第一部 開拓篇


 

第三章 開拓の地



平成11年1 0月末、筆者である私は新十津川町を訪ねた。私は、新十津川町より石狩川そのものに思い入れがあったからである。
私は、三橋美智也の歌う「石狩川悲歌」が好きだった。
「石狩川悲歌」と言っても思い当たる人は少ないだろう。昭和25、26年頃、、美智也、デビュー当時の歌である。    

 “君と歩いた石狩の流れの道の幾まがり 思い出だけが心に映る ああ初恋の遠い日よ”

哀調のあるその歌を歌いながら私の脳裏には、その時から幻の石狩川が刻まれていたのである……。
 早朝、私は札幌駅より新十津川行きの学園都市線に乗った。晴れた日で、今は住宅圏となったどの町も秋の日の朝の光に輝いているように感じられた。
沿線に植えられた樹木は美しく黄葉していた。新琴似をすぎ、石狩当別に至る間で初めて石狩川が目に映った。 
「ああ、ごこも開拓の地であったのだ」と思った。石狩太美の駅では、本庄陸男の「石狩川」を思い出した。
私の勤めた会社の事務所が一時、東京都中野区本町に所在していたのだが、本庄陸男が最後に病没した土地が杉並区和田本町であり、勤務先とは隣町であったところから私は、この本庄陸男に少なからず興味を持っていた。
樺戸集治監
樺戸集治監 北大図書館蔵  


「石狩川」は、伊達藩の支藩、岩出山の城主、伊達邦夷や、家老の阿賀妻謙を始めとする団体が石狩川のほとりの地である当別を開拓する苦闘を描いた小説であった。
 私の乗る電車に10数人の高校生が乗っていた。茶髪でルーズソックスを履いた現代っ子と思われる女高生が盛んに同じクラスの男の子のことを噂し合っていた。 
 「この子たちは、自分たちの住む土地の開拓の歴史を学んだのであろうか?」と私は思った。
その時、今、私の書く源蔵やサノや利市のことが瞼に重なった。 石狩当別から電車は、一輛だけのワンマンカーとなった√農民と思われる婦人が二人だけ乗っているだけであった。 石狩月形に着いた時、初めて私はカメラのシャッターを押した。行刑史に残る彼の有名な樺戸集治監のあった村である。
明治1 3年、初代典獄である月形潔が集治監を樺戸郡に建設し、重罪男囚のみが常時、2.000人近く収容され恐れられていた。
大正8年、廃監となり、現在は、北海道行刑資料館になっている。吉村昭の 「赤い人」は酷寒の原野に展開する囚徒と看守のドラマを描き当時の事が忍ばれる小説である。
 石狩月形より浦臼に至る沿線には右手が広大な刈り取られた水田地帯、左手が樹林になっていて、それが長く続いた。樹林は、開拓時を連想させた。
新十津川駅 南下徳富を過ぎる頃から前方に密集した人家が見え隠れし、中徳富を過ぎ、最終の新十津川駅に着く頃には普通の町とは変わらない住宅が続いた。 
意外に思ったのは新十津川駅で蜘蛛の巣を張ったような、くすんだ無人駅で
「これが新十津川の駅か?」
と期待外れの感を深くしたが、町に出てみると風景は一変し、区画整理された土地に新しい時代を思わせる住宅が立ち並び、全て舗装された道路に車の往来が激しかった。
町並みを通り、役場や開拓記念館や新築されたばかりの図書館を訪ねてみて、噂に違わず新十津川町が北海道でも有数な富裕な農村であることを再認識する始末だった。
 

