始めていた。源蔵は伴侶を求めていたのである。
美馬の農村風景  
農村風景

翌、明治11年4月1日、源蔵は、隣郡、徳島県三好郡太刀村に住む福島サノと結婚する。
福島サノは、安政元年9月生まれ、源蔵より3歳年上の姉さん女房であり、この時、源蔵、22歳、サノ25歳であった。
源蔵自身は親からの気質を受け継ぎ、農作業から鍛えられた骨格は逞しく、荒削りな野生を感じさせる性格を有していたが、物事の判断に繊細さに欠けるものがあった。

サノは武家の育ちであり、際立つ美しさはないが、常識的容貌の持ち主で、気質は強いが、表面には出さぬ外柔内剛で優しさが自然で、一理を通す強い信念の持ち主であり、以後の西村家を支える一員となるのである。その意味では、源蔵の永遠の伴侶として、相応しい女性であったと言える。

源蔵は、以後の暮らしの中で、時に思い出すことがあった。
サノとの婚礼は、縁者、知人を呼んで、自宅で行ったのだが、婚儀の後、珍しく、酒に酔った與市が唐の王維の詩を吟じたのである。
 
                客舎青青柳色新タナリ

               君ニ勘ム更ニ尽クセ一杯ノ酒

老いてはいたが、與市の声は、まこと朗々とし、他を圧するものがあった。
これからの二人の門出を祝う、與市の賤の詩であった。 終ってから踊りとなった。阿波踊りの輪舞だった。

     “ 踊る阿呆に見る阿呆
      同じ阿呆なら踊らにや損そん”

踊りを見ながら、源蔵の心に、ふと過ぎる不安の予感があったが、源蔵は、それを、持ち前の強気で振り払っていた。
源蔵とサノの当初の生活は、與市、カノとの同居生活も順当に慣れ、将来に希望の持てるものだった。
源蔵の主なる仕事は畑作であり、サノは家を守った。世間の家と同じしきたりのなかで生活していたのだった。しかし、家の内情は次第に変化して行った。 
輿市は、農地ををじかに持つ武士であったが、版籍奉還後は、蜂須賀家と稲田家の争いから、稲田側の猪尻衆は、その田畑から、引き離されてしまったのである。
興市の持っていた田畑も、削減された細々としたものになっていた。まこと、運命とは皮肉なものとしか言い様がない。そこには、苗字も帯刀もなく、過去の栄光は、失われつつあった。
 源蔵一家の生活に生きて行くための変化が必要であった。源蔵は、サノとも話し合い、行商に転ずる策も考えたが、実現されずにいた。生活は徐々に苦しくなって行った。しかし、一方に置いては、子女は、次々と生まれていた。

         明治11年7月1 5日     長女    クラ     出生
         明治1 5年7月1 5日    三女    カネ      出生
         明治1 6年6月1 5日    長男   利市    出生
         明治1 9年12月1 1日   五女   コンタ    出生

次女、四女については、戸籍上の表示なく、届け前後に死産したか、以後に養子になったか等は考えられるが、明治、大正の戸籍法は、極めて曖昧であり、伺い知ることは出来ないのである。
資力の乏しい生活が続き、輿市もカノも衰えつつあった中での、一年、二年置きのサノの出産であった。サノは、両親の介護と子女の育児が暮らしの大半となり、強壮な心身にも限界が訪れて来るのを次第に意識し始めていた。
言葉には出さないでいたが、義母、カノとの軋較もあった。
 6人目のコンタが生まれた時、サノは源蔵に言った。
     「もうこれでしまいにしょうね。・・・・・・・・」
 それを聴いていたカノは、それを皮肉るように
     「なあに、生きても 、死んでも、まだまだできるさ」
と言ったのをサノは虚ろな気持ちで聴いていた。
 

