第一部 開拓篇

第二章 石狩の野に



  その頃…、明治28年1 2月頃より地元新聞(徳島日日新聞)に、北海道の入植地より小作人募集の記事が、たびたび掲載される事があった。
時には、北海道庁殖民部拓殖課編の「北海道移住手引草」などの宣伝記事を連載する日々もあった。 その中でも、特に、目立つものは、北海道雨竜郡雨竜村に所在する蜂須賀農場からの小作人の募集であった。
 明治2 9年4月6日、には、次ぎのような広告も掲載されている。

   
『北海道石狩国雨竜郡当家農場二於イテ移住小作人募集致侯二付自費渡航望ノ向ハ、
徳島市大字富田浦町中屋敷庄野致遠方へ至急可被申出諸事懇篤指示可致侯比段広告侯也。
                                                                                                            東京  蜂須賀家々令』

 蜂須賀農場は、旧徳島藩主、蜂須賀茂詔が所有し、経営する農場であり、農場所在地である雨竜村に於いて、「御農場」と呼ばれ、また、その予算管理も、同村の予算を上回るなど、あらゆる意味において雨竜村の絶対的支配者であった。
蜂須賀農場の所有する土地面積は、雨竜村の所有する3,500町歩の中、2〜 300町歩、66%を占めていた。 (1町、3,000坪)この膨大な面積の耕地を農場として経営するためには、多数の開拓労働者を必要としたのである。そこで、農場主、蜂須賀茂詔の旧領地である徳島県からの移民募集が行われることになったのであるが、それは極く自然な発想であった。 

蜂須賀農場は、発足当初は直営方式を採ったのであるが、農民の意思に反した経営は、長続きはしなかった。
そこで明治30年4月、農場を直営式から小作制に転換させたのである。
小作人とは、農場主との契約農民をいうのであるが、端的に言えば、小作とは、土地を借り、地代(小作料〉を払って耕作することである。
 今、当時の「蜂須賀農場小作規定」を筆者が読む時、その農場主側に有利に作られた規定に驚くと共に、当時の移住小作人の労苦が忍ばれてくるのである。…
明治3 0年の初め、美馬郡に住む鎌田仙蔵、国見泰平、加山瀧成、他8戸が、3月に、雨竜村に移住するのだという噂が源蔵の耳に入ってきた。
徳島県全体で、勝浦郡他、総計130戸の移住であるという。徳島県としては過去、最大の大量移住であった。

 源蔵は、2月、行き着けの居酒屋で、その中の近藤林太郎に偶然、出会った。ほろ酔いの林太郎は、家の整理の慌ただしさを言い、3月に雨竜に移るのだと言った。

「今、農場で働いている小作人の戸数は、60戸、人数、290人位である。作物は、大小麦、裸麦、粟、黍、燕麦、大小豆、福豆、玉蜀黍、馬鈴薯、蕎麦、など。
蜂須賀農場
蜂須賀農場  


移住して、開墾して、2年で金も貯まり、耕す馬や農具も買えることが出来、その頃になれば人の手も省くことも出来、2町5、6反歩位は軽く耕せる。わしは、鎌田達と共同でやることにした。苦しむかもしれないが戦ってみることにした。
…お前様も来なせい。美馬にいては暮らせない。望みのある暮らしがしたくなったのだよ。」

そして、3月に徳島の港から出港するのだと言った。源蔵は、その話しをまるまる信用せずに軽く受け流していた。
しかし、“宏平さんも、近藤もみんな北海道に行く!北海道は生甲斐のある場所か” 源蔵は反芻していた。
「お前様も来なせい…」と言う4 0歳になった林太郎の諭すような重みのある言葉は、日増しに源蔵の心に強くのしかかってくるのであった。


明治30年3月の初め、小松島港から、北海道雨竜村に移住する美馬団体8戸3 2人が村の渡し場より小松島に向かった。
その中に近藤林太郎一家もいた。小松島港から出る船は相模丸で、小樽との周期船であり、小松島港を出、四国を迂回し、関門海峡を通り、日本海に出るのだと言う。
小樽に着くまで1 1日を要する旅であった。 送る源蔵は手を振った。送られる美馬人達は、前途の不安を感じながらも意気揚揚とした姿勢を崩さなかった。風が強く、川の波が高い日であった。 源蔵の側に、連れて来ていた利市がいた。
利市は、
「とうさん、おれも船を見たい。北海道に行きたいわ」
と突然言った。それを聞く源蔵は
「あほにせんといて」
と荒々しく言ったが、1年後の同じ月に、北海道移住は、源蔵一家に、事実となって訪れることになる。
その時の利市は、広大な北海道に対する夢を抱いていたのかもしれない。

