樺戸集治監 北大図書館蔵 |
「石狩川」は、伊達藩の支藩、岩出山の城主、伊達邦夷や、家老の阿賀妻謙を始めとする団体が石狩川のほとりの地である当別を開拓する苦闘を描いた小説であった。
私の乗る電車に10数人の高校生が乗っていた。茶髪でルーズソックスを履いた現代っ子と思われる女高生が盛んに同じクラスの男の子のことを噂し合っていた。
「この子たちは、自分たちの住む土地の開拓の歴史を学んだのであろうか?」と私は思った。
その時、今、私の書く源蔵やサノや利市のことが瞼に重なった。 石狩当別から電車は、一輛だけのワンマンカーとなった√農民と思われる婦人が二人だけ乗っているだけであった。 石狩月形に着いた時、初めて私はカメラのシャッターを押した。行刑史に残る彼の有名な樺戸集治監のあった村である。
明治1 3年、初代典獄である月形潔が集治監を樺戸郡に建設し、重罪男囚のみが常時、2.000人近く収容され恐れられていた。
大正8年、廃監となり、現在は、北海道行刑資料館になっている。吉村昭の 「赤い人」は酷寒の原野に展開する囚徒と看守のドラマを描き当時の事が忍ばれる小説である。
石狩月形より浦臼に至る沿線には右手が広大な刈り取られた水田地帯、左手が樹林になっていて、それが長く続いた。樹林は、開拓時を連想させた。
南下徳富を過ぎる頃から前方に密集した人家が見え隠れし、中徳富を過ぎ、最終の新十津川駅に着く頃には普通の町とは変わらない住宅が続いた。
意外に思ったのは新十津川駅で蜘蛛の巣を張ったような、くすんだ無人駅で
「これが新十津川の駅か?」
と期待外れの感を深くしたが、町に出てみると風景は一変し、区画整理された土地に新しい時代を思わせる住宅が立ち並び、全て舗装された道路に車の往来が激しかった。
町並みを通り、役場や開拓記念館や新築されたばかりの図書館を訪ねてみて、噂に違わず新十津川町が北海道でも有数な富裕な農村であることを再認識する始末だった。
その日の北海道新聞の経済欄には、「今年の水稲の収穫量が6年連続の豊作であり、石狩地区は、前年比102%である」ことを報じていた。
菊水公園を通り、 枯れ葦の続く川の側に立った。川幅200m位の、水量の多い粘土色をした川が重く流れていた。
石狩川である。枯れた葦の間から鳥が飛び立った。
青い空から午前の太陽の光が射していたが、目を閉じる私の頬に初冬の川風は冷たく流れた。
この川が富裕な新十津川を作り、反面、怒り狂う災害の立で役者ともなりながら新十津川の歴史を型造って来たのである。
勿論、今では、船着場は、ここでは何処にも見当たらず、遠くに見える工場の長い煙突から出る煙が印象的であった。
更に歩を移して町の中央部に出た時、ここにも石狩川に注ぐ徳富川があった。私は徳富橋の上に立った。遠く、玉置神社が名を替えた新十津川神社のある樹林と、黄色くなったピンネシリの山が眺まれた。
西村源蔵の血が流れている現在の西村家は、町の中央部を離れ、北側に尾白利加川が流れ、背後が雨竜町と接する山裾で、前面が広大な水田地帯となっている北大和地区にあり、そこから数キロ離れた士寸町の小高い丘の上の墓地に西村源蔵と、その妻、サノの墓があるのだが、私は、敢えて西村家も墓地も訪ねることを止めた。この長い歴史の中の開拓者達の闘いの様を書き終えた時に、もう一度この町を訪ねようと心に誓ったのである。
開拓記念館 |
開拓記念館 |
それにしても、長い距離であり、長い年月である。徳島と新十津川。故郷に帰らず新十津川の土に帰った西村源蔵とサノ。
明治3 1年から今日まで彼等の愛と憎しみの102年の年月が流れているのである。
私は再度、明治3 1年に戻ることになるが、その前に現在の新十津川町の概要に触れておくことにする。
新十津川町 |
樺戸郡は、空知支庁南西部の農村地帯で、月形町、浦臼町、新十津川町の1郡3町よりなる。
町章は母村の奈良県十津川村の村章と同一。菱形十字。十は十津川町頭文字で先端は、剣を形どる。
