『北海道石狩国雨竜郡当家農場二於イテ移住小作人募集致侯二付自費渡航望ノ向ハ、 |
徳島市大字富田浦町中屋敷庄野致遠方へ至急可被申出諸事懇篤指示可致侯比段広告侯也。 |
東京 蜂須賀家々令』 |
蜂須賀農場 |
移住して、開墾して、2年で金も貯まり、耕す馬や農具も買えることが出来、その頃になれば人の手も省くことも出来、2町5、6反歩位は軽く耕せる。わしは、鎌田達と共同でやることにした。苦しむかもしれないが戦ってみることにした。
…お前様も来なせい。美馬にいては暮らせない。望みのある暮らしがしたくなったのだよ。」
そして、3月に徳島の港から出港するのだと言った。源蔵は、その話しをまるまる信用せずに軽く受け流していた。
しかし、“宏平さんも、近藤もみんな北海道に行く!北海道は生甲斐のある場所か” 源蔵は反芻していた。
「お前様も来なせい…」と言う4 0歳になった林太郎の諭すような重みのある言葉は、日増しに源蔵の心に強くのしかかってくるのであった。
明治30年3月の初め、小松島港から、北海道雨竜村に移住する美馬団体8戸3 2人が村の渡し場より小松島に向かった。
その中に近藤林太郎一家もいた。小松島港から出る船は相模丸で、小樽との周期船であり、小松島港を出、四国を迂回し、関門海峡を通り、日本海に出るのだと言う。
利市は、
「とうさん、おれも船を見たい。北海道に行きたいわ」
と突然言った。それを聞く源蔵は
「あほにせんといて」
と荒々しく言ったが、1年後の同じ月に、北海道移住は、源蔵一家に、事実となって訪れることになる。
その時の利市は、広大な北海道に対する夢を抱いていたのかもしれない。
利市は、1 5歳になり、利発で意思堅固な青年に成長していて、若き日の祖父、與市に似るものがあった。
その年の9月、同じ重清村の663番屋敷に住む谷本弁吉から谷本の長男、虎太郎と、源蔵の長女、クラに縁組の相談が持ち上がった。クラは、20歳になっていた。
普段からの交際で、弁吉と虎太郎は、クラの人となりを知り尽くしていた。
クラも虎太郎に好意を持っていた。弁吉は、源蔵の家族が北海道移住に傾きかけているのを察知していた。差し当たり、弁吉はクラを源蔵の家族から引き離し、虎太郎の下に引きとりクラの北海道行きを阻止しょうと思っていたのである。
それが具体化するのは10月にに入ってからのことである。クラは海のものとも山のものとも知れぬ、多分に賭を伴った北海道行きには反対であった。
サノは、クラが、谷本家の一員になることに何の拘りも持ってはいなかった。10月の中旬、仮の祝言が交わされクラは、谷本家に嫁いで行った。
サノは、クラの幸せを心から祈っていた。クラが重清に残ることに不安もあったが、それに倍する安堵感もあったのである。谷本虎太郎もクラも数年後、開拓が一段落した北海道に移住することになるのだが…。
その年の1 1月、新十津川の西村宏平より書状が届いた。
それまでにも、宏平からは、移住後、便りはしばしばあった。
移住後、十津川村から第二の十津川郷を建設しようと言う意図と構想とで、村を「新十津川村」と命名したこと。 初めは開拓に苦労し、死者も出るほどであったが、漸く村としての形が出来上がって来たこと。 日清戦争後、文武館が設置されたこと。
明治27年には、上徳富のシスン島に社殿を建てて旧十津川の玉置神社の分霊を奉安し、祭礼も行ったこと。 など、宏平からの便りは、新十津川村造りが順調に推移していることを伝えていた。
しかし、その年の11月の便りは、暗転したものになった。
「栽培されていた全村の亜麻が全滅した」というものだった。 新十津川村にとって開村以来の大災害であった。 全村の亜麻が、夜盗虫によって全滅したのだと書いてあった。
