第一部 開拓篇


 

第四章 母の像



 

災害後、サノの懐妊が初めて明らかになった。それまでのサノは、体の変調に気が着いていたのだが誰にも語らず、黙々と自分だけの胸に秘めていたのである。秘めてはいたが、災害の前から、それとなく疲れ気味の様相が現れ、容貌にも、その兆しが見え隠れし
始めていた。そして、サノは初めて源歳に打ち明けた。源蔵の無計画な子作りが明らかになったのであるこ「生まれて来るのは、来年の春頃になる。」とサノは言った。「そうか…」と煮え切らぬように源蔵は言った。北海道でサノが46歳で産む子になるのである。
困惑を隠しきれぬ優柔不断な源蔵を見つめながら、「私の力で産むことにする。あんたの力は借りない。」とサノは言った。「あんたは畑を元どうりにし、木を採りなさい!あんたは父だ。あんたは家の頭なのよ。子供に負けずに働いて!」サノにしてみれば責めることの行き場は源蔵にしかなかったのである。
 
 サノの懐妊は、直ぐ家族にも知られた。思い当たる事は多々あった。家族も納得してサノの立場をr理解したが、家族が一人増えて幸せを手に掴む事が出来るなら産めばよい。しかし、幸せになる保証はどこにもなかった。全員が、ただ働き、生きるための糧を得、少しでも早く5町歩の所有者にならねばならなかった。しかし、災害が全ての望みを吹き飛ばしていた。冬越しが迫っていた。家財を売り払って重清から持って来た蓄えも土地を買うための一部の蓄えだけが残り、それに手をつければ将来の希望は失われる。源蔵は、金策を宏平と林太郎に相談しなければならなかった。
 今、源蔵や利市やクラにとって、労働の苦しさはさほど問題ではなかった。家族の、ややもすれば挫けそうになる意思を利市の若い燃え上がる魂が支え、勇気づけていた。仮に、利市のそれがなかったら、源蔵の力だけでは西村の家は崩壊していたかもしれない。
  更に重要と思われるのは母親としてのサノの力であった。開墾以外の任務はサノに任されていた。サノは北海道の生活に自分達の生活の安定を求めていたのである。 今となっては、先住開拓者が故郷に流す誇大な宣伝効果により、惑わされていたと言ってもよい。しかし、初めての移住地の生活は根本から違っていたのである。縁故知人の少ない土地で、極度に乏しい生活物資の下で、変わった材料を利用し、生きなければならない。
壁の隙間の目張り、ボロツギ、薪の用意、食糧の貯蔵など、更にサタノの育児、その上、それらに対する家計のやりくり。それらは全てサノの仕事であった。サノはいずれ蓄えが底を尽くことを感じていた。その対応を絶えず考えていた。
 開拓の苦労は男だけが脚光を浴びるが、本当に苦労をしたのは女であり母であった。そして今、母サノに災害から立ち上らなければならない多くの課題と、懐妊という重い負担が被さってきたのである。「どんなに苦しくても私の力で産むことにする。」と言ったのはサノの母としての女の力が言わしめた言葉であった。        
それ以外の愚痴めいた言葉は一切サノの口からは洩れなかった。逆に、それが源蔵には辛かった。村からは災害援助金と救援の食糧がとどけられたが、それは当座の凌ぎにすぎなかった。「宏平さんと、林太郎に相談してみよう」と源蔵は思った。
 サノほ四年後、この世を去るが、その病床にあって、源蔵と利市に言った言葉を利市は生涯忘れることはなかった。
 「金のないことが一番苦しかった。」と
 