その日の北海道新聞の経済欄には、「今年の水稲の収穫量が6年連続の豊作であり、石狩地区は、前年比102%である」ことを報じていた。
菊水公園を通り、 枯れ葦の続く川の側に立った。川幅200m位の、水量の多い粘土色をした川が重く流れていた。
石狩川である。枯れた葦の間から鳥が飛び立った。
青い空から午前の太陽の光が射していたが、目を閉じる私の頬に初冬の川風は冷たく流れた。
この川が富裕な新十津川を作り、反面、怒り狂う災害の立で役者ともなりながら新十津川の歴史を型造って来たのである。
勿論、今では、船着場は、ここでは何処にも見当たらず、遠くに見える工場の長い煙突から出る煙が印象的であった。 
更に歩を移して町の中央部に出た時、ここにも石狩川に注ぐ徳富川があった。私は徳富橋の上に立った。遠く、玉置神社が名を替えた新十津川神社のある樹林と、黄色くなったピンネシリの山が眺まれた。
 西村源蔵の血が流れている現在の西村家は、町の中央部を離れ、北側に尾白利加川が流れ、背後が雨竜町と接する山裾で、前面が広大な水田地帯となっている北大和地区にあり、そこから数キロ離れた士寸町の小高い丘の上の墓地に西村源蔵と、その妻、サノの墓があるのだが、私は、敢えて西村家も墓地も訪ねることを止めた。この長い歴史の中の開拓者達の闘いの様を書き終えた時に、もう一度この町を訪ねようと心に誓ったのである。

開拓記念館
開拓記念館  
開拓記念館
開拓記念館  


それにしても、長い距離であり、長い年月である。徳島と新十津川。故郷に帰らず新十津川の土に帰った西村源蔵とサノ。
明治3 1年から今日まで彼等の愛と憎しみの102年の年月が流れているのである。
私は再度、明治3 1年に戻ることになるが、その前に現在の新十津川町の概要に触れておくことにする。

 

 

 



 

新十津川町


樺戸郡は、空知支庁南西部の農村地帯で、月形町、浦臼町、新十津川町の1郡3町よりなる。
町章は母村の奈良県十津川村の村章と同一。菱形十字。十は十津川町頭文字で先端は、剣を形どる。
新十津川町は、空知支庁の中央、樺戸郡の北端にあり、石狩川の右岸に位置している。
タウンマップ
タウンマップ  
面積499.7 6 km、人口 9.4 29人。町の花はツツジ、木はオンコ。1 890年(明治23年)戸長役場を設置。その名称を移住者の出身地(奈良県十津川郡)にちなみ新十津川とする。
 

その後、深川村、雨竜村戸長役場を分離、1902年二級町村制を施行し19 57年町制施行。町域は肥沃な石狩平野と、西方に広がる丘陵地帯、山地からなり、町面積の約8割が山林。基幹産業は農業で、耕地面積は、約6. 3 0 0f。 北海道でも屈指の米どころ。 減反制作の強化で、米に代わる肉牛の生産や、農地開発にlる小麦の作付けが進められている。
観光では、農村観光が売り物。ふるさと公園のほか、吉野公園、里見キャンプ場がある。富山県から移入した獅子神楽は郷土の文化財として有名。


明治3 7年1 2月、西村源蔵は、雨竜郡北竜村恵岱別の原野に入植していた。彼の入植は、恵岱別に四戸が入植して開拓を始めたその中の一戸であった。茫漠たる原野であった。果てしなく雪が降る原始林であった。
その中での巨木の伐採が彼の主な仕事であった。彼は新たなる土地と糧を求めて休むことなく働き続けた。

源蔵は家族を新十津川に置いて単身の生活であった。
新十津川の自家の開拓地は先の見通しが立った時に西村宏平の扶けを借りながら子の利市に全てを委ねていた。
 源蔵は新十津川に入植したその後の五年間を絶えず振り返り、絶えず思い出すことがあった。源蔵はその五年間の中で、一度だけ、犯してはならない間違いを犯していたのである。
その間違いが、この恵岱別という原野に彼を呼び寄せたのかもしれなかったのである。
それは、彼に一切を託し彼を信じて着いてきた妻、サノに対する完全な裏切りであった。
彼の側に彼を扶けるもう一人の女性が存在していたのである。彼は、その女性に反面、感謝の心を持ちながら、一方、自分自身に嫌悪し、限り無いふしだらを恥じたのだが、しかし、今は、その女性自身に、そう木下エノに鎚って生きて行かなければならない羽目に陥ち入っていたのである。
そして、明治33年、この木下エノとの間に新しい生命、西村源二郎が誕生していたのである。
しかし、この木下エノは、その後の西村家にとって永遠に謎の女性となることになるのだが。