利市は、1 5歳になり、利発で意思堅固な青年に成長していて、若き日の祖父、與市に似るものがあった。
その年の9月、同じ重清村の663番屋敷に住む谷本弁吉から谷本の長男、虎太郎と、源蔵の長女、クラに縁組の相談が持ち上がった。クラは、20歳になっていた。 
普段からの交際で、弁吉と虎太郎は、クラの人となりを知り尽くしていた。
クラも虎太郎に好意を持っていた。弁吉は、源蔵の家族が北海道移住に傾きかけているのを察知していた。差し当たり、弁吉はクラを源蔵の家族から引き離し、虎太郎の下に引きとりクラの北海道行きを阻止しょうと思っていたのである。
それが具体化するのは10月にに入ってからのことである。クラは海のものとも山のものとも知れぬ、多分に賭を伴った北海道行きには反対であった。
サノは、クラが、谷本家の一員になることに何の拘りも持ってはいなかった。10月の中旬、仮の祝言が交わされクラは、谷本家に嫁いで行った。
サノは、クラの幸せを心から祈っていた。クラが重清に残ることに不安もあったが、それに倍する安堵感もあったのである。谷本虎太郎もクラも数年後、開拓が一段落した北海道に移住することになるのだが…。 

その年の1 1月、新十津川の西村宏平より書状が届いた。
それまでにも、宏平からは、移住後、便りはしばしばあった。
移住後、十津川村から第二の十津川郷を建設しようと言う意図と構想とで、村を「新十津川村」と命名したこと。 初めは開拓に苦労し、死者も出るほどであったが、漸く村としての形が出来上がって来たこと。 日清戦争後、文武館が設置されたこと。
明治27年には、上徳富のシスン島に社殿を建てて旧十津川の玉置神社の分霊を奉安し、祭礼も行ったこと。 など、宏平からの便りは、新十津川村造りが順調に推移していることを伝えていた。 
しかし、その年の11月の便りは、暗転したものになった。
「栽培されていた全村の亜麻が全滅した」というものだった。 新十津川村にとって開村以来の大災害であった。 全村の亜麻が、夜盗虫によって全滅したのだと書いてあった。 

「土を掘れば、ころころした虫が何匹でも出てくる。指ほどの大きな虫が、びっしりと亜麻の茎によじのぼっている。それが、何百町もある亜麻畑を襲ったのである。虫の大群と言ってよかった。白菜も、黍も、粟も、稲黍も、皆食い荒らされされてしまった。呪はれている!と思った。」
と宏平は書いてきた。
新十津川村の畑作が全滅したのである。 
「畑作の全滅で、土地を売る者が増え、村を出る者が多くなり、折角作った住宅も空き家が多くなってきた。村では前からの計画もあり、徳富川上流の土地と、北幌加の土地の貸下げを受け開墾を開始するのだが人が足りない。是非来て扶けてくれ。住宅はある。生活は充分面倒を見る。 家族全員の力で開墾すれば、二、三年で生活は安定するだろう。」という文面であった。

源蔵もサノも、その便りを読みながら戸惑うものがあった。
「今更?」 「今更、災害のあった新十津川に行って何か出来るというのだろう?生活の糧は得ることが出来るのであろうか・・・」 
しかし、これから先の事を考えるゆとりはあった。
サノの復縁後の3年間の源蔵一家の生活は、畑作の不振もあり、サノの支えはあるものの満足の出来る生活ではなかった。源蔵もサノも重清村での生活を見通していたのである。公人にも農民にも徹しきれぬこれからの生活に展望はなかった。 

「とうさん、北海道で一旗挙げよう。北海道に移ろう!おれが扶ける。」

それが1 5歳の利市の決断だった。源蔵もサノもそれに同意し、漸く生きる道が拓けて行くのを感ずるのだった。         

「斯る有様なれば北海道に渡航すれば遺利山の如く、土地海の如し、一挙にして陶未の富を為し、数年ならざるに大地主たるべし杯の妄想を起こし無謀軽率の渡航を企つ可からず……」 