明治32年2月、源蔵は、深々と雪の積もった雨竜郡北竜村の蜂須賀農場の開拓小屋で美馬以来の近藤林太郎と再会した。近藤の家は、源蔵の住む家と比較し、格段、上というわけではなく、在り来たりの小屋であった。近藤の妻と、三歳の女の子が懐かしげに彼を迎えた。    近藤とその妻は、美馬の時よりも日焼けした顔で、体躯は頑健で、一層逞しくなっていた。僅か2年の間に開墾の要領を会得したかのようだった。
「蜂須賀の直営で働くか、小作で働くか、色々迷ったが、とどのつまりは、金を借りて小作でやることにした。その時から二年経ったが生活は楽にはならなかった。取立てが厳しいのだ。5年で、400円貯金出来ると言っていたが、それは夢の話。嘘の話だった。
貯まるより借金が増えてゆく。5年で5町の作付が出来ると言ってたが、2年で1町歩がやっとだ。それに去年の大雨よ。お前さんの村も大変だったろうが、ここだって畑作は全滅よ。家が5戸浣され、水を被った家、271戸、目茶苦茶だったよ。わしの畑も用をなさない。雪が溶けたら又、一から出直しだ。蜂須賀には“小作料ハ、年ノ豊凶二拘バラズ納付スぺシ”と一筆も入れてある。わしも今、困っている!。」
 近藤も苦闘中であったのだ。借金の相談に来たのだが「無理だ」と思った。
 「同じ雨竜でも戸田農場の方が働き易いと誰かが言っていたが、蜂須賀からの借金を返さなれればならないから移ることは無理というもんだ。儘ならないもんだ」と吐き捨てる
ように近藤は言った。
 「俺のところも大変よ。境に子供が出来た。もう少しで産まれる。」近藤は驚いたようだった。「サノさんに子供が?お前さんもやるもんだ!それで産婆はどうする?」「滝川から連れて行こうと思ってる。」「滝川から、どうやって徳富に連れて行くのだ?」「往復三里はある。」「ここで産婆なしの初産もあったぞ。」「産婆なしの初産?」源蔵は反問していた。時にはそんなことになるかもしれない。それにしてはサノはいい年齢だ!うまくいくかな?。とんだ恥じ掻っ子だと源蔵は思った。「源さん。今晩はここに泊まれ。夜は滝川で乾杯だ!」
 滝川駅前の飲食店街は、雪道の中でもそんなに遠くはなかった。しかし、冬の最中とは言え、宵口だというのに、筋違い通りは妙に静まり返っていた。料理屋が一、二軒開いていたが人通りも少なかった。「林太郎さん、寂しい通りだな。」と源蔵は言った。「去年の7月に上川鉄道が開通してから、滝川の駅は終点ではなくなり、乗り降りの客がめっきり減った。勢いは旭川に動いている。商売人も少なからず旭川に移っている。それに筋違い名物の遊び屋(遊郭)が、風紀上好ましくないと言うお上のお達しで、望月川を渡った新通りに移って行った†その上、去年の大雨よ。この辺りの店屋も軒先まで水を被り、そのまま、店を畳んだところもあった。寂しいのも当然よ!源さん、場所替えだ!わしの行
き着けの飲み屋がある。そこに行こう。」 近藤はそう言って目標を変えた。
 その頃、近藤が目指す滝川の本通りには丸井今井滝川支店が進出し、そこを中心に商店街が出来つつあった。滝川の町並みが時代の進展と共に変化し始めていたのである。
 本通りの外れに蕎麦屋や料理屋が五、六軒あり、提灯に赤い灯が点っていた。硝子には、そば、うどん、かんざけなどと書き付けてあった。その中の「えちご」の暖簾を二人は分けて入った。こじんまりとした飲み屋だった。5分芯のランプが三つばかり点る中で、三
人位の先客が静かに酒を飲んでいた。最近売り出されている福禄ストーブの中で石炭が赤々と燃えていた。
 
