第二部 立志篇  コドモ印製綿所とその時代

第一章 それぞれの出発



 

大雪の恵岱別から、上徳富の家に源蔵の屍は、馬穐に乗せられ寂しく帰還した。
身寄りの者、数人が集まって、年の瀬の弔いが行われたが、一家の支柱を失い誰もが呆然自失の態であった。深々と雪の積もった士寸の墓地迄、人の通れる道を造り、雪と土を掘り返し、屍を埋葬したのは殆ど大晦日に近い日であった。
 その時の流れの中で、エノは、「年が明けたなら函館に行こう!」と決意を新たにしていた。「源二郎を函館で育てよう…」 その決意は確信に近いものであった。
 エノにとって頼れる近親の者は石狩には誰も居ないと言ってもよかった。例え居たとしても生活の転機になるものではなかった。木下鉄五郎も、近藤林太郎も、利市も、善意の男達であったが、源二部の将来を託すには、欠けるものがあった。
 心機−転、函館で生きてみようと思っていた。函館には縁故の近親が移住して来ていた。
そこを頼ることにしていた。
 当時の函館は、好況の波に乗る函館区という都市であった。北海道の経済は、日清戦争と、日露戦争を境に飛躍的に拡大し、その構造を変化させていた。函館の経済もその枠組の中にあったが、日露戦争によって、露領漁業の策源地としての地位が確立したのを梃子に黄金時代を現出させる過程にあり、函館の商況は良好に推移していたのである。
 即ち、日露争以前の霹領漁業は、買魚時代、密漁時代と呼ばれ法的根拠の乏しいものであったが、日露戦争の結果、ポーツマス条約によって日本人もロシア人と同様に、露領沿岸で漁業に従事する権利を得、この条約にもとずき、明治四十年に、日露漁業条約が
調印されていた。函館は、その露領漁場への策源地として変貌しつつあり、同じ港湾部市であった小樽を生産高、輸出入量に於いて凌駕しつつあった。明治三十九年、四十年時代の事である。
 しかし、この好況な函館が大きな災厄に襲われた。
 
明治四十年八月二十吾、午後十時二十分、函館市東川町二百十七番地より出火、当時南東の風速十米四であったが、漸次、風力が加わり、翌、二十六日に至り、十六米八の暴風となった。
当時の東川町の住宅街は粗末な造りの小さな家屋が密集していたので、火の回りは早く延焼地域を展げて行った。更にこの時期、四十飴日も日照りの日が続き、水源が枯渇していたので消火栓の効力が少なく消防組員や、警察官が防御に尽力しても容易に消火活動
が進まなかった。二十三ケ町、八九七七戸(区役所調べ、一万二三九〇戸)が焼失し、焼死八名、負傷者、数千名を出して、翌二十六日、午前九時頃になって、漸く鎮火したのである。
 この大火の様子を当時の新聞は次の様に報じている。
「丁度火事の当日は、畜産共進会やら、競馬やらで、函館全市、近来無比の大賑わいの最中で、中でも競馬に関係のある函館資産家の多数は勝祝ひやら、負け祝ひやらで、各料理店とも、笛や太鼓の大陽気な真っ最中、それ火事だというが早いか、今の時まで臥牛山下の平穏無事な陽気な天地は、一瞬時にして、たちまち阿鼻叫喚の焦熱地獄を演出して、時間から言えば、僅か三、四時間ならぬ間に日本五港の一たる函館港を全滅に近きまで焼き尽くした。                            
今度の火事は、実に安政の地震の時に江戸市中を焼き払ったといふ江戸大火以来の大火かと思われます。(明治四十年八月三十日付北海タイムス)」
 又、当時、来函中であった歌人、石川啄木は八月二十七日の日記に次ぎのように記している。
 「市中は、惨状を極めたり。町々に猶所々火の残れるを見、黄煙全市の天を掩ふて、天日を仰ぐ能はず。人の死骸あり、皆黒くして、南瓜の焼けたると相伍せり。(中略)予の見たるは幾万人の家を焼く残忍の火にあらずして悲壮極まれる革命の旗を翻へし、長さ一里の火の壁の上より、函を掩へる真黒の手なりき…」
 この時、焼失区域は東川町の西別院を境に旧函館公会堂当たりに至る函館の西部一帯であり、当時の函館の官庁、金融機関、商店などが立ち並ぶ函館中枢の町並みであった。
 思うに、この時以降、西村エノが訪ね、その子、西村源二郎を生涯の拠り所として託す丸村河村製綿工場は、当時、音羽町六十六番地に所在していた。音羽町とすれば、地域上すれすれの線で、この大火の厄から逃れていたことは容易に推測がつく。
 しかし、それから五年後の明治四十五年四月十二日、当の河村製綿工場から出火し、市の中央部である音羽町、高砂町、松風町、新川町の住宅街を焼失することになり、函館大火史に、その名を残すことになるのは皮肉な運命と言わざるを得ない。更に三たび、四た
び、火による災害に会うのである。河村製綿工場の草創期は、函館大火の影響をまともに受けているのである。
 石狩の西村エノは、当然、函館に於ける、この事実を知っていた筈である。知っていながら函館移住を決意しなければならない余程の事情があったのか。支えである西村源蔵の死は致命的な打撃であったか。外に、必須の条件が隠されていたか。その事情は推測の域を出ないのでここでは書かないことにする。
 年が改まった明治四十一年一月の初め、新十津川も滝川も未だ厳冬の中にあった。石狩川は、凍結し、石狩平野は雪に覆われ、見遥かすピンネシリを中にした山脈も、ただただ白い連なりであった。
 上徳富渡船場は、明治三十五年十月十四日に開場されていたが、川が凍結する冬の期間は営業が許可されていなかった。冬季は、氷橋を架設し、新十津川から滝川村に通ずる川を渡った。エノと源二郎の二人も、滝川から、この氷橋を渡り、上徳富の家まで馬穐に乗
り別れの挨拶に行った。家には利市と勇、下四号に住む谷本虎太郎、クラ夫婦も居た。それ迄のお互いの暮らしの中で、利市は勿論、勇も虎太郎夫婦も不思議に少年、源二郎と気脈の通じるものがあった。この新十津川という茫漠たる原野と闘い、肉親の生死に出会い、生きるための辛酸を味わい尽くした結果による結びつきが、お互いの心を信頼の絆で結びつけていたのかもしれない。又、少年の源二郎には、この頃から人を魅きつける何かがあったのかもしれない。
 「函館で暮らしてみます。又、きっと、ここに、墓参りに来ます。長い間、お世話になりました……」そう言ったが、エノは次ぎの言葉が出ず、涙ぐんだ。 再び新十津川を訪れることが出来るか否かは、これからの二人の生き方によるものであったが、少年、源二部は、ただ黙って、その母の言葉を聴いていた。
 しかし、この時の体験が、この時の愛憎と別れが、源二郎の生涯に深く影を落とした。
人生を生き抜く活力と、人の愛を知り、人に愛を与える深い哲学を、この時に悟り始めていたのである。
 