移住ブームの最中に、徳島県より、北海道への移住が決して開拓の成功に結び付くものでないことを鋭く主張している視察者の言葉に耳をかたむけず、結局、明治30年、3 1 年の両年にかけ徳島県下より、223戸、約1.000人を超える人数が雨竜村を中心とした周辺に移住したのである。
そして、それから明治43年に至る迄、年を経る毎に、その数は増し、移住人数は、12,000人に達するのである。 
美馬郡は、中でも、その数は多く、総移住数の10%を占めていた。明治3 1年、源蔵の家族は、その移住した中の6人で、実際の移住地は新十津川村であった。そして、現地には、源蔵の家族の頼れる知人の西村宏平がいた。

 西村宏平からは移住の注意事項として、  
  1.渡航季節は3月下旬が良いこと。 
  2.渡航の時は、北海道協会に依頼し、旅費割引証を貰うこと。
  3.船賃は高いが郵船会社の汽船が効果的であること。  
  4.農具は、普通、開墾に要するものは、椎鋸、広角鍬、平鍬。斧、柄鎌、鎌、遠架、箕、麦飾等であるが、現地で買った方が恰好であること。
  5.炊事具は、現地で買った方が良いので携帯しない方が良いこと。
  6.衣類夜具は、寒地故、不廉なので持参した方が良いこと。
   など懇切に知らせて来ていた。そして、6人分、35円が送られてきた。この金額は、当時の移住費用としては少ないものではなかった。 

家と地所の整理は長男の茂平に委せた。
3月の中旬、近隣の縁者が集まって開いた送別の会があった翌日、源蔵、サノ、利市、の三人が、揃って、常念寺にある西村家先祖代々の墓に詣でた。  
「北海道で土地の貸し下げがあって、5年間で5町歩開けば自分のものになる。北海道に行って5、6年したら儲けて帰るさ」
普段、源蔵は縁者に、そう冗談めいた話をしていたが、反対にサノは二度と重清には帰れぬことを予感していたのだ。
開拓が生易しいものでないことを薄々感じていたのだ。
しかし、開拓することによって、暮らしが、今よりも良くなることを強く信じてもいた。そして與市とカノの卒塔婆が立つ墓前で「北海道移住」を告げるとき、それは、亡き両親に対する告別の時であった。  

明治3 1年3月の末、源蔵を初めとする家族5人、源蔵、サノ、利市、カネ、サタノ(2才)は、北海道に旅立った。
小松島港を目指し、村の渡し場より舟に乗り、徳島迄の撫養街道は馬車に乗った。港に着く迄の道程も平坦なものではなかった。
木綿の着物に絣の羽織を着、鳥打帽を被り下駄を履いた源蔵には汗ばむほどの春の日であった。同様の着物を着たサノは、当座の食料を入れたバスケットを左手に持ち、右手は三歳になったばかりのサタノを引き連れていた。
北海道に渡航するにしては、簡単な装備の家族であった。過ぎ行く春の日がそうさせたのかもしれない。
 馭者が話しかけても利市もカネも無言で故郷の山川に別れを告げているばかりであった。
馬車の窓を流れる讃岐の山脈も吉野の川も陽光に包まれた春の日で、川畔に咲く桜が今盛りだった。
「山にも川にも当分お別れだな……」と源蔵は思った。                     


重清村を出た翌日の午後、小松島港の波止場より先着の移住民達と艀に乗り、沖で待つ郵船会社の汽船、依姫丸に向かう時、流石に、源蔵もサノも胸に来るものがあった。
利市とカネは、絶えず平然とし波止場の見送り人に手を振っていた。 見送り人の中にクラと虎太郎もいた。
「カネ!かあさんを頼んだよ!」
とクラが叫んだ時、カネは
「姉ちゃんも!」と言い返し思わず涙ぐんだ。 
「あの船で北海道に行くのか!」
小樽波止場
小樽波止場明治32年    道行政資料課蔵