サノにとって、それまでの生活は、介護と育児の11年間であったと言うことができる。サノの日常の些細な出来事から生まれるカノとの確執を源蔵はじっと凝視しているだけだった。源蔵のそんな態度が不満で、報はれぬものをサノは感じていた。それが、源蔵との第一の躓きだった。
  「このままでは、源蔵の道ずれになる。太刀村に帰ろう!」とサノは思った。その決意は、日増しに強くなって行った。ただ、心残りがあった。
二歳と三ヶ月の五女、コンタの親権の処理だった。コンタは、生まれつき虚弱な体質であったが、サノの必死の努力で生き長らえて来ていた。しかし、実家での養育は、望めそうもなかった。

 明治2 1年2月の末、サノは、源蔵に一言、別れの挨拶をし、長女クラ等4人の子女を残し、着の身着のままで家を出た。
 南国の地とは言いながら、肌に寒さの残る春の初めであり、近くの三頭神社の桜の蓄が膨らんで来ている頃であった。
 翌月、明治2 1年3月27日、コンタは、源蔵、輿市、カノに見守られながら息をひきとった。あくまで、源蔵は悲劇の人だった。

明治2 2年10月の半ば、奈良県吉野郷十津川村に住む極く親しくしていた遠縁に当たる西村宏平から、與市宛てに突然、、一通の挨拶状が届いた。
 

吉野川  
吉野川

西村宏平は、当時、十津川村の副戸長の地位にあった。

「取り敢えず、北海道の徳富(トップ)に移住することになった。神戸港から11月1日に兵庫丸にて出港する。目指すは小樽港であり、我々は、移住組の最後で400人である。 ……」と。背水の陣を敷いた宏平からの書状であった。輿市と源蔵はそれを繰り返し、読んだ。 

その年の8月10日頃から、四国、紀伊地方に連日、豪雨が降りしきった。徳島地方にも雨が降り続き。、吉野川も激流に荒らされ、被害も出たが、十津川村ほどではなかった。
 時が経つにつれて、十津川村の被害の甚大さが、美馬郡一帯にも報じられ、源蔵一家もそれに深い関心を寄せていた。
十津川村では、五町も八町もある山々が豪雨により、川に崩れ落ち、両岸の家々は、土砂と。濁水の中に埋没してしまったと報じていた。十津川村にとって、歴史的壊滅の状態なのであった。
 十津川村では、村を再興すべきか、他に移住すべきか、移住するとすれば大台が原とか、奈良の霧山とか、那須野ケ原とか…様々な意見に分かれたが、「北海道に移住するなら、どんな便宜でも図るから…」と言い、真心から励ましてくれる北海道庁理事官の言葉を信じ、移住先を北海道に決めたと言うことだった。北海道全体が開拓の時代を迎えていたのである。

「北海道は銭の函。その中でも徳富(トップ)は最適地。石狩川は全道一の大河で、汽船が遡る。周辺の土地は、無肥料でも作物は獲れる。税金は掛からない。当分、国からの援助はもらえる。中央に離宮を建て、付近に大都会を開き、日本の北京にしよう。」 
理事官の熱意のある話に共鳴し、村民の殆どが生きる望みを北海道に託したのであった。・・・…。
西村宏平からの書状には、その間の事情が端的に記されていた。 
十津川村は、代々、武士の村であり、勤皇の村であり、武士道を重んずることを気風とする村であった。移住十津川人は、そんな衿持を持ちながら開拓の場に挑戦して行ったのである。だから、移住する時にも、十津川村の紋章である菱十字の村旗を掲げ、各自の衣服の襟には、この紋章が縫い付けられてあった。刀剣など武具をもつことも忘れなかった。   

「我々一介の貧弱なる青年でも、断じて行い不撓不屈の精神をもって事に当たらば、何事か成らざることあらんやの意気に燃え立っていたのである……。
十津川人の誇りとして心に抱いていたものに「北門の鎖鑰(さやく)』と言う語がある。
『北門の鎖鑰』とは、日露交渉が頻繁になったため、北辺国境を警衛し、北門の守りとなるということで、流行語であったが我々が北海道に来たのは郷里の災害を遁がれて安住の地を求めたのは勿論だが『北門の鎖鑰』警備に尽くすのが我等の責務だと信じていたのである。だから郷里を経つ時、我々は、刀や薙刀や槍や、そういうものを肩に懸け背負って出たのである……』と移住後、十津川人の決意が地元の新聞に寄せられたこともあった。