そして、恵岱別に入植する前年の明治3 5年、彼の重清村からの、かけがいのない伴侶であったサノがこの世を去っていたのである。
運命の生と死が源蔵を襲ったのである。
彼、源蔵の人生にとって最大の危機であり崩壊寸前の5年間であったと言うことが出来る。


 源蔵は明治3 1年、新十津川 に入植した時の事を思い起こす。思い起こしながら、よくここまで耐えて来たものだと思うことがしばしばだった。
父、與市が敢為、堅忍の精神を説いたが、反面、自身が不実な人生を送って来たような気持ちにもなるのであった……。 

明治3 1年4月、空知太(滝川)の駅に出迎えた西村宏平の曳いて来た馬車2台に家族6人が乗り、上徳富の開拓小屋に着く迄の黄昏迫る雨の長い道は、初めは原始林の続く泥濘の道であったが、雨竜街道を境に新十津川に入った時、原始林の連なりは次第に切れて行き、切り株が疎らに残る畑が一望に開けて行った。
奈良十津川の開拓民が十数年を費やして伐採し、整地した広大な農地に変わっていたのである。
方々に枯れ果て、腐食した亜麻が積み重ねられ、一部は燃え滓になっているものもあったが、それは前年、夜盗虫に襲われた残骸であり、災害の大きさを物語っていた。一区画毎に小屋が見え、小屋の煙突から夕べの煙りが流れていた。 
「源蔵さん、御覧の通り土地の大半は開拓されてしまったが、まだまだ未開拓の土地は残っている。北幌加と徳富の上流、盤の沢などだが、あんたの都合の良い土地を引き受けて下さっても良いが、この土地を捨てて出て行った郷の者もいる。出来ることなら、その後を引き継いで行って貰いたい。近いうちに払い下げも行われると聞いている。また、水田化も考えているので……。」

宏平の言う通りで、現在の国道275号線、国道4 5 1 号線の沿線は、中央区市街(役場、JR、開拓記念館)を中心に、南は浦臼、西は尾白利加川下流近く迄、抽選によって入植地は決められ開拓も為されていたのである。
当時、既に新十津川村の利点の多い要所は先住開拓者の所有に帰していたのである。源蔵の場合は確実に後発であった。  
西村宏平が源蔵のために用意した住宅と土地は新十津川村の外れに在った。山を背に段丘のある奥地であった。
上徳富原野区画の一画であり、ここには、原始林がまだ残り、西に数里行くと尾白利加川が流れ本流の石狩川に注いでいた。
背後は、夫婦山を遠くに、山脈が連なっていた。住宅は、離農転出して行った者の空き家で17坪位の粗末な建物であった。屋根は長柾の押さえ葺きで壁は内外一回塗りの素壁であった。入ったところは、4、 5坪の土間で、その片隅には、農具や収穫物が置かれていた。その奥は一段と高くなって、七畳半の板敷の台所兼茶の間であり、中央に炉が切ってあり古びたストーブが置かれてあった。
奥の間も七畳半で板張りの上に擦り切れた畳が敷かれていた。天井はなく、ここに住んでいた住人が残していった幾本かの乾燥した唐黍が竿につるされていた。
 家族は長い旅路の終わりが、この開けていない辺鄙な原野であり、建物も、開拓時から、そんなに変化していない小屋のような粗末なものであり、周囲には、集落がなく重清の武家風の家と比較し最初から暗い気持ちになるのであったが利市だけは頑くなに元気を装っていた。 
漸く重清村から生活用具が届いたのは五月の半ばで衣類や農具が主なものであった。習慣の違うこの開拓地でも貴重な生活用具であった。
水田のないこの土地での主食は馬鈴薯や粟、麦などであり、玄米が、たまに官給米として配給される程度だった。
着いた時、宏平が白米を届けてくれたが五人の家族では長続きはしなかった。 サノは途方に暮れた。3歳のザタノの育児に困惑したのである。
しかし、最早、重清には戻れぬのである。それなりの覚悟は出来ていた。 
五月も半ばになると残雪は全く消え、野は次第に緑が増していった。源蔵の家族は先ず家の周囲の畑の整地から作業を始めなければならなかった。
しかし2町歩のうち1町歩はまだ原始林のままであった。先住者の開墾した畑には枯れた雑草が生い茂り、枯れ葦も根強くはびこっていた。
移民の生活
移民の生活  