利市は初めて見る船が意外に小さく思えた。
サノに抱かれたサタノは急にぐずり、大きな声で泣き、止まなかった。
 蒼い海面のところどころに午後の光が斜めにさしこんで、そこだけが紫色に光っていた。
人と荷物をぎっしりと積み込んだ船内は異臭がかすかに立ち込め始めていた。 その船に乗った移住者達の中に同じ村で暮らしていた仲間がいた。これから先、苦楽を共にする仲間達であった。 人いきれで空気が濁る船は移住民の悲喜劇を乗せ、一路、小樽に向かって行った。 そして、その果てに源蔵の家族を待つ北海道樺戸郡新十津川村があった。
源蔵、42歳、サノ、4 5歳、カネ、1 7歳、利市1 6歳、サタノ、3歳の春の日であった。
 その時代、日本の最初の政党内閣である隈板内閣が成立し、ロシアが清国より旅順、大連を租借し、日露間に紛争が起き始めつつある時代であった。



 

回想



 昭和56年1月、光源の長男、西村昌之氏は、株式会社ファインホームの社内報に「回想・創業五十年」なるエッセイを載せた。
函館中学校時代(昭和14年頃)の冬休み、父、光源に同行させられ、岩手、東京、名古屋、徳島、大阪、等をミシン部品の仕入の為に旅をしたことの思い出を書いたものである。 
 「…大阪で部品メーカーや問屋など数拾軒を回り歩いた記憶があります。更に四国の徳島でテーブルの仕入をしましたが、その時に吉野川の上流の西村家のあった山村を汽車から眺め、猫のひたい程の段々と重なった田園を見て、比処が先祖の地かと感慨深く物思いにひたった事が思い出されます。 
それで明治の中頃、一族が、北海道樺戸郡新十津川に移住し、開墾したのかと、思いました。最近、NHKの日曜日の夜八時から放映する「獅子の時代」にも樺戸監獄が出て来ましたが、新十津川村は、積雪三米の豪雪地帯ですから、開墾は苦労だったと思います。
戦時中、戦後、食料難の時に、函館本線滝川駅から歩いて往復五里か三里の雪深い道を、西村家から分けてもらった米一俵を背負ってよくも通ったものだと若さの力には本当に懐かしい思い出です。・…‥」とある。 
文章は簡略なものであったが、西村家の祖先の発祥の地が徳島であると知らされた意外感と併せて、父、光源が早い時に、その子に祖先の血脈を知らせていたこと。西村家四代の歴史が時代を超えて波乱に満ちたものであったことを、この文章が物語っていたことを、今、更めて思い知るのである。

 

明治3 1年4月中旬、依姫丸は小樽港に近づいた。
積丹半島を回って、東へ東へと進む時、ほの白く夜が明けて行った。 
源蔵は、
「出てみるか…」
と利市に言い二人は、甲板に出た。4月とは言いながら肌を剌すように海の風は冷たく吹きつけた。
雲が空一面に展がり、船縁りを打つ飛沫と共に、雨が落ちて来ていた。曇り日の日であった。
「寒くないか!」
と思わず源蔵は、利市に言ったが、利市は、答えないで笑っていた。
それでも利市は、急いで船室に戻り、船の中で贈られた毛布を持ってきて源蔵と羽織った。能登半島沖を過ぎ、佐渡を遠望した時も、渡島の大島、小島、を見、奥尻の島を見ながら北上したときも海は時化ることもなく、船は、大きな揺れもなく進んでいたが、今、小樽港を目の前にして気象は一変したように二人には感じられた。
「これが北海道か!」
と源蔵は思った。 
小雨が止んだ頃、行く手に丸い山が見え、まだ雪の残る山脈が続いていた。
あの10数日前に出発した重清村の暖かい春の日が嘘のように思えたが、それを打ち消すように、船室に戻り、
「小樽に着くぞ!そろそろ準備せんかい!」
とサノに言った。500トンの船とは言いながら、多数の人と、荷物を詰めこんだため、坪あたり5人の客席は伸び々として寝ることも出来ず、しかも、船内は暗くて灯りをともして物を探すほどで、サタノは、、またまた泣きじゃくっていた。
サノも、カネも、そんな長い船旅に疲れきっていたが、力を振り絞るように腰を上げた。まだ旅は終わらず、更に長い旅は続くのである。 
 