 
「十月ノ二十五日二故郷ヲ立ッテ十一月六日北海道ノ空知太(滝川)二漸ク着ク。着イタガ主人モ居ナクバ、迎ヘル者モナシ。薪モナクバ、水モナイ。アルノハ庭前カラ大木ト笹ト丈。市知来(三笠)ヨリ用意シテ来タ斧ト鋸、此木が能ク燃ユルダロート、倒シテ焚付ケタガ中々モエナイ。燃エナイノモ当然。榛(ハン)ノ木デアッタ。……雪が止マズ」

十津川人の苦役の開拓が始まったのである。明治2 2年11月6日であった。


與市は、武家としての家風は、強く残した。 即ち、主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、親に対する孝行、を基として、「義から始まる勇気」「敢為、堅忍の精神(決行)(辛抱強く我慢すること)」「側隠の情(あわれ み、いたむこと)」等を間接的に教えることがしばしばだった。

與市の残した書に、愛、 寛容、仁、礼、勇気、義、克己(欲望にうちかつこと)など、理解し難い言葉が多数書か れていることを、源蔵は後で知ることになるが、全てを悟ることになるのは、この後、北海道に渡り、人生最大の試練を迎えた時であった。
 そして、この精神は、この時から数十年を経た後、源蔵の血を分けた子、源二郎の精神に 甦って来ることになる………。 
 與市は、家を出たサノについては、寛容であり、殆ど言葉や表情には表さなかった。非は我にあったからでもあるが、人を信じる意思の強さが與市をそのような人柄にさせてい たのかもしれない。
老いては来ていたが泰然自若とした日々であった。家業も家事も一層 厳しさを増していたが、源蔵も又、一時の沈湎から次第に立ち直っていた。  
そして、明治24年まだ暑さの残る初秋、香華が供えられた西村家の墓所で與市とサノ は出会ったのである。
それは、日頃、全く行き来の途絶えた家と家の間柄の中での偶然の 出会いだった。

「申し訳けございませんでした。…」

とサノは、かすかな声で言い、與市 に頭を下げた。それには、万感の思いがこめられていた。
別れてから4年の月日が流れて いた。サノはコンタを自分が殺したのだと思っていた。残して来た子女に対する思いもあ った。與市は何も言わず、ただ、頷くばかりであった。
墓前で二人は、二人の意思が通じ るかのように合掌した。その時がサノの救いの時だったのかもしれない。しかし即ぐにはサノは西村の家には戻らなかった。福島家の父、熊蔵の強い意思があったからである。
「戻ってはならない。」
毅然とした親の格式を見る思いだった。  

その一年後、明治2 5年8月1 3日、義母カノが逝った。傷つけあった一人の義母の歴史が終わったのだ。
サノが與市と逢って一年が経っていた。源蔵の苦闘を知人から風の便りに聴いていて、サノは、一層複雑な心境だった。
西村の家の衰えが一層、加速しているように思われた。源蔵の力では支えきれぬものを感じると共にヽ置いて来た子女の身の上も 案じられた。  

翌明治26年5月10日、義父、與市も逝った。両親についての死の要因は、今では判然としない。武人としての輿市には、固い決意があったのかもしれない。カノは、享年、77歳、輿市、87歳であった。明治の時にあって、長寿の類に入るのかもしれないが、この家に、短期の間に死は、三たび訪れたことになる。
両親共に、江戸末期、文化、文政、天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治、の実に1 1代を生きたことになる。
政治、経済、社会、共に日本の激動期であった。

  サノは墓前で出会った輿市のことを思った。物を言わず、ただ頷いていた輿市。寛容であった輿市。心では、サノを許していたのだ。
源蔵にはサノが必要であることを輿市は知り尽くしていたのだ。  
 「西村に戻ろう!」
とサノは思った。