「姐さん、銚子を頼むぜ…」と近藤は言った。先客に愛想をしていた女が近ずいた。
「あれっ、近藤さん、いらっしゃい。」女の顔がランプの明りで照らし出された時、源蔵は「おやっ!」と思った。源蔵と女の目が合った。
 「あれっ!あんさん!」女も声を出した。去年の8月に源蔵の畑で出会った男と女がそこに居た。「この雪道を良く出て来たこと…」「あきまへんよあんさん、雪が降ってくれば、あんさん、徳富に帰れなくなる。…」「今夜は近藤の家が宿だ。近藤に世話になる」
「そう…」薄明りの中に異人めいた目の輝きが女にはあった。地味な袷に袖無しの厚い羽織りを着、赤い足袋に草履を履いていたが、妙に艶があり、近藤や源歳に比べ、一回りも二回りも若く感じられた。それから、先客におかまいなしに三人の話は弾んだ。
「姐さんもどうかね」と源蔵は女に盃を返した。「今年は鮭が取れなくって。大雨が影響したのか。さっぱりよ。この辺も大変だった。今度来る時は鹿の肉を用意しておくわ.」
「俺も近藤も被害を受けて今年、植える種も無いんだ。」「ところで、姐さんの名は?」源蔵は畑で会った時に聴いて知っていたが、それを確認するかのように再び女に尋ねた時、、相槌を打つように「エノさん。木下エノさんって言うんだ・‥」と近藤は言った。「そうよ、姐さんは止めて。エノと呼んで。」とエノも言った。「エノさんが、この店の主かね?若い。」「時々、この店のお女将さんに頼まれて手伝いに来るの。向いているのかねえ。お女将さんは福井の人。今晩は女将さんが休んで私一人だけ‥・。」それからエノは、「昼間は近くの呉服屋に勤めているのだ」とも言った。「時々、仕事の暇が出来れば蜂須賀の草取りにも出掛けている。草取りを利用して、下着等も売ってくるんだよ。近藤さんを、その時に知った…。女ひとりの暮らしなんだもの・‥」とエノは言った。優しく、正直で、意思の強い女のように源蔵には思えた。「ひとり暮らし?」「わけがあってよ。働かなければ飯の種にありつけないからよ。滝川も大変な所よ。」とエノは言った。更に自分は北見から流れて来たのだとも言った。「北見?」 当時、北見も開拓の途上にあった。しかし、北見が何処にあり。何が起こっているのか源蔵は全く知ってはいなかった。「あんさんは四国ね。徳島ね。あんさんの阿波踊りが見たい。」酔いが増した時に源蔵の漏らした言葉にエノは言った。この冬に、この滝川で、阿波踊りでもないものだ。「そのうちに国見などと一緒に踊ってみせるぜ」と源蔵は言った。「ほんとに徳島衆の多いこと・…‥」と言ってエノは笑った。
 その夜、久し振りに源蔵は長々と酒を飲み、酔い、妙に浮かれていた。薄々とした感情でお互いが生きなければならない徳富の源蔵の家には無い安らぎがそこにはあった。
夜更けて、酔う二人をエノは途中の村まで送った。雪は降らず寒月が雪道を照らしていた。
 「暇な時に畑の仕事を手伝わせて…」とエノは二人に言った。暇な時に畑の仕事を手伝わせてくれというのがエノの願いであった。
  エノさんは顔が広いから…」エノは人手を多く集めることが出来る女なのだと近藤は言ってるのである。その夜、エノも何か感ずるものがあったのかもしれない。宿命的な出会いと言えばそれまでだが……。ことに源蔵にとっては、二度目のエノとの出会いが、旧知に出会ったような、ほのぼのとした心良さが残る忘れられぬ一夜となったのである。
 
エノに別れて近藤の家に帰る道すがら、近藤はエノの事について語った。
近藤が「えちご」に通っていた時にエノのそれまでの来歴を聞いていて知っていたのである。 エノは、福井県丹生郡天清村島寺の出身であった。
東尋坊越前海岸に近い村であったかもしれない。明治8年生まれのエノは、今、24歳の春を迎えていたのである。もともと福井県は木下村を初めとし、木下姓の多い地方であったが島寺は、その中でも特に多かった。
エノは縁戚を多く持っていたが、明治28年、20歳の春、一人の若者に誘われて開拓途上の北海道に旅立った。
無論、家族、縁戚の反対を押し切ってのものだった。 それまでにも北海道の開拓を目指し、移住民の募集に応じる者は多数居た。この募集は日本全国に対し行われたのであるが、その中に福井県もあり、当然、丹生郡も含まれていた。