山梨県移民
山梨県移民明治42年    北大図書館蔵

移住民が船から乗り換え、満杯になった艀は、蒸気船が6、7艘、錨をおろす港を波止場目指して進んで行った……。
小雨の小樽の駅は、それでも賑わっていた。近くの石炭置場は、広々とし、黒光りした石炭の小山を作っていた。汽車や馬車の往復も多かった。
 源蔵の家族は、移住民達と停車場に集合して係りの指示を待ったが翌日の午前3時の空知太行きの汽車に乗ることに決まり、それ迄は近くの集会所で休んでいることを命じられた。 
当時、既に、北海道炭鉱鉄道会社の経営する小樽→岩見沢→空知太(滝川)間の幌内鉄道は開通していた。
目的は、幌内炭鉱(三笠市)より発掘された石炭を小樽まで輸送するのが目的で、移住民の乗車は二次的なものであったので客車は粗末なものであり、一日に二回程の発着であった。
 集会所で、翌朝の3時迄、待機を命ぜられ、夜の弁当も支給されたが、曇り日のその日は寒く、サノはサタノを預けて力ネと駅に並ぶ呉服店に行って、全員のジパン(農作業用の羽織)とサルバカマ(農作業用のモンペ)を買い、着替えた。 
函館港到着移民
函館港到着移民    北大図書館蔵

翌日の午前3時、源蔵の家族は汽車に乗った。汽車は、我先に乗る移住民でごった返し通路にまで座り込むほどであった。駅は未だ夜でプラットホームに電灯が淡い光を落としていた。
空が、漸くほの白くなる頃、札幌の停車場に着いた。がらんとした構内に小樽行きの弁慶号が居て発車を知らせる汽笛を鳴らしていた。 
汽車に初めて乗る源蔵の家族は、全てが初体験であった。夜が明ける頃、サタノは、カタカタという汽車の音で目を覚まし、初めて笑った。
その日も又、曇りの日で、小雨がしきりに汽車の窓を濡らした。汽車は、広野を過ぎたと思えば又、森林の中を走った。その繰り返しであった。
黒々とした樹海の側を通った時もあった。密生した熊笹が地表を覆い、その中から、直径三尺、高さ二十間もある巨木が立ち並び、森林は、昼ではあったが暗く、奥まで見極めることが出来なかった。
そして、春も四月だと言うのに残雪が行く手の線路の側に固く残っていた。
それぞれの停車場の側には人家はあったが、それを過ぎると全く見ることは出来なかった。それが長く続いた。
午後には空知太に着くことになっていた。空は暗く雨は一層強くなった。予期はしていたが美馬とは違う自然の大きさに源蔵の家族は黙りつづけていたが、サノは
「本当の春は来るのだろうか…」
と心の中でふと思ったりもしていた。 
源蔵は源蔵で、サタノを抱くそんなサノの横顔を見ながら、
「俺は甲斐性のない男で、石狩くんだり迄来てしまった。甲斐性のない俺が家族の支えになって5人を養って行けるだろうか」
と繰り返し考えていた。
しかし、一方で、あの時、重清の家でサノが言ったことを思いだしてもいた。 
「あんた!私は、あんたが頼りなんです。あんたがしっかり働いてくれさえすれば、きっと暮らしは楽になるはずです。私はもう重清には帰らない積もりです。だから一生懸命働いて下さい!お願いです。
私の親や、あんたの兄姉や、美馬に残った衆を必ず見返して下さい!利市も、カネも、あんたをきっと扶けるでしょう。私は、あんたを信じて付いて行きます。」 
それはサノの故郷への訣別の宣言でもあり、同時に源蔵に対する戒めの言葉でもあった。 
その重い責任を背負った源蔵と、その家族は、今、石狩の新十津川村に向かっているのである。


乙板第一一二四号 

徳島県美馬郡重清村 西村源蔵他家族五名
右者、土地開墾ヲ目的トシ北海道二移住スルモノナリ
依ツテ茲二之ヲ証明ス

      明治三十一年三月一日

徳島県
 

「石狩に来たのだ!石狩の野に来たのだ!」と源蔵は思った。市知来を過ぎ、空知太はもう間もなくだった。 
停車場には西村宏平が迎えに出ているはずだった。




 

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