明治四十一年一月中旬の朝、角巻き姿のエノと、マントを被った源二郎は、滝川駅から小樽行きの汽車に乗った。
正月で乗客は疎らであった。岩見沢を通り、札幌を過ぎ、小樽に着いたのは夕方であった。そのまま、小樽から函館行きの定期船に乗った。 
その当時の、その時の事を知る人は今は居ない。
今は生きては居ない。ただ、語り継がれて、知る人は、「エノと、源二郎は、船で函館に来た・・・」と言う。
二人にとって、傷心の旅であり、傷心の出発の時であった。

函館末広町 明治42年 北大図書館蔵  
函館末広町
 ここで、エノと函館の繋りについて考えてみる。
石狩に居て、エノが漠然と、函館を意識しだしたのは、あの野望に燃える若者と共に、道東で行商の旅を続けた明治二十八年のの事を思い出してからだった。
函館桟橋 北大図書館蔵  
函館桟橋

あの時、若者が二十一歳、エノが二十歳。多感な青春の時であった。エノには、あの時の函館の風景が目に浮かぶ。 旅の始め、函館に着いた時、函館は春の初めであった。
緑が、うっすらと蘇った臥牛山その山裾に展がる洋風の町並み。基坂の上の黄色い公会堂。その近くの教会から流れる鐘の音。それぞれが印象的であった。
 そして、あの時、再び函館を訪れるであろうという予感がエノの心の中に刻みこまれていたのである。
風の便りに遠縁にあたる、木下スエ、ハル、ツルが函館に住んでいることも聞いていた。漠然とそれらに相談をしてみようと思っていたのである。 

荒れる海を乗り越え、小樽から函館港に着き、孵に乗り換え、西浜岸壁に着いた時、函館も厳しい冬の最中であった。
 空は曇り、冷たい風が粉雪を舞き散らしていた。男はタコを被り、女は、長い角巻きを着て歩いていた。
整理しきれぬ去年の大火の残骸が至る所に堅く凍って残り、正月の名残が僅かに感ぜられる程度であった。
 復興の槌音は疎らであった。
雪の街路に軌道が見え、その軌道の上を馬車鉄道の経営する馬車が鈍い音を出しながら走っていた。