「これでは何をすることも出来ない!」
先ず枯草を集め燃やすことが必要であった。
鎌と鍬を手に家族の総出であった。
先住者が開墾せず投げ出して行った原始林にはヤチダモ、クルミ、ナラ、ハンノキ、イタヤなどの巨木が空を覆いつくすかのように生えていた。
更に下には熊笹が密生していた。丈高な熊笹が層を成していた。弾力性のある熊笹は鎌だけでは切り取られぬほど強靭であった。
「燃やさなければ!」と源蔵は思った。 
畑は簡単に耕地とはならなかったが、それでも6月には枯草も処理され肥沃な土が露出してきた。
差し当たり源蔵と利市は家族の生きるための食糧を作らなければならなかった。 
畑仕事は土を起こしてから種を蒔くのでその土起こしが大変であった。
 源蔵と利市は、宏平に紹介された指導員の手ほどきを受けながら馬鈴薯、唐黍、麦などを植え付けていった。
種を蒔いてからの畑はカネに任し源蔵と利市は原始林の巨木を切り倒していった。
鋸や斧で木を切り倒す。土中から木の根を引き抜く。それらを野の淵に集める。木や下草や笹を燃やす。燃やすことの出来ない木は業者に頼み尾白利加川に流す。伐採し終った土地を畑として耕す。これが開墾の主な仕事であった。 
源蔵と利市、カネが働き手であった。逞しく強い労力が必要であった。初めは一日の労働を終えると立ち上がれぬ程の疲労があったが、時が経つにつれて、それにも慣れて来て、開墾の指導員達と挨拶を交わしながら
「一本の木を切り倒す毎に空から天道様の光が射し、あたりが明るくなり空か広くなるのでそれが楽しみなんだ!」
と源蔵は口癖のように言い早く五町歩の土地の地主になるのが夢のようであった。
サノはそんな彼を見ながらほっと胸を撫で下ろすのが常だった。                       
西村一族
新十津川大和の西村一族  

関東十津川郷友会
関東十津川郷友会  

  7月に入ると夏の暑さが来た。
原始林は風通しが悪く、ほとばしるように汗が流れ出る。 急に蚊やブドガ出始め、汗にまみれた肌に吸い付き剌すのである。木や笹を燃やすのは夜であった。
赤々と夜空を焦がす日が何日もつづいて行く。休む日もなく、一日め終わりが 9時であり10時であった。8月に入った。畑に植えた馬鈴薯や麦、黍が、どうやら確実 に伸びていくようだった。
「この分だと秋には、食いぶち位、獲れるかもしれない」
希望の灯が遠くに見えてくるようであった。
しかし、この頃から雨の降る日が多くなった 天候異変であった。
明治3 1年の新十津川は、いや北海道は、不思議に雨の多い年であった。


  

明治3 1年8月の中頃の珍しく晴れた日の夕べ、西村源蔵は初めて木下エノに会った。 
源蔵が一人で畑を見回っている時であった。
エノは、仲間二人と開墾の指導員と連れ立つ ていた。
その頃、開拓農家では畑作仕事の人手不足を女衆に頼んで補う習慣があった。畑の草取り、土たたき、取り入れなどが主な仕事であり、時には、道路工事や普請場の地慣 ‥らしなどもあり、結構、出稼ぎの女衆は良く働き、役立っていたのである。
エノは三人の 中の一人であったが、三人とも汗をかいている顔が褐色であり、体躯は頑健そのものに見 えた。
エノは、ジパンとサルバカマの作業衣で身をつくろい、麦藁帽子をかぶっていた。 エノは源蔵をじっと凝視した。
その眼寓からくる輝きが他の二人とは違うものがあった。 
「何処から来なすった?」
と言う彼の問いに、「滝川に住んでいる」と言った。
「滝川?」 
と彼は反問した。その頃から、空知太の名称は滝川に変わっていた。
滝川屯田兵の設置、 兵屋の建築、上川原野の開発で、その物資の陸揚場であった滝川は、土工夫が入り込み、 人の往来が激しい村に変わりつつあった。特に筋違い通りには、蕎麦屋や料理屋が並び活 況を呈していた。
「賑やかな通りの近くに一人で住んでいるのさ。暇な時に、こうして農 家の手伝いに来ている……」と言った。
一人で住んでいる。
移民の住宅
移民の住宅  