現在、丹生郡は、福井県鯖江市の清水町に属しているのだが、その「清水町史」には次のように書かれている。 
 「当町の北海道移住者は、明治20年頃に最も多く、政府の勧奨している開拓農民として、移住する者のほか、農業以外の水産加工や商工業を目的として、移住した者も多かった。これらの北海道移住者は、それぞれ苦難の道を切り開いて、今日財をなど、また社会的地位を獲得し、北海道全域にわたって経済社会、政治に大きな貢献をしている。」とある。
町史によれば、移住は、明治20年頃が多いとされるが当初は明治初年からであり、当初の移住者は、土地の取得が主な目的であり、入植地は、石狩、天塩、北見、十勝、釧路の原野であった。
一方、当時の丹生郡の清水山村一帯は、桑畑が多く、農作物の生産の他に養蚕が主要産業であり、製糸輸出の暫増につれ、養蚕業は長足の進歩を遂げ、それらの関係で衣類の商取引も盛んに行われていた。 
木下エノは若者とその北海道を目指したのである。エノは若者に強い憧れを持っていたのかもしれない。家出同然のように若者と連れ立って敦賀の港から旅立った。若者は2 1 歳になったばかりであり、将来に大きな野望を抱く燃える若者であった。同様にエノも燃えていた。若者は開拓途上にあるその地や、活気ある魚場を視て、自身の、これから行う事業が充分成立つものであるかどうかを確かめたかったのである。
彼は主に、作業衣、下着、薬品などが未開の地では必須の生活用品であることを信じ、それを売ることを目的としていたのである。
 敦賀を発つ時、エノの家族が見送りに来たが、家族は、旅発つエノの固い決意を知り沈黙してエノを見送った。
船は、新潟、秋田の港に立ち寄り、道南の函館に着いた。若者は、敦賀を出る時から函館を目指していた。函館に行けば北海道の大半の事情は知り得るだろうと予想していた。
若者とエノが初めて知る北海道の表玄関であった。
  「エノさんは真剣そのもののようだった。その時のことを涙まじりに話してくれたよ。」と近藤は言った。
 函館で道内の開拓の情報は数多知ることが出来た。
その中で、根室、北見、網走、が商いの成果があるような情報を得た時、若者は、即刻、北見に向け旅を続けることをエノに話した。
滝川付近の石狩川鉄橋 
明治30年代 北大図書館蔵
  
石狩川鉄橋

北見は明治30年以後、高知の開拓団体、北光社と屯田兵が本格的に開拓するのであるが、それまでは、開拓は疎らに移住して来た移住民が行い、原野の大半は残っていた。
一方、アイヌの開いた魚場は活況を呈していた。その上、函館の実業家、相馬哲平が(新m出身)北見に相馬農場を設立したことを知り、「相馬農場に行く…」と若者はエノに言った。若者は一刻も早くその地を見たかった。 若者とエノは、太平洋回りの函館一根室一網走の貨物船に乗った。根室海峡を過ぎる時、激しくローリングする甲板に立って二人は船の行く手をじっと見詰めた。高い波が飛沫をあげて船首を洗っだ。飛沫は果てしなく白く、行く海は果てしなく蒼かった。遠く島影が目に映ったが、それは千島の国後の先端でもあったろうか。オホーツク海も荒れていた。船は絶えず傾き、絶えず波を被った。

網走の港に着いた時、港沿いに十数軒の番屋が見え、異様な衣服を着た男が手を振っているのが見えた……。
当時の網走港は、アイヌ支配から和人支配に移り、太平洋側の根室の間にも定期航路を持つなど船舶往来の要地になっていた。
更に、サケ、マス、スケソウダラなどを中心とするオホーツク海漁場の根拠地であり、沿岸唯一の避難港ともなっていた。
又、現在の網走市は、当時、北見町と呼ばれていた。
明治14年頃から、計画的に市街地作りが行われ、明治28年頃には、人口、2071人、郵便局、小学校、警察署、測候所なども置かれ、寄留者のための回船問屋、旅人宿、料理屋などもあり活況を呈していた。
 