エノと源二郎は、その馬車に乗って蓬来町にある無料宿泊所を目指した。
 無料宿泊所は災害後、財団法人無料宿泊所が、類焼にょって旅館が減少したため、函館に商取引に来る地方の商人や、函館に住む姻戚、知人を尋ねて来る旅人のために、災害後、短期間に建てられた仮設の簡易旅館であった。
 エノと源二郎は、この宿で、その夜を過ごすことにしていた。
蓬来町にある新蔵前の停留所で馬車から降りた時、エノも源二郎も長い旅から開放されたようなほっとした気持ちになった。
 当時、蓬来町は寶町、恵比寿町を含め、函館の繁華街であった。芝居小屋の巴座、寄席を主とする大和座、キネマを主とする池田座がそれぞれの街角を占拠していた。
従って、土、日曜日は、それを利用する大衆によって賑わうのが常であったが、災害後は興行を中止し、正月だというのに、静まり返っていた。
東照宮の近くには遊里があったが、ここも営業を中止し、この大火を契機に大森町に移転して行くのである。
函館全体が悲運の底に沈んでいたのだが蓬来町近辺は特に静かであった。 
エノと源二郎は無料宿泊所の四畳半の部屋で、その夜を過ごすことになった。体の良いアパートのような部屋であった。 
地方から来た商人風の男達や、露店商人、漁夫、その日に困っているような風体の男女も泊まっているようだった。 
その夜、色々な料理を詰めた重箱を抱え、一人の品の良い婦人が二人の部屋を訪れた。
木下スエであった。 木下スエは、エノの遠い姻戚にあたる女性であり、現在は、同郷の河村定吉と結婚し、郷里の福井県から移住して来ていた。
 スエは、赤飯や、煮しめ、焼き魚などを詰めた重箱を広げ、  
「疲れただろうに…。腹も空いただろう…。食べなせい。」と言って料理を勧めた。
そして、
 「坊の名前は?」と源二郎に聞いた。
「源二郎といいマス。九歳デス。」
「賢そうな子だね。」と言った。
スエの姓は河村に変わり、今では、男、一人、女、三人の母親であった。
スエも苦労した福井県人の一人であった。 
暗い電灯の下でスエとエノは久闊を詫びた後、長い間、とぎれることなく、話を続けた。
スエは、故郷を蹴るように出奔したエノの行為を非難することもなく、暖かい気持ちで理解していたのである。
男運に恵まれなかったエノの、それまでの流転の様を、救うような気持ちで確かめていたのであった。
 源二郎が、その時、どんな感情で二人の話を聞いていたか、どんな意思で母親を見つめていたか。食事をした後、そのまま煎餅布団にくるまって寝てしまったが、次の会話だけは虚ろななかで聞いていた。 
 「あんなが、工場で働くように、私が言っておく。あんただって呉服の仕事をして来ただろうに……。出来ないことはない。必ずやれる。ところで坊はどうするの?学校はどうする?」 
 「有り難いけれど・…自分で仕事を捜してみる。裸になって…。出直しさ。この子だけは・・・」

この後、太い息を吐く音が聞こえた。
 夜遅く、スエは帰って行った。

母と自分の、これからの事を相談しに来てくれたのだと、源二郎は思った。二人の話しの中に、「奉公」という言葉が、何度も出ていたが、その意味を源二郎は解しかねていた。
主人の家に住み込んで、主人に仕えると言うことを、まだ理解出来なかったのである。 妙に静かな冬の夜であった。夜のしじまの中を遠くから波の音が聞こえてくる。徒手空拳。エノにとって零からの出発であった。

スエの夫、河村定吉は、明治六年、河村仙三郎の子として、福井県丹生郡天津村甑谷村に生まれた。
仙三郎が第七代目、河村織右工門を、定吉が八代目、河村織右工門を襲名している。
河村家は甑谷村を開祖し、

福井市甑谷町  
福井市甑谷町

代々、村の大庄屋を勤めた家柄であった。角川日本地名大辞典には甑谷村について次のように記されている。

 
『近世ー』甑谷村 江戸期〜明治22年の村名。越前国丹生郡のうち。はじめ福井藩領。貞享三年幕府領。享保五年からは鯖江藩領。鯖江藩領となった際、当村の河村三右衛門が、大庄屋に任命され、当村の外、三留・小羽・風巻・上糸生・下糸生・真木・乙坂・市。・持明寺・丹生郷・横根・上大虫・下大虫・を管轄することになり、これを甑谷組と称した。甑谷組の大庄屋は、寛政二年から、乙坂村の千秋家が勤め、乙坂組となった。(清水町史)
 