その言葉には深い意味が隠されているような気がし、源蔵はそれとなく感ずるものがあった。
「ねえ、使ってくれんかね。草取りにでも…」と念を押すようにエノは言った。
「あんたの名前は?」
「木下、藤 吉郎の木下。本当は福井の生まれさ。福井から北見に出て、北見から滝川に流れて来たんだよ……」
“放浪の身かよ”と源蔵は思った。
しかし、エノの言葉の節々に意思の強さが 感じられた。
「あんさんの生まれは?」源蔵をエノはあんさんと呼んだ。
「四国よ。四国 の美馬から来たのよ。名前は西村だ。俺と同じ郡の仲間が隣の雨竜に組んで来ている。雨 竜の蜂須賀農場に…」
「あんさん!」とエノは言った。
「雨竜は滝川の側よ。私も時々蜂 須賀に行うて働く時だってあるよ」
「美馬の連中に宜しく言ってくれ…」 
 彼は近藤林太郎や鎌田仙蔵や国見泰平などの顔を一瞬思い浮かべた。
そして「雨竜に行 くなら案内するよ」と言うエノの言葉を心にとどめた。
草取りについては彼は即断はしなかった。彼と利市とカネの三人がいれば、そ の日その日の仕事のやり繰りは、どうにか人手を借りずに済ます事が出来ていたのである。 
「秋にでも頼む事になるかね…」
そう答えて仕事捜しに来た三人と別れた。
長い畔道を遠去かって行くその女衆の中のその一人を源蔵は手を休めながらじっと見送っていた。
それは後で思い出しても不思議になるような出会いであった。畑の中で命が燃えるような夏の黄昏であった。
そしてこの時、源蔵の心にエノが焼き付いたのである。