新十津川町は、空知支庁の中央、樺戸郡の北端にあり、石狩川の右岸に位置している。
タウンマップ |
その後、深川村、雨竜村戸長役場を分離、1902年二級町村制を施行し19 57年町制施行。町域は肥沃な石狩平野と、西方に広がる丘陵地帯、山地からなり、町面積の約8割が山林。基幹産業は農業で、耕地面積は、約6. 3 0 0f。 北海道でも屈指の米どころ。 減反制作の強化で、米に代わる肉牛の生産や、農地開発にlる小麦の作付けが進められている。
観光では、農村観光が売り物。ふるさと公園のほか、吉野公園、里見キャンプ場がある。富山県から移入した獅子神楽は郷土の文化財として有名。
明治3 7年1 2月、西村源蔵は、雨竜郡北竜村恵岱別の原野に入植していた。彼の入植は、恵岱別に四戸が入植して開拓を始めたその中の一戸であった。茫漠たる原野であった。果てしなく雪が降る原始林であった。
その中での巨木の伐採が彼の主な仕事であった。彼は新たなる土地と糧を求めて休むことなく働き続けた。
源蔵は家族を新十津川に置いて単身の生活であった。
新十津川の自家の開拓地は先の見通しが立った時に西村宏平の扶けを借りながら子の利市に全てを委ねていた。
源蔵は新十津川に入植したその後の五年間を絶えず振り返り、絶えず思い出すことがあった。源蔵はその五年間の中で、一度だけ、犯してはならない間違いを犯していたのである。
その間違いが、この恵岱別という原野に彼を呼び寄せたのかもしれなかったのである。
それは、彼に一切を託し彼を信じて着いてきた妻、サノに対する完全な裏切りであった。
彼の側に彼を扶けるもう一人の女性が存在していたのである。彼は、その女性に反面、感謝の心を持ちながら、一方、自分自身に嫌悪し、限り無いふしだらを恥じたのだが、しかし、今は、その女性自身に、そう木下エノに鎚って生きて行かなければならない羽目に陥ち入っていたのである。
そして、明治33年、この木下エノとの間に新しい生命、西村源二郎が誕生していたのである。
しかし、この木下エノは、その後の西村家にとって永遠に謎の女性となることになるのだが。
そして、恵岱別に入植する前年の明治3 5年、彼の重清村からの、かけがいのない伴侶であったサノがこの世を去っていたのである。
運命の生と死が源蔵を襲ったのである。
彼、源蔵の人生にとって最大の危機であり崩壊寸前の5年間であったと言うことが出来る。
源蔵は明治3 1年、新十津川 に入植した時の事を思い起こす。思い起こしながら、よくここまで耐えて来たものだと思うことがしばしばだった。
父、與市が敢為、堅忍の精神を説いたが、反面、自身が不実な人生を送って来たような気持ちにもなるのであった……。
明治3 1年4月、空知太(滝川)の駅に出迎えた西村宏平の曳いて来た馬車2台に家族6人が乗り、上徳富の開拓小屋に着く迄の黄昏迫る雨の長い道は、初めは原始林の続く泥濘の道であったが、雨竜街道を境に新十津川に入った時、原始林の連なりは次第に切れて行き、切り株が疎らに残る畑が一望に開けて行った。
奈良十津川の開拓民が十数年を費やして伐採し、整地した広大な農地に変わっていたのである。
方々に枯れ果て、腐食した亜麻が積み重ねられ、一部は燃え滓になっているものもあったが、それは前年、夜盗虫に襲われた残骸であり、災害の大きさを物語っていた。一区画毎に小屋が見え、小屋の煙突から夕べの煙りが流れていた。
「源蔵さん、御覧の通り土地の大半は開拓されてしまったが、まだまだ未開拓の土地は残っている。北幌加と徳富の上流、盤の沢などだが、あんたの都合の良い土地を引き受けて下さっても良いが、この土地を捨てて出て行った郷の者もいる。出来ることなら、その後を引き継いで行って貰いたい。近いうちに払い下げも行われると聞いている。また、水田化も考えているので……。」