「土を掘れば、ころころした虫が何匹でも出てくる。指ほどの大きな虫が、びっしりと亜麻の茎によじのぼっている。それが、何百町もある亜麻畑を襲ったのである。虫の大群と言ってよかった。白菜も、黍も、粟も、稲黍も、皆食い荒らされされてしまった。呪はれている!と思った。」
と宏平は書いてきた。
新十津川村の畑作が全滅したのである。
「畑作の全滅で、土地を売る者が増え、村を出る者が多くなり、折角作った住宅も空き家が多くなってきた。村では前からの計画もあり、徳富川上流の土地と、北幌加の土地の貸下げを受け開墾を開始するのだが人が足りない。是非来て扶けてくれ。住宅はある。生活は充分面倒を見る。 家族全員の力で開墾すれば、二、三年で生活は安定するだろう。」という文面であった。
源蔵もサノも、その便りを読みながら戸惑うものがあった。
「今更?」 「今更、災害のあった新十津川に行って何か出来るというのだろう?生活の糧は得ることが出来るのであろうか・・・」
しかし、これから先の事を考えるゆとりはあった。
サノの復縁後の3年間の源蔵一家の生活は、畑作の不振もあり、サノの支えはあるものの満足の出来る生活ではなかった。源蔵もサノも重清村での生活を見通していたのである。公人にも農民にも徹しきれぬこれからの生活に展望はなかった。
「とうさん、北海道で一旗挙げよう。北海道に移ろう!おれが扶ける。」
それが1 5歳の利市の決断だった。源蔵もサノもそれに同意し、漸く生きる道が拓けて行くのを感ずるのだった。
「斯る有様なれば北海道に渡航すれば遺利山の如く、土地海の如し、一挙にして陶未の富を為し、数年ならざるに大地主たるべし杯の妄想を起こし無謀軽率の渡航を企つ可からず……」
移住ブームの最中に、徳島県より、北海道への移住が決して開拓の成功に結び付くものでないことを鋭く主張している視察者の言葉に耳をかたむけず、結局、明治30年、3 1 年の両年にかけ徳島県下より、223戸、約1.000人を超える人数が雨竜村を中心とした周辺に移住したのである。
そして、それから明治43年に至る迄、年を経る毎に、その数は増し、移住人数は、12,000人に達するのである。
美馬郡は、中でも、その数は多く、総移住数の10%を占めていた。明治3 1年、源蔵の家族は、その移住した中の6人で、実際の移住地は新十津川村であった。そして、現地には、源蔵の家族の頼れる知人の西村宏平がいた。
西村宏平からは移住の注意事項として、
1.渡航季節は3月下旬が良いこと。
2.渡航の時は、北海道協会に依頼し、旅費割引証を貰うこと。
3.船賃は高いが郵船会社の汽船が効果的であること。
4.農具は、普通、開墾に要するものは、椎鋸、広角鍬、平鍬。斧、柄鎌、鎌、遠架、箕、麦飾等であるが、現地で買った方が恰好であること。
5.炊事具は、現地で買った方が良いので携帯しない方が良いこと。
6.衣類夜具は、寒地故、不廉なので持参した方が良いこと。
など懇切に知らせて来ていた。そして、6人分、35円が送られてきた。この金額は、当時の移住費用としては少ないものではなかった。
家と地所の整理は長男の茂平に委せた。
3月の中旬、近隣の縁者が集まって開いた送別の会があった翌日、源蔵、サノ、利市、の三人が、揃って、常念寺にある西村家先祖代々の墓に詣でた。
「北海道で土地の貸し下げがあって、5年間で5町歩開けば自分のものになる。北海道に行って5、6年したら儲けて帰るさ」
普段、源蔵は縁者に、そう冗談めいた話をしていたが、反対にサノは二度と重清には帰れぬことを予感していたのだ。
