明治四十一年一月中旬の朝、角巻き姿のエノと、マントを被った源二郎は、滝川駅から小樽行きの汽車に乗った。
正月で乗客は疎らであった。岩見沢を通り、札幌を過ぎ、小樽に着いたのは夕方であった。そのまま、小樽から函館行きの定期船に乗った。
その当時の、その時の事を知る人は今は居ない。
今は生きては居ない。ただ、語り継がれて、知る人は、「エノと、源二郎は、船で函館に来た・・・」と言う。
二人にとって、傷心の旅であり、傷心の出発の時であった。
函館末広町 明治42年 北大図書館蔵 |
函館桟橋 北大図書館蔵 |
あの時、若者が二十一歳、エノが二十歳。多感な青春の時であった。エノには、あの時の函館の風景が目に浮かぶ。 旅の始め、函館に着いた時、函館は春の初めであった。
緑が、うっすらと蘇った臥牛山その山裾に展がる洋風の町並み。基坂の上の黄色い公会堂。その近くの教会から流れる鐘の音。それぞれが印象的であった。
そして、あの時、再び函館を訪れるであろうという予感がエノの心の中に刻みこまれていたのである。
風の便りに遠縁にあたる、木下スエ、ハル、ツルが函館に住んでいることも聞いていた。漠然とそれらに相談をしてみようと思っていたのである。
荒れる海を乗り越え、小樽から函館港に着き、孵に乗り換え、西浜岸壁に着いた時、函館も厳しい冬の最中であった。
空は曇り、冷たい風が粉雪を舞き散らしていた。男はタコを被り、女は、長い角巻きを着て歩いていた。
整理しきれぬ去年の大火の残骸が至る所に堅く凍って残り、正月の名残が僅かに感ぜられる程度であった。
復興の槌音は疎らであった。
雪の街路に軌道が見え、その軌道の上を馬車鉄道の経営する馬車が鈍い音を出しながら走っていた。
エノと源二郎は、その馬車に乗って蓬来町にある無料宿泊所を目指した。
無料宿泊所は災害後、財団法人無料宿泊所が、類焼にょって旅館が減少したため、函館に商取引に来る地方の商人や、函館に住む姻戚、知人を尋ねて来る旅人のために、災害後、短期間に建てられた仮設の簡易旅館であった。
エノと源二郎は、この宿で、その夜を過ごすことにしていた。
蓬来町にある新蔵前の停留所で馬車から降りた時、エノも源二郎も長い旅から開放されたようなほっとした気持ちになった。
当時、蓬来町は寶町、恵比寿町を含め、函館の繁華街であった。芝居小屋の巴座、寄席を主とする大和座、キネマを主とする池田座がそれぞれの街角を占拠していた。
従って、土、日曜日は、それを利用する大衆によって賑わうのが常であったが、災害後は興行を中止し、正月だというのに、静まり返っていた。
東照宮の近くには遊里があったが、ここも営業を中止し、この大火を契機に大森町に移転して行くのである。
函館全体が悲運の底に沈んでいたのだが蓬来町近辺は特に静かであった。
エノと源二郎は無料宿泊所の四畳半の部屋で、その夜を過ごすことになった。体の良いアパートのような部屋であった。
地方から来た商人風の男達や、露店商人、漁夫、その日に困っているような風体の男女も泊まっているようだった。
その夜、色々な料理を詰めた重箱を抱え、一人の品の良い婦人が二人の部屋を訪れた。
木下スエであった。 木下スエは、エノの遠い姻戚にあたる女性であり、現在は、同郷の河村定吉と結婚し、郷里の福井県から移住して来ていた。
スエは、赤飯や、煮しめ、焼き魚などを詰めた重箱を広げ、
「疲れただろうに…。腹も空いただろう…。食べなせい。」と言って料理を勧めた。
そして、
「坊の名前は?」と源二郎に聞いた。
「源二郎といいマス。九歳デス。」
「賢そうな子だね。」と言った。
スエの姓は河村に変わり、今では、男、一人、女、三人の母親であった。
スエも苦労した福井県人の一人であった。
暗い電灯の下でスエとエノは久闊を詫びた後、長い間、とぎれることなく、話を続けた。
スエは、故郷を蹴るように出奔したエノの行為を非難することもなく、暖かい気持ちで理解していたのである。
男運に恵まれなかったエノの、それまでの流転の様を、救うような気持ちで確かめていたのであった。
源二郎が、その時、どんな感情で二人の話を聞いていたか、どんな意思で母親を見つめていたか。食事をした後、そのまま煎餅布団にくるまって寝てしまったが、次の会話だけは虚ろななかで聞いていた。
「あんなが、工場で働くように、私が言っておく。あんただって呉服の仕事をして来ただろうに……。出来ないことはない。必ずやれる。ところで坊はどうするの?学校はどうする?」
「有り難いけれど・…自分で仕事を捜してみる。裸になって…。出直しさ。この子だけは・・・」
この後、太い息を吐く音が聞こえた。
夜遅く、スエは帰って行った。
母と自分の、これからの事を相談しに来てくれたのだと、源二郎は思った。二人の話しの中に、「奉公」という言葉が、何度も出ていたが、その意味を源二郎は解しかねていた。
主人の家に住み込んで、主人に仕えると言うことを、まだ理解出来なかったのである。 妙に静かな冬の夜であった。夜のしじまの中を遠くから波の音が聞こえてくる。徒手空拳。エノにとって零からの出発であった。
スエの夫、河村定吉は、明治六年、河村仙三郎の子として、福井県丹生郡天津村甑谷村に生まれた。
仙三郎が第七代目、河村織右工門を、定吉が八代目、河村織右工門を襲名している。
河村家は甑谷村を開祖し、
福井市甑谷町 |
代々、村の大庄屋を勤めた家柄であった。角川日本地名大辞典には甑谷村について次のように記されている。
『近世ー』甑谷村 江戸期〜明治22年の村名。越前国丹生郡のうち。はじめ福井藩領。貞享三年幕府領。享保五年からは鯖江藩領。鯖江藩領となった際、当村の河村三右衛門が、大庄屋に任命され、当村の外、三留・小羽・風巻・上糸生・下糸生・真木・乙坂・市。・持明寺・丹生郷・横根・上大虫・下大虫・を管轄することになり、これを甑谷組と称した。甑谷組の大庄屋は、寛政二年から、乙坂村の千秋家が勤め、乙坂組となった。(清水町史)
以上の通り、大庄屋についての、推移については、「河村織右工門創業70年回顧録」第一章「河村家の歴史の概説、甑谷村と河村家」の内容と、概ね一致する。河村三右工門は初代の織右工門であったのかもしれない。
『大