宏平の言う通りで、現在の国道275号線、国道4 5 1 号線の沿線は、中央区市街(役場、JR、開拓記念館)を中心に、南は浦臼、西は尾白利加川下流近く迄、抽選によって入植地は決められ開拓も為されていたのである。
当時、既に新十津川村の利点の多い要所は先住開拓者の所有に帰していたのである。源蔵の場合は確実に後発であった。
西村宏平が源蔵のために用意した住宅と土地は新十津川村の外れに在った。山を背に段丘のある奥地であった。
上徳富原野区画の一画であり、ここには、原始林がまだ残り、西に数里行くと尾白利加川が流れ本流の石狩川に注いでいた。
背後は、夫婦山を遠くに、山脈が連なっていた。住宅は、離農転出して行った者の空き家で17坪位の粗末な建物であった。屋根は長柾の押さえ葺きで壁は内外一回塗りの素壁であった。入ったところは、4、 5坪の土間で、その片隅には、農具や収穫物が置かれていた。その奥は一段と高くなって、七畳半の板敷の台所兼茶の間であり、中央に炉が切ってあり古びたストーブが置かれてあった。
奥の間も七畳半で板張りの上に擦り切れた畳が敷かれていた。天井はなく、ここに住んでいた住人が残していった幾本かの乾燥した唐黍が竿につるされていた。
家族は長い旅路の終わりが、この開けていない辺鄙な原野であり、建物も、開拓時から、そんなに変化していない小屋のような粗末なものであり、周囲には、集落がなく重清の武家風の家と比較し最初から暗い気持ちになるのであったが利市だけは頑くなに元気を装っていた。
漸く重清村から生活用具が届いたのは五月の半ばで衣類や農具が主なものであった。習慣の違うこの開拓地でも貴重な生活用具であった。
水田のないこの土地での主食は馬鈴薯や粟、麦などであり、玄米が、たまに官給米として配給される程度だった。
着いた時、宏平が白米を届けてくれたが五人の家族では長続きはしなかった。 サノは途方に暮れた。3歳のザタノの育児に困惑したのである。
しかし、最早、重清には戻れぬのである。それなりの覚悟は出来ていた。
五月も半ばになると残雪は全く消え、野は次第に緑が増していった。源蔵の家族は先ず家の周囲の畑の整地から作業を始めなければならなかった。
しかし2町歩のうち1町歩はまだ原始林のままであった。先住者の開墾した畑には枯れた雑草が生い茂り、枯れ葦も根強くはびこっていた。
移民の生活 |
新十津川大和の西村一族 |
関東十津川郷友会 |
明治3 1年8月の中頃の珍しく晴れた日の夕べ、西村源蔵は初めて木下エノに会った。
源蔵が一人で畑を見回っている時であった。
エノは、仲間二人と開墾の指導員と連れ立つ ていた。
その頃、開拓農家では畑作仕事の人手不足を女衆に頼んで補う習慣があった。畑の草取り、土たたき、取り入れなどが主な仕事であり、時には、道路工事や普請場の地慣 ‥らしなどもあり、結構、出稼ぎの女衆は良く働き、役立っていたのである。
エノは三人の 中の一人であったが、三人とも汗をかいている顔が褐色であり、体躯は頑健そのものに見 えた。
エノは、ジパンとサルバカマの作業衣で身をつくろい、麦藁帽子をかぶっていた。 エノは源蔵をじっと凝視した。
その眼寓からくる輝きが他の二人とは違うものがあった。
「何処から来なすった?」
と言う彼の問いに、「滝川に住んでいる」と言った。
「滝川?」
と彼は反問した。その頃から、空知太の名称は滝川に変わっていた。
滝川屯田兵の設置、 兵屋の建築、上川原野の開発で、その物資の陸揚場であった滝川は、土工夫が入り込み、 人の往来が激しい村に変わりつつあった。特に筋違い通りには、蕎麦屋や料理屋が並び活 況を呈していた。
「賑やかな通りの近くに一人で住んでいるのさ。暇な時に、こうして農 家の手伝いに来ている……」と言った。
一人で住んでいる。
移民の住宅 |
収穫 北大図書館蔵 |
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