農作物の収穫期を迎える9月6日から全道が大豪雨となった。
新十津川村も例外ではなかった。収穫に希望の灯が見え始めた矢先に災害が襲ったのである。新十津川 百年史には次ぎのように書かれている。
 『翌7日には強風を伴い降雨はますます激しくなった。札幌測侯所においては6日午前10時20分かち8日午前8時40分にいたる46時間20分の間に157ミリメートルを観測したが、この雨量は、明治9年同測侯所開設以来の最高記録であった。
この豪雨は、ほとんど全道にその影響を及ぼし各地の河川は6日の夜半から7日午前にわたって急激な増水となり、ことに石狩川の氾濫がはなはだしく、札幌郡対雁村の石狩川水標の測定は、10日正午で27尺1寸5分となり石狩川増水の新記録を示した。
このほか各地の大小河川はいずれも増水となり、道路、橋梁の破損、電信の不通など、その被害は枚挙にいとまなく多数の死傷者を出すにいたった。
この災害による死者は248人、負傷者は4 2人、倒壊、流失家屋、3.150余戸、浸水家屋、2万4.000余戸で田畑の被害面積は5万6.000町歩を超えた。
また本道の河川は自然のままで堤防ががないため河身は曲折して流水を妨げ、減水が遅く、流水をまぬがれた農作物も、数日間水浸の状態となり収穫は殆どなかったのでへ住居、食糧 を失った者が多数にのばった。ことに悲惨をきわめたのは石狩川、夕張川、十勝川の流域であったが、空知の被害がもっとも大きかった。
本町でも石狩川の氾濫により住宅や農作物に甚大な被害を受けた。全村の6. 7分までが浸水し平坦部はほとんど水びたしで畑作物の収穫は皆無に近い状態であった…』とある。
6日、雨の降り始めた朝は生暖かい風の吹く朝で、山から吹き付ける風も奇妙に生暖かかった。7日の午後よりほとばしるように雨が降り注いだ。激しく水柱が立つように降った。
背後の山から流れる雨は降り注ぐ雨と共に低地に流れ落ち沼のように水が溜まってゆく。
窓から外を見ると外は滝の飛沫のように真っ白で轟々とした雨音がひっきりなしに続く。その上、夜になると風が強くなり山鳴りが襲って来た。
源蔵の家族は何時止むともしれぬ雨に不安を募らせている。サタノだけが薄く点るランプの下で静かに眠っていた。
柾目になった屋根から水が漏れ、柱を伝わって土間に流れる。夜半、遂に土間に水が流れ込んだ。土間に置いてある農具や食料品などを手分けして全て居間に引き上げた。
外は闇であり、畑は図打々に川となり池となり沼になっていることに間違いはなかった。隣家は数キロ離れた処にあり連絡しようにも方法は無かった。上徳富の西村の家は離れ小島のようであった。 
「畳は大丈夫ですか。畳みが危ない!」とサノが言う。
「畳までは水は来ないさ」「畑は全滅でしょうね」またサノが言う。
「何事も朝だ!」「ああ!」大きな嘆きがサノの口から洩れる。
「もう四、五日で取り入れだったのに」サノの嘆きには深い絶望感が伴っていた。
「逃げる準備を始めろ!」その言葉にサノはサタノを背負った。
しかし、逃げるにも逃げる道が水によって失われていた。
雨は止む気配は全く無かった。
夜が白む頃、裏山の土砂が崩れる音がして家の側まで土砂が流れて来た。
生えていた木も流されているようだった。
土砂は物置小屋を既に押し潰していた。
土間に流れ込んで来る水は愈々水嵩を増し居間の縁迄近ずいた。
 夜が明けた。雨はまだ降り続いていた。夜が明けて安堵感が甦った。ほっと胸を撫で下ろすようだった。窓から見ると外は川であり、沼であり、湖であった。
育っていた農作物は全て水の下である。倒れた麦や黍が流木と共に水に流されて行く。家は埋没から逃れたが陸の孤島であることに変わりはなかった。
雨が小降りになった頃、囲炉裏で火を炊き、残りのカテ飯を暖めた。タクアンとみそ汁で漸く食事になった。カネが言った。 
「父さん!私、四国に帰りたい!父さんが帰ると言えば皆、喜んで帰る。こんな所に居たらきっと死んでしまう。四国がまだ良かった!」
と言って大声で泣き出した。1 7歳のカネにしてみれば人から聞かされていた北海道が予想を遥かに超えた幻滅の地であった。
そしてそれは北海道に連れて来た両親に対する憤憑の抗議でもあり、更にその悲しみがこの大雨で倍加したのである。
そのとき、利市がカネに諭すように言った。  
「カネ!泣くのは止めろ!父さんも、母あさんも命賭けでここに来たのを解っていねえのか!働けばきっと四国の暮らしより良くなると思って来たんだ!」
「そんなの親の勝手だ!」とカネは言う。
「父さんが、もっと、しっかりしていてくれたら、こんなことにならなかった!」  源蔵は唇を噛み締めている。
サノは俯いている。 
「でもなあカネ、未だ半年も経っていないことを知れ。このまま帰ったら俺達の負けだ!この広い野っ原を俺達のものにするには並太賎のものでないことを知っておけ!俺達四国人は根性者ばかりだ。十津川人には負けねえ。四国人がきっとこの村で幅を利かす日がきっと来る。俺は働いて働いて働きまくり、早くこの野っ原を俺達のものにするんだ。自然はな、苦しみだけを与えない。恵みも来ることを信じろよ!」
 それは若い利市のロマンを秘めた確信に満ちた諭しの言葉であった。
囲炉裏の木が煙り始め、その煙がサノの目に入った。サノの目から涙がこぼれた。 
「初めから終わりまで利市に諭される。負けられぬ!」とサノは思った。
 土間の水が引き始めた頃、源蔵と利市は外に出てみた。畑は一面、水に没していた。  
「利市!出直しだな…」と溜息を出しながら源蔵は言った。
目の前が真つ暗になる程の衝撃に打たれていた。いかに空元気を出しても救いようのない災害であった。 
この時、下徳富小学校は四尺以上の水害となり、学校の土地の西側の境界から東は砂川市街まで泥水の海となり、樺戸街道は流木で一週間位不通となった。石狩川と徳富川が氾濫したのが村の全てを海とさせたのである。この災害で死者は全道で248人に達し、その中、滝川周辺の死者は104人であった。被害地の中でも滝川周辺の被害が甚大であった。滝川周辺に死者が多いという噂を源蔵は聴き、前に出会った木下という女が滝川に住\んでいることをふと思い出していた。  