現在の北見市は、当時は網走、斜里、常呂、紋別、などの網走支庁管内にあり、北見国と呼ばれて、常呂川と無加川にY字形に開けた盆地にあった。当時、北見地方の開拓は、駅逓を(駅舎、旅宿)中心にした開拓と単発の農民による開拓が並行して始められていた。
北見市の前身、野付牛村区域内の駅逓は三ケ所あったが、駅逓の日常の副食物は自作自給であったところから農耕地が給与されたのであった。
又、駅逓の業務の中に人馬による運搬業があるので、それに必要な馬の飼育が重要なことであり、その食料となる牧草を自分で保持するため、牧場が必要であり、その為に開拓が為されていたのである。更にに湧別、下常呂、渚滑、などの原野に単発の移住者が入植し、明治28年頃には、9O2町歩を開墾していた。
明治23年には、北見盆地と旭川を結ぶ北見道路が開通していた。 
現在の北見市は恵まれた農村地帯であり、米作も行われているが、畑作中心であり、タマネギ、麦、ビート、トウモロコシなどが生産され、世界的ハッカの生産地でもある。
 

二人は網走の旅人宿を根城にし、商品が届いた翌日から北見の開拓小屋などを巡回した。
若者とエノの行商であった。
目的の相内にある相馬農場を訪ねた時、農場は未だ原始林に囲まれた森の中にあった。農場長は新潟の出身であった。
しかし、農場は開設したばかりであり、数多くの取り引きは無理であった。相馬農場が軌道に乗るのは、大正に入ってからであった。
しかし、若者とエノは挫けなかった。再び、湧別、常呂、下常呂。渚滑などの開拓小屋を訪ね歩いた。
商品を売り切った所は網走で、2ヶ月が経過していた。夏の始まりの頃であった。
この2ヶ月の間に若者は、この地方が有望な市場であることを確認していた。
しかし、この地方に対する本格的な商いの時は未だ訪れてはいなかった。この市場を相手にするには何倍もの力を必要とすることも又知り尽くしていた。
「自分は函館に寄り福井に帰ることにする。北海道で商いを始める道をもう一度考えてみる。再び北海道で商いが出来ることを信じて。
お前はどうする?」と若者は言った。
「はるばる遠くに来て、私は取り残されるのね。けれど私は帰らない。帰れる訳がない!」と若者に言った。
今、若者に別れることは、確かに苦痛であった。しかし北海道には若者に対するように未練があった。苦痛ではあったが、残って生きる望みはまだ持っていた。
福井に帰るよりはまだましであった。
「空知太に知合いが来ている。それを頼ってみることにする。空知太で暮らしてみたい。」とエノは言った。
「女の一人暮らしは辛いぞ」
「福井に帰れば畑を耕すだけ。それに福井に居た時はあれこれ考える女だったのです。でも今は違う。あなたと歩いてあなたから学ぶものが多かった。これからはひとつの事だけで生きてみようと決心したのです。大丈夫、生きてみせる。私は負けない!」 
行商中、いずれ二人の間に別れの時が来ることをエノは予感していた。その時の事は絶えず考えていた。それを実行する時が今訪れたのである。
「困った時のためだ…。これを受け取ってくれ。」
若者は、それまでの売上金から金子をエノに掴ませた。
大枚の金だった。若者は、周囲の反対を押し切って着いて来てくれた女への感謝の気持ぢと惜別の感情をその金に込めでいた。
「有難う。あなたの心として受け取って置きます。私が本当に困った時に使います。あなたの励ましとして… 」
空知太で新しく、強い女に生まれ変わる工ノの若者に対する感謝の言葉であった。 
「俺は必ず成功してみせる!北海道で知ったことを決して無にせんから…」と若者は力強く言った。
「あなた無事でね。祈っています。必ず頼りをくださいね。
最後にお願い!空知太まで送って。」とエノは言った。