以上の通り、大庄屋についての、推移については、「河村織右工門創業70年回顧録」第一章「河村家の歴史の概説、甑谷村と河村家」の内容と、概ね一致する。河村三右工門は初代の織右工門であったのかもしれない。  
『大庄屋』については、「福井県の歴史・・・印牧邦雄」中に次のように記されている。
 「郡奉行は、代官を支配し、代官は大庄屋の支配頭であった。鯖江藩では、領内の村々を六組にわけ、各組に大庄屋一名をおいていた。組合村の規模は、乙坂組を例にとると、丹生郡一三ケ村が、その組下の村々で、管内の人口は、九〇〇余軒、四千数百人であった。
乙坂組の大庄屋千秋家(丹生郡乙坂村)は、持高、二〇〇石の豪農で、代々大庄屋を世襲し、役料として、藩から、ご一俵の給米を受けていた。福井藩と鯖江藩の例をみてもわかるように、諸藩の農村支配機構には、藩庁と村役人の中間には大庄屋が介在していた。
大庄屋は、藩と村とを結合させるために重要な機能を果たしていたが…」 河村家は開祖以来、この大庄屋を勤めていたのであるが、五代目織右工門が、弘化元年に病死して以来、家運は、漸次、衰亡の道を辿って行く。
千秋家との大庄屋の交替期が 「角川日本地名大辞典」では、寛政二年であり、「70年回顧録」では弘化元年となって居り、年代の格差に矛盾を感ずるが、いずれにしても、五代目の死と大庄屋の交替を契機に家運が衰える、その過程は、概ね理解出来る。
但し、河村家が大庄屋のみを専業として、その時代を乗り越えて来たとは考えにくい。河村家の副業が、定吉の事業開始のための布石であったはずである。その副業が、その後の福井県の主たる産業となる絹織物に関係するものであったとすれば、更に理解の度が深まるのであるが、それは現在では断定することが出来ないのである。 

河村仙三郎(七代目織右工門)の代になり、家運の復活を図る。
明治六年、仙三郎五十九歳の時、定吉(八代目織右工門)が誕生する。
仙三郎の晩年の子であった。その九年後の明治十四年十二月、仙三郎は他界する。享年六十八歳であり、この時、定吉は九歳になっていた。
他界時、養子、繁吉の交わした念書(仙三郎の遺言)により、明治二十年、河村家の財産を分割することになり、この時、河村家の大部分の財産は失われることになるのである。
定吉は、この時、十五歳であった。 
この時から、定吉は「財産復活と家名再興」のため立ち上がるのである。

明治二十三年、定吉十九歳の時、「健気にも、北海道に雄飛を試みんと、単身、函館に渡り種々の実情を視察し、更に遠く北見方面に馳せ、視察を試みた。 
当時は金鉱、並びに、砂金等の発掘、採集の起こり始めた時代で多数の人夫が入りこんでいたので、氏は一策を案じ払下げ品等を買い込み、行商に行ったが、結果は予期に反したので、一先ず函館に帰り、移住の準備を整えた後、郷里に帰り、一時、羽二重、製糸業を始めたが、一敗地にまみれた。」

 明治二十六年、定吉、二十一歳、同郷の木下スエと結婚する。木下スエ、二十三歳の時である。
 河村家と木下家との係わりについては、その後の河村家の発展を考える時、等閑視することの出来ない大きな流れを、部外者の立場で感ずるのである。
木下スエ夫人を始めとし木下ハル、木下ツル、木下万五郎氏などが絡まって息ずいているのが感ぜられてくるのである。
その中に西村エノ(木下エノ)も登場するのであり、その経緯については、推測の域を出ないので、ここでは書かないことにする。