「柳色新タナリ…」と吟じた輿市の面影がサノの 脳裏に流れて行った。 
 翌、明治27年、日清戦争が勃発する前年の事であった。


 明治2 7年8月1日、日清戦争勃発。朝鮮に対する清国の支配力を取り除くための日本からの宣戦布告であり、黄海海戦、旅順占領、など戦雲の気運は日本全国に沸きあがった。美馬郡に於いても同様であった。 
明27年年10月5日、サノは家に戻った。家を出てから6年の月日が流れていた。それが丁と出るか半と出るか正に賭けの復縁だった。
両親は逝き、サノは義親(おや)からの束縛もなく開放された気分であった。サノ自身も旧家での6年の生活は、「針の筵の生活」であり、離婚という現実は、非情を伴うものだったので、それに耐えたサノは、一回り大きくなっての帰家だった。
子女は、長女、クラ1 7歳、3女、カネ1 3歳、長男、利市1 2歳になり、クラは、家族の母親代わり。カネ、利市は、地元の沼田尋常小学校こ通うほどに成長していた。
サノは、子女との感情の縺れもあり、立場も微妙であったが、源蔵は、それを充分知り尽くしサノを庇った。源蔵の家に平和が訪れた時であった。
 しかし、家計は火の車であった。畑作の出来高は僅少であった。畑作の中、藍の生産は割の合わないものになっていた。四国地方の藍の生産の最盛期は明治20年頃であり、その後は、インド藍や、ドイツの化学染料の進出により、四国産の藍は、次第に隅に追いやられる傾向にあった。源蔵の藍も同じ運命にあったと言ってよい。源蔵の所有していた家財が目に見えて減って行った。
しかし、平和に包まれた源蔵は、持ち前の荒々しさもあり、、意気軒昂なるものがあった。 
明治29年3月22日、六女サタノが産まれた。

「まだまだできるさ……」と言ったカノの言葉が現実になった。
 

重清村の西村家累代墓
第15代当主 西村與市氏管理
  
西村家累代墓
源蔵もサノも旺盛な生命力を宿していたと言ってよい。
しかし、、この時以降、環境の変化と共に、生と死が運命的に源蔵一家を襲うことになる。本能の赴くまま生きるということは、明治の時には極く自然の事であったのかもしれない。が、当然、子を生かす責務が伴うものでなければならなかった。
源蔵の生きた過程を検証する時、そんな思いにとらわれるのである。明治の子は、親を頼らずに己自身の持つ力と叡智で生さなければな゛らなかったのかもしれない。
 
明治30年、徳島県から北海道への住民の移住はピークを迎えることになる。元来、徳島と北海道との関係は淡路出身の高田屋嘉兵衛の北前船以来、因縁の浅からぬものがあった。
西廻り航路沿いに、位置する阿波藩領では、吉野川沿岸の「北方」地域で発展した藍栽培に、蝦夷地産(松前、江差)の鰮粕が肥料として使われていたこと。
また、明治初期の分領支配下の北海道にあつて稲田藩が、 北海道日高の静内地方に入植したこと。
などにより、両者は近世以来の歴史の中でそれなりに結びついていたのである。
そして、移住関係での結び付きが強くなるのは明治1 0年代に入ってからであった。 
明治1 2年には、北海道余市郡に、仁木団体、117戸など、明治1 0年代は主に、「北海道西部への移住」、明治20年代は、徳島県人によって開墾された「北海道東部への小作人としての移住」など、徳島県人の移住は、道南を除く全道に展かっていた。
20、3 0年代の、この様な移住ブームの要因となったものは、同時代の藍の不況と衰退、北海道の農場が提示した小作料の高騰などがあった。
小作料の高騰は、日清戦争により労働者が不足したことによるものだった。当時、徳島県で移住率の高かったのは、阿波、美馬、勝浦、那須の諸郡であった。                        






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