滝川の屯田兵
明治25年 北大北方資料室
  
滝川の屯田兵

 
エノは空知太の西裏通りに住み、屯田兵になっている従兄弟の木下鉄五郎の家族を頼ることにしていた。その家族に会えば道は切り開けることを確信していたのである。
 若者は空知太まで行き、汽車で小樽に出る積もりであった。そこには函館行きの定期船が待っていた。 
三日後、二人は網走を発ち空知太を目指した。北見峠を越え、中央道路を経て遠軽から上川に出、旭川から空知太に出ることにした。 
網走から旭川の1 2の駅逓を通る旅は長い長い道程であった。
青葉若葉の色濃い季節であった。海抜327mの北見峠を越える時、峠の手前の駅逓で当分の食料を調達し、駅馬を賃借りし、馬追い付で出発した。峠を越えれば第3の駅逓があった。全山が密林に覆われて心細さがひしひしと全身を包む難道もあった。飲み水は谷間の水を汲まなければならなかった。長い道程は、その繰り返しであった。
漸く、空知太に着いたのは、7日後の昼であった。夏の光が空知太の駅舎に降り注いでいた。
  「よくも歩いたものだ。」と若者は言った。
「歩けるだけ歩きました。歩く意思さえあれば女も歩けることが出来ることを知りました。」とエノは言った。
三ヶ月に渡る若者と過ごした行商の旅は苦しくもあったが、商う為の強靭な精神力をエノに与えていた。
 若者が小樽行きの汽車に乗り、窓から身を乗り出した時、エノは若者の手を強く握った。若者も強く握り返した。強い寂寥感がエノを襲っていた。これからどんな運命が待っているかも分からずにエノは若者との握った手を離さなかった。
「元気でね。」
「お前も…」 
女一人の生活の苦しさが否応なくエノに降り懸かって来る事も知らずに、エノはその寂しさを打ち消すように、
「さようなら」と言った。
何時、再会の日が来るのかも分からずに。 明治28年7月、若者2 1歳、エノ20歳の時のことであった。

「間も無く、エノさんは西通りの近くに一部屋を借りて移り住んだ。そして近くに出来だもめん屋“に勤め始めた。若いのに商才があるようで随分、大将に大事にされていたようだ。
呉服と日常の衣類を売る店なんだ。間も無く今の”えちご“の店にも出るようになった。農場に来て衣類を売るのも旨いけれど、酒飲みのあしらいも旨く不思議な人なんだなあ…」と近藤は言った。近藤の話しを聴きながら、そのエノに源蔵は今、魅かれ始めていた。

                         第四章 「母の像」を書き終えて

司馬遼太郎著 「街道をゆく15 “北海道の諸道”」中、「新十津川町」の終わりに次ぎのような一節がある。

「町役場を辞すべく階段の上まできたとき、あの席ではひとことも発言されなかった丸谷老人が突如、「女の涙があります。」とふるえ声で繰り返し言われた。
 「開拓はつらいものでした。女の身には、どれほどつらかったか。私ども二世には想像もできません。母のことなど、書こうと思っています。』 
丸谷老人の語る如く筆者も又、同様の女性の開拓の悲劇性を感ずるのである。  
源蔵の妻、サノについての詳細についてば全く知ることは出来ない。しかし、「女の涙」を生きた妻であることは確かである。武家勤皇の家を守り、義父與市と、義母カノに仕えながら、源蔵一家の屋台骨を支えて行くためには、相応の忍耐と努力が必要であったろう。 又、嫁と、舅姑の争いも感じられる。義父、義母の死後、短期間に復縁したのにもそれは伺える。
サノは、源蔵の年上でもあり、気丈夫な伴侶であったかもしれない。
 しかし、復縁後の明治27年から3 1年の4年間の重清村での生活は、農業の不振もあり、サノの支えはあるものの満足の行く生活ではなかった。源蔵もサノも将来を見通していたのである。そんな時に北海道への移住の話が持ち上がった。持ち上がりはしたが、速断せずに居たが、20年から30年にかけての北海道ブームは、山間部を含め、徳島県一円に拡大していた。但し安易な移住に警鐘を鳴らす地元新聞もあったのだが……。先発者の虚言も信じられ、阿波、勝浦、那賀、美馬の諸郡から移住者は続出していた。
源蔵もサノも生活の夢を賭けて先住者の呼び掛ける新十津川への移住を決断したのである。明治31年、源蔵、42才、サノ45才であった。  

しかし、不運は最初から来た。明治30、3 1年は、新十津川村にとって災害の年であった。即ち、明治3 0年は夜盗姦による亜麻の全滅。明治3 1年9月には、札幌測侯所開設以来の最高の水害が村を襲っていた。 この災害の結果、旧十津川人の多くが開拓から離脱して行った。源蔵は離脱者と入り替わりの立場だった。否応なしに生活の困窮が襲う事になる。。開発から10年が経過していたが、このような事情から、源蔵一家の生活は、理想を遥かに下廻っていた。源蔵は郷里でも、農業を営んでいたが、これに比し、開拓地の農業ほど過酷なものはなかった。源蔵もサノも衣食住の原始的生活に疲弊して行く‥ 乳飲み子を抱えたサノは、次第に体力の限界を感ずるよ凱こなっていた。