福井県に於いては、明治二十年の前半は羽二重の生産は微々たるものであったが、明治二十五年頃から、商況が活発になると共に、機業家が増加し、福井では、日々五十台の織機が新調されたといわれる。
そして、機業熱は、福井から、隣接郡部に普及して行った。
そこでは、小地主層が、機業の中心となったが、福井機業の二十年以後の急速な普及発展、、四十年代の急速な動力化は、このような小地主層に担はれて進展した。 定吉が北海道の行商から帰り、羽二重と製糸業を始め、一敗地にまみれたのは、丁度、この頃ではなかったか。敗因は判然としないが、しかし、ここで、培かはれた経験が、特に織物機械に対する知識は、その後の、特に函館での製綿業での機械導入に際し、効果的に生かされるのである。
最も、「若いときから、非常に多趣味な人柄であり、特に機械いじりが好きで、それは単なる趣味道楽の域を遥かに越えたものであった。また先代は、先天的に技術家としての才能を具えた立派な専門家だったのである。」とあるように機械に対して天性の才能を有した人であったのだろう。
現在、四十二歳当時のポートレートを見ることが出来るが、繊細さと、強固な意思の持ち主であったことがうかがはれる。ユーモアも備えた人であったとも言われ、人を引き付ける要素を多く持ち、商売の本質を知る、福井の風土が生んだ優れた商人であったのだ。   
「商人は、危険な世界を求めよ」と人は言う。敢えて「火中の栗を拾う」ことを潔しとする積もりはなかったが、北海道の実情を探査し、福井と北海道の将来性を比較した時、定吉の心の中に、北海道、特に函館への進出が今をおいては無いのではないかという確固とした決意が生まれて来ていた。
 定吉は、スエにその決意を打ち明けると共に、河村、木下の一族にもその決意を語った。同時に、その移住のための資金作りに奔走したのであった。
 明治二十七年九月二十四日、定吉の長男、定一が誕生した。それから二年後の明治二十九年四月、定吉は、妻、スエと三歳になったばかりの定一を連れて、函館市東川町に移住したのである。
定吉は、家名再興と、財産復活の悲願に燃えていたが、函館が福井より勝る保証はその時にはなかった。但し、定吉の住む甑谷村を含む清水町からの北海道への移住は、明治二十年に最も多く、福井県全体としては、全国府県別移住人口の中にあって、明治三十九年まで常時、全国七位以内の順位に位置していたので、定吉の移住も、このブームに便乗したものであったかもしれない。 その後、北海道移住の福井県人は、それぞれ苦難の道を切り開き、財をなすとと共に、社会的地位を得11 し、北海道全域にわたって、経済、社会、政治の各部門に大きな貢献をしているのである。近江商人に匹敵する大きな力を有していたことになる。福井県と北海道の繋がりは極めて特異なものであったと言える。
 函館に於ける初めての住居は、おそらく、東川町の近辺からの出発であったことは、函館進出以来の二年間が暗中模索の時代であり、飲食店をはじめとして数種の事業を開業した場所が、東川、寶、蓬来町のテリトリーであったことによる。そして、これらの町は当時の函館の繁華街でもあったのである。しかも、そこを紹介した仲介者が居たはずであった。何の手掛かりもない土地に単身赴任的に進出出来るわけがないのである。
 函館移住後、二年間は、飲食業、納豆製造業等を始めたり、暗中模索を繰り返していたが、最終的に現在の基礎となる製綿事業を、函館市西川町に於いて開始したのは明治三十二年九月であり、この時が「コドモわた株式会社」の創業の年であると「70年史」に記されている。
西村源二郎生誕の前年の事である。 北海道に於ける製綿事業の嘆矢である。
明治三十五年、三月には、工場は、音羽町六十六番地に移転している。工場を音羽町に移転する二ヶ年半の間に定吉は、工場設備の機械化に尽力していた。 事業の成否は、そのリーダーの人間性で決まると言う。

「総べて、一個の事業の成功するか失敗するかの要因は、一にも人物、二にも人物、その首脳となる人物の如何によって決することと言明して憚らない。
また、成功の要件は次の四項に帰するのである。
            第一の要件は、事業の性質如何である。 
             第二の要件は利益のある事業でなければならない。
            第三の要件は、四囲の情勢である。 
             第四の要件は、其の局にあたる人物の如何である。 
                       安田善次郎 」 

定吉の起こした事業の内容を考える時、草創期、事業を支えたのは、親族を中心とした身内によるものであり、次第に親族以外の人材によって構成されることになるが、定吉の人事操作の巧みさが感じられてくる。
事業の性質も、製綿という、その時代の生活様式を変え、庶民の求めていたものを生み出そうとする先見性のあるものであった。そして、それは、定吉が、福井に於いて起こした織物業と密接な関連があったということが出来る。 
但し、日本の綿業の歴史は古い。吉村武夫氏の「ふとん綿の歴史」によれば、それは、千二百年前の、延暦年間に始まり、最盛期は、江戸時代、文化、文政となっている。
綿業の主たる地域も、三河国幡豆郡に始まり、大阪三郷(摂津、河内、和泉)が発祥の地であった。従って、以後の日本の綿製品の主たる生産地域は、大阪、名古屋地区であり、次第に、江戸、関東地区(埼玉、山梨、)に進出して来ていたのである。そして明治の初年に至るまで、北海道の綿業は、その埓外にあったので、定吉の北海道に於ける事業の開始は正に時宜に適うものであったのである。北海道に於ける嘆矢たる所以である。 その頃、明治三十七年から、四十年にかけて、定吉は、新機械の導入に全力を傾注していた。綿打ちの原始的方法である弓打式から、機械化による綿打へと変革する過程にあったのである。 舞切機、一台、杭綿機、一
函館古地図 明治42年   
函館古地図 明治42年
台を明治三十七年に、3馬力発動機を明治三十九年にそれぞれ設置し、運転を開始していた。この機械の導入から事業は急速に進展して行く。又、大火の被害を受けなかったことも幸していた。
 当時のことを「函館市史」は次のように記している。 
「製綿業は、明治四十年の大火後に急速に発達した。大阪から仕入れた古綿を打ち直して、夜具ふとんや、座ぶとんを作り、函館区内をはじめ、道内各地の開墾場、魚場、青森へも販売した。
製綿業の形態には、手打、賃打、製造販売の三種類があり、製造販売業者は、明治末期、数工場であった。」とあり、その後、急速に発展し、大正期、コドモ印製綿所は名実共に北海道の第一人者となって行くのである。
 ついでながら、「函館区史(明治四十四年間)」による明治四十一年の函館の商況は次ぎのようであった。 
 「前年より引き続き市街至る処、家屋の建築盛んにして、諸職工の各地より入り込むもの多く、各店の景気賑わいたり。火災の為焼失せる庫入貨物擔保貸付の損害保険契約等に関し、銀行者と貸主との間に紛議を醸したる者あるも調和して円満の解決を見たり。
火災保険会社の内保険金を支払はざるものありし為、建築を遅緩ならしめたるは、甚だ遺憾なりき。水産物は樺太及び露領より相応の輸入ありしも、府県米作豊穣にして、米価下落し、加ふるに満韓大豆及び大豆粕の府県に大輸入ありし為、魚粕並びに本道産大豆は、其影響を被り、大豆の如きは、十二月に至り一石、五六円に下落せり。又、塩鮭塩鱒は前年より、二萬六千余石の持越しあるに、需要地不況を報じ、自然、安価となり、歳末、又々庫入となりしもの前年に譲らず。対清貿易も、亦、銀貨相場の下落等ににより銷沈して振はざりき。然れども、函館商人が、着々諸般の経営に投資し、立ちどころに災前の繁栄を挽回したるは頗る多とすべきものあり。金融は、緩慢にして、第一回国庫債券の償還あるに及び、預金の更に増加したるが如き、亦以て其富力を知るに足れり。かの山県商店の破産の如き、一時、商界を愕然たらしめたるも、其結果は金融界に多少の警戒を与えたるに過ぎざりき。」とある。