収穫
収穫 北大図書館蔵  

畑の水は10日経っても引かなかった。20日を過ぎてから漸く徐々に、全く徐々に水は引いて行った。
家の側まで流れて来た土砂を片付け、小屋を元通りにする作業が何日も続く。原始林には足を踏みこめなかった。殆どが元のままであった。
しかし、今は切ることは出来なかった。馬鈴薯も麦も黍もみんな腐っていた。来年時く種は阿もなかった。泥の海と化した畑の整地に家族全員の出動であった。
十津川出身者の中から離脱して行く者が出て来ているという噂も流れてくる。1 、2ヶ月はまたたく間に過ぎ去り新十津川は冬を迎えることになる。源蔵の家族にとって初めて経験する北海道の冬であった。 
しかし、禍を転じて福となすの諺のごとく明治30、3 1年の連続災害を契機に新十津川の農業にひとつの転機が訪れることになる。
その第一は移住民に対する当選地の付与であった。
移住民に対し土地の所有権を付与することにより、おりから設立が進められていた拓殖銀行の融資を受けさせる狙いがあった。
第二は、十津川出身者の農地からの離脱と他府県出身者の進出であった。
源蔵の場合もこれに該当するものと思われる。
夜盗虫災害によって放棄された土地への入れ替わりであり、その土地には未開墾の土地も含まれていた。
明治3 1年 新潟県から入植した宮北隆忠翁の記述が参考になる。 
「松実菊次の土地で一万坪を60円で買ったが、当時みんなから高いといわれたものである。
一万坪のうち半分は樹木を切り開墾されていたがヽ。あと半分はヤチダモの未墾地であった……。
当時高台はヤチダモが多く浜益道路から北側一帯と玉置神社の付近は白樺であった。・…・・私の入った所には住家はなかったが井戸だけは残っていて、それを使うことが出来た。…」とある。
その第三は、水田熱のぼっこうであった。
離農転出して行った後に、北陸、四国出身の単独移住者が入植した。そして、この北陸地方の米作地帯の出身者の入植が米作を促進して行くのに大きな力となって行くことになる。水田は畑作より災害に強かったのであり、この災害を契機に水田熱が急激に高まって行くことになる。

西村家の土地が実質的に登記簿謄本上に現れるのは、大正10年1月20日であり、西村利市の代になってからである。
取得地積は、2町3反1畝20歩であった。
しかし、所有後の昭和2年には、上徳富士功組合の会費滞納処分により差押を受けるなど金銭的な苦労など並大抵のものではなかったことが偲ばれる。
昭和3年12月、再度、所有権が移転し、漸く西村家の安定した所有資産になるのは西村勇氏の代に変わる昭和7年12月以降になる。
その間の移動に就いての追及は省略するが、西村家が新十津川の風土に適合するのは、大正7年、利市の代になってからであり、親、源蔵の果たせなかった夢をその子の利市が果たすことになるのである。
そして、その時には、この物語の主人公、光源、西村源二郎は既に函館市に去った後であった。




 

前頁
目次
次頁
 

 

inserted by FC2 system