こんな時期、源蔵は、木下エノと言う女性を知ることになる。そして、この木下エノこそ、西村源二郎にとって、かけがえのない母の存在となるのだ。木下エノは、源二郎が少年、青年時代を過ごした時の、河村製綿所社長、八代目、河村織右工門の妻、スエの姉妹か、木下家の縁戚に当たる女性だと言うのが一般的通説である。しかし、木下エノについての、人物を知るそれ以外の手掛かりは、全く閉ざされている。西村康之氏は、「源二郎が吾が子にさえ生母の事を語らなかった事… 」と書くように直系の子にさえ、その手掛かりを残さなかった事による。
幼少期の光源翁
幼少期の光源翁 右端 
当然のように源二郎は、父親、源蔵についても語らず、その風化もあって源二郎の両親については、永遠の謎なのである。
そして筆者自身もこの謎の探索は行わない。
仮に謎を解いたとすると、源二郎の血脈の極めて優れていることを立証出来るはずである。
その確信はある。
しかし行わない。 ただここに一葉の写真がある。
ここからは、憶測として書くので他者を傷つける恐れはあるが、お許しを乞いたいのである。 
「巨木を讃える」(西村光源翁追想録 創業55周年記念 太洋協和会刊〉には、口絵写真として、明石音喜氏秘蔵の、光源翁の11才時として明治4 2年5月に撮影された家族写真を掲載している。
 明治4 2年と言えば、源二郎が河村家に養子として引き取られた翌年の事である。
そして、これは、配偶者(夫)抜きの母親と乳児、幼児を含めた、10人の家族写真である。
筆者は、写されている母親と思われる4人を木下家の姉妹として見たいのである。
 即ち、木下スエ(河村織工門夫人)木下ハル(河添 吉蔵夫人)木下ツル(明石音五郎夫人)木下エノ(西村 源蔵夫人)、であり、 姉妹は、何等かの理由で、記念として写して置きたかったのではないかこの中の右から4人目が、(乳児を含めて)木下エノではないかと判断する。
判断する理由として、
1、髪型と衣服が他の3人とは違っている。
当時の新十津川住民の衣服と非常に似ている。
当然、源二郎の衣服は、明治40年代の新十津川子女の正装と同一である。(「新十津川町史」第十八章 町民生活)
2、彫りの深い目からくる容貌が、源二郎の長男、昌之氏、その他に非常に似ている。
理由は以上の通りだが、もし、これが、木下エノだとすれば、一つの手掛かりは得たことになる。
全くの別人だとすれば、それは、それで致し方ない。
一つの資料として提示したのだから。  

木下エノは、他の木下家の姉妹と同様に、福井県鯖江市の出身であるという。そして姉妹に先んじて渡道したと思われる。
河村織工門が妻、木下スエを伴い函館に移住したのが明治29年であるから、エノの渡道は、明治2 9年以前であったかもしれない。               直接、新十津川に移住したか、或るいは他の地を経て移住したかはこれも不明である。郷里に居住出来ない何かがあったのかもしれない。西村康之氏は、その人間像を「情熱家で、飲食業を営むタイプの独立志向の強い、肌合いの異なる女性像が浮かんでくる…」と書く。
 前記、家族写真に写っている女性が若し、エノ本人であるとしたなら、西村康之氏の推測も真実性を帯びて来るように思えてくる。               筆者は、必ずしも「飲食業を営むタイプ……」とばかり思えず、『開拓現場で働く陽に灼けた逞しい強壮な女性』を逆に想像するのであり、源蔵の正妻、サノとは、性格的にも肉体的にも対称的な女性であったような気がするのである。源蔵は、そんな女性に魅かれたのかもしれない。
                        
筆者は虚実を交えて書いてきたが、それを次章以後も続けることとする。
 
それが限り無く真実に近いことを祈るものである。


 
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