 明治四十一年一月の下旬、西村エノと、その子、西村源二郎は、音羽町にある面河村製綿工場に併設された河村定吉(八代目織右工門。以後、織右工門と呼ぶ)の住宅の居間で当の織右工門と、妻のスエに面接していた。
それまで、西村エノは、わが子、源二郎を河村の家に預けるべきか否かを考え、逡巡し惘悩していた。
今、わが子と別れることは、これまで生きて来た辛苦の人生が全く水泡に帰することになるのであり、子に賭けた希望を打ち捨てることにも通じていた。
しかし、この函館で、女ひとりが、自立し、子を育てて行くことは、明確な働き場所が定まっていない、その時には、無理であった。河村スエが、伴侶である織右工門の経営する工場を働き場所に勧めたが、エノには、何故か抵抗感かおり、蟻るものがあった。そのわだかまりが何故であったかは、心に掛かった黒雲に似て言葉で言い現すことは無理であった。 ただ、それらを考えている時、エノが源二郎に、ふと呟くように問い掛けた時かおる。 
「源よ。お前、綿屋の父さんの処で暮らしてみないか?。お前は、優しくて、物覚えも良く、できの良い子だから、きっと、皆に好きになられ、可愛がられ、元気に育って行くような気がする…。綿屋の父さんに可愛がられて、金持ちになって…母さんを喜ばしてくれ。
 それは、母親としての子に対する淡い願望であった。
 「母さんは、どうするの?」と、源二郎はエノに聞いた。
 「お前と別れて暮らすよ。」 
「どこで?」 
「この函館で。時々、お前と会えると思うから、母あさん、寂しくはない。」 源二郎は考えているようだった。
子供ながらに全てを理解しているようでもあった。いずれ、こうなる予感を持っていたのかもしれない。 
 「いいよ。僕は行くよ。母あさんには心配させない…。」 
エノにとって、それは、思いがけない源二郎の言葉であった。源二郎の少年にしては、肝の座った言葉であった。エノは頷いた。エノの心の中に、ふと言い現せぬ寂寥感が襲った。同時に、エノの脳裏に、西村源蔵の野生のままの姿が浮かび通り過ぎて行った。

今、話しは源二郎の身の処し方に及んでいた。織右工門は、綿埃りの舞う工場から出て来て居て作業服のままであった。
源二郎は、綿屋と母との繋がりが理搦出来ずにいた。しかし 少なくとも 新十津川や滝川での未開の開拓生活よりは将来に希望が持てるであろう。
そして自分なりに、母の手から放れても、努力次第で、生きて行ける予感があった。長じて自主自存、独立独歩を説いた源二郎の萌芽の始まりであった。その時の源二郎に独立独歩が必然の如く覆い被さって来ていたのである。そうしなければならない運命であった。

織右工門は、伴侶のスエから、その事を聞かされていた。またこれからの事業の進展を考えた時、己の子女のうち、男子は一人であり、親族以外に柱になる男子を他に求めていた。スエは、それを熟知していた。第六感とでも言うべきか織右工門は、源二郎を一目見て、その素質の優れていることを見抜いていた。  「息子は引き受ける。家に入れて育てる。」と織右工門は言った。 
 「ところで、あんたはどうなんだ?」とエノに聞いた。  
「息子を宜しくお願いします。・:」エノはそう言ったが、後は言葉にならず絶句した。目に涙が惨んだようだった。
間を置いてから、「私は私で生きてみます……。」
親子揃って河村に世話になるということはエノには辛いことであった。  
「そうか。職は心当たりがあるから、紹介してもかまはない。苦しいだろうが頑張ってくれ。あんたなら出来る。」 
 「自分の力で…。」とエノは言った。
西村源二郎の河村家での生活が決まった瞬間であった。織右工門、スエの抱擁力のある人物育成の信念が源二郎を迎え入れた記念すべき日になったのである。