開拓が生易しいものでないことを薄々感じていたのだ。
しかし、開拓することによって、暮らしが、今よりも良くなることを強く信じてもいた。そして與市とカノの卒塔婆が立つ墓前で「北海道移住」を告げるとき、それは、亡き両親に対する告別の時であった。
明治3 1年3月の末、源蔵を初めとする家族5人、源蔵、サノ、利市、カネ、サタノ(2才)は、北海道に旅立った。
小松島港を目指し、村の渡し場より舟に乗り、徳島迄の撫養街道は馬車に乗った。港に着く迄の道程も平坦なものではなかった。
木綿の着物に絣の羽織を着、鳥打帽を被り下駄を履いた源蔵には汗ばむほどの春の日であった。同様の着物を着たサノは、当座の食料を入れたバスケットを左手に持ち、右手は三歳になったばかりのサタノを引き連れていた。
北海道に渡航するにしては、簡単な装備の家族であった。過ぎ行く春の日がそうさせたのかもしれない。
馭者が話しかけても利市もカネも無言で故郷の山川に別れを告げているばかりであった。
馬車の窓を流れる讃岐の山脈も吉野の川も陽光に包まれた春の日で、川畔に咲く桜が今盛りだった。
「山にも川にも当分お別れだな……」と源蔵は思った。
重清村を出た翌日の午後、小松島港の波止場より先着の移住民達と艀に乗り、沖で待つ郵船会社の汽船、依姫丸に向かう時、流石に、源蔵もサノも胸に来るものがあった。
利市とカネは、絶えず平然とし波止場の見送り人に手を振っていた。 見送り人の中にクラと虎太郎もいた。
「カネ!かあさんを頼んだよ!」
とクラが叫んだ時、カネは
「姉ちゃんも!」と言い返し思わず涙ぐんだ。
「あの船で北海道に行くのか!」
小樽波止場明治32年 道行政資料課蔵 |
明治3 1年4月中旬、依姫丸は小樽港に近づいた。
積丹半島を回って、東へ東へと進む時、ほの白く夜が明けて行った。
源蔵は、
「出てみるか…」
と利市に言い二人は、甲板に出た。4月とは言いながら肌を剌すように海の風は冷たく吹きつけた。
雲が空一面に展がり、船縁りを打つ飛沫と共に、雨が落ちて来ていた。曇り日の日であった。
「寒くないか!」
と思わず源蔵は、利市に言ったが、利市は、答えないで笑っていた。
それでも利市は、急いで船室に戻り、船の中で贈られた毛布を持ってきて源蔵と羽織った。能登半島沖を過ぎ、佐渡を遠望した時も、渡島の大島、小島、を見、奥尻の島を見ながら北上したときも海は時化ることもなく、船は、大きな揺れもなく進んでいたが、今、小樽港を目の前にして気象は一変したように二人には感じられた。
「これが北海道か!」
と源蔵は思った。
小雨が止んだ頃、行く手に丸い山が見え、まだ雪の残る山脈が続いていた。
あの10数日前に出発した重清村の暖かい春の日が嘘のように思えたが、それを打ち消すように、船室に戻り、
「小樽に着くぞ!そろそろ準備せんかい!」
とサノに言った。500トンの船とは言いながら、多数の人と、荷物を詰めこんだため、坪あたり5人の客席は伸び々として寝ることも出来ず、しかも、船内は暗くて灯りをともして物を探すほどで、サタノは、、またまた泣きじゃくっていた。
サノも、カネも、そんな長い船旅に疲れきっていたが、力を振り絞るように腰を上げた。まだ旅は終わらず、更に長い旅は続くのである。
山梨県移民明治42年 北大図書館蔵 |
函館港到着移民 北大図書館蔵 |
乙板第一一二四号 徳島県美馬郡重清村 西村源蔵他家族五名 右者、土地開墾ヲ目的トシ北海道二移住スルモノナリ 依ツテ茲二之ヲ証明ス 明治三十一年三月一日 徳島県 |
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