 河村製綿工場の店歴第一号(創業より大正四年四月迄)の十二頁の家庭欄には次ぎの一項目が記録されている。 
「西村マス、四十一年正月西村エノヨリ貰受ケル」と
源二郎を何故、マスと呼んだのかのかは疑問だが、この一行は源二郎が確実に河村家の一員として迎え入れられた証拠となるものであり、実際、母と子が、父、源蔵の死によって、新十津川を離れ、函館に着いた明治四十年の年末から四十一年一月に至る時期と完全に符合しているのである。
しかし謎も多い。 
一、名がマスと呼ばれているのは何故か。 
二、西村エノは、確実に西村姓であったのか。戸籍上は不明である。 
三、戸籍上、源二郎の養子としての登記はなく、新十津川より、函館への本籍の異動もない。戸籍上の未異動は源二郎が河村の本流となり得なかった証しのようにも思える。

ともあれ、源二郎は河村家の一員として、養育されて行くことになる。この時の河村家の家族構成は次ぎの通りであった。  
  父     河村 定吉   明治    六年生    三十六歳 
  母     河村 スエ    明治    四年生    三十八歳 
  長男   河村 定一   明治二十七年生     十五歳 
  長女   河村マツエ   明治二十九年生     十三歳 
  次女   河村ナツエ   明治三十二年生        十歳  
  三女   河村スエヲ   明治三十五年生        七歳
因みに、
      西村源二郎  明治三十三年生、         九歳  
      西村 エノ     明治     八年生     三十四歳 
であった。
 西村源二郎が、この家族構成をいかに理解し、これに溶け込み、己の自我を確立して行ったかは当時の近親者が全て現存しない今では推測の域を出ず、僅かに残された伝聞に頼るしかない。 ただ、その年、明治四十一年四月、源二郎は、河村製綿工場の近くにある、公立函館高砂尋常小学校の二年に編入している。当時の音羽町は、横に広い町で、西は鶴岡町に接し、東は函館停車場に至る大門通り(松風町通り)を過ぎ、新川町に達していた。新川町は未だ開発されず松林が続く町で、新川町が本格的に開発されるのは、大正に入ってからであった。高砂小学校は、音羽町に隣接する高砂町に所在し、函館市の中央部に位置していた。
 この小学校には、次女のナツエも通っていたので、当然、河村スエが親代わりの筈であったが、その最初の日に限り、エノが、源二郎に付き添った。校庭の数本の桜の木が咲くのは五月の半ばであった。風が肌に冷たかったが、晴れた日で、遠くの新緑に彩られた臥牛山が、青空に映えていた。エノも源二郎も、新十津川で着た正装で身を整えていた。源二郎は絣の着物を着、下には袴を着けていた。いかにも小学生らしい出で立ちであった。エノは、もめん縞の着物に、これも袴を着けていた。エノが、公式の場に母親として顔を出す最後の機会であった。源二郎は、次女のナツエと同じクラスに編入されていた。これから扶けあい、競いあう義兄妹であった。  
「源よ。しっかり勉強してね。挫けずに・…皆と仲良くして。」  
「うん」
うなずく源二郎の顔が殊の外、輝きを増しているようにエノには思われた。しかし、その時が源二郎が母親と別れる最後の人生の時であったのかもしれない。 その後、源二郎がエノと正式に会うのは、二、三回程度であり、数年後には、実の母親との音信が全く途絶えることになる。 その同じ年、河村家の長男、河村定一は、若松小学校の高等科を卒業し、北海道地区唯一の商業学校である北海道庁立函館商業学校に合格、入学していた。
函館商業学校の生徒 大正3年 
北大北方資料館 
  
函館商業学校の生徒  vspace= 

十一月には工場を改築するなど、河村織右工門にとって、明治四十一年は内外共に画期的な年になったのである。 
織右工門は、事業に徹する強い信念の持主であったが、反面、小事にこだはらない気性の持主でもあり、騏奢な風を持つ人柄でもあった。これは伴侶のスエも同様であった。
 子女の教育についても、分け隔てなく平等であった。長男の定一は十五歳なっていたが将来に期待するものがあったのか、競争率の高い函館商業学校に合格した時、両親共に大喜びであった。定一は、長じて若松小学校の同窓会の幹事長の任に在った時、次ぎのように回想した。 
 「私は、明治三十八年頃、函館市内の高砂小学校の尋常科四年を卒業して、若松小学校の高等一年に入学しました。私は、世間一般の子供によくある腕白小僧であり、なにかといえば、組の先頭に立って暴れたものでした。それはこせこせしたことをいわない両親、特に子供の個性をのびのびと伸ばしやろうとの母親の深い愛情があったからだと思います。
定一は、その後、九代目織右工門を襲名し、河村製綿工場を一身に背負う代表社員となるのだが、その将来性は、この時に育ぐくまれていたと言ってよい。 源二郎の生活環境もまた、この定一の生活環境に相似していた。8代目河村織衛門 源二郎自身も、河村家の本流でない開拓民の子として、ややもすれば、なおざりにされ、放置されかねなかったが、母親代わりとしてのスエの愛情は、他の子女と全く変わることはなかった。源二郎も卑下し、卑屈になることもなく、毅然とした少年であった。この源二郎を】年上のナツェが距離を置いて凝視していた。
源二郎はどちらかと言えば腕白で負けず嫌いな性格であった。  
「源さんは、普段、特に一生懸命になって、勉強している様子はなかった。
ただ生徒達の仲間に入って遊んでいることが多かった。いざ授業が始まると、人が変わったようになって活発になった。
先生の質問に一9代目河村織衛門 番多く解答するのが源さんだった。答えの間違いは殆どなかった。国語も、算術も、修身もクラスの中で、一番よくできた…。私もびっくりでした。」
と述懐している。 それは天性のものであったのか、教師も教材にも恵まれなかった源二郎の学力はどこから生まれてきたのか。 
その頃、長男の定一は、学校から帰ると、帳簿づけ、配達と、よく家業を手伝っていた 。そして源二郎にも家業に接する機会が訪れていた。 源二郎が初めて隣接する工場の中を見たのは高砂小学校五年の冬のことで十二歳になっていた。学校から帰って、子供の部屋に独りでいた時、ひょっこり、織右工門が顔をのぞかせた。  
「おい、源よ。工場の綿作りを見てみないか!」と織右工門は言った。織右工門は、いつもながら、綿毛が着いた作業服姿であった。  
「うん。見たいよ。」
源二郎は快活にそう言ったが、普段は入りたくても入れない禁断の作業場のように感じていた工場であり、一種の恐怖心も持っていた。
 薄暗い作業場に綿ほこりが満ち、窓からさしこむ光線の中に綿の粉が舞っていた。作業場の中央にくすんだ色の機械があった。機械も綿ほこりにまみれて灰色にふくらんでいるように見えた。 
 「おい!中に入って手伝うか・:」と織右工門は言った。
しかし、源二郎はさすがにためらった。
機械らしい機械に、この時、そう、生まれて初めて出会ったことになる。 作業場に二、三人の女工がいて、ふとん綿の打ち直しの最中であった。針金できつくしばられたうす黒い色をした綿がうず高く積まれていた。  
「あの綿をどこから運んできたの?」と、源二郎は織右工門に聞いた。
  「大阪から買ってきた五百貫はあるだろう。大阪は綿の本場よ。あの綿をほぐして、ふとんや、座布団に使うのだ。」わかりやすく織右工門は説明した。
 女工が針金を解いた綿を杭綿機や舞切機などを使い、ほぐしていたのだった。モーターの音が大きく耳に響く。ほぐした綿が数倍に膨脹し、そのたびに、ほぐれた綿が四方に飛び散り作業場が綿でいっぱいになる。いちばん綿のほこりであった。  
「源、面白いか…」  
「うん・・・」
精製された白い綿が作業場の中央にうず高く積まれていた。 源二郎は、それを手で触った。
「暖かい!」と思わず呟いて後ろを振り返った時、優しく微笑む織右工門の顔があった。その事があってから、源二郎は時々工場の中に入ることがあった。
織右工門が故障した機械の修理に汗を流しているのを見たり、白い川のように流れる綿を物差し棒で見当をつけながら手でちぎっている織右工門を見たことがあった。 
その時々の、作業場の中で、綿の山と格闘をする織右工門の姿を少年の源二郎は己の脳裏に強く焼き付けていた。 「函館市史」は当時のことを次ぎのように著るす。  
「このうち、成長の著しい丸村河村製綿所では、明治四十三年の職工数十人、蒸気三馬力」と。 
又、当時の広告文は次ぎのようであった。

判綿、小袖綿、夜具綿、

布団類製造卸商

丸村河村商店

函館区音羽町六六

電話九七七番

振替口座東京八八三四番

 

河村製綿工場が、
国内初のローラーカードマシン   
ローラーカードマシン  vspace= 

ローラーカード機を導入し、北海道の製綿事業のリーダーとして一段と飛躍して行ったのは明治四十三年五月を契機としていた。

その時代、日露両国、米国の満州鉄道中立化案を拒否。憲政本党解散。立憲国民党結成。大逆事件起きる。韓国併合条約。
韓国の国号を朝鮮とし、朝鮮総督府を設置。白瀬中尉ら南極探検に出発。                                                石川啄木「一握の砂」出る。 そんな時代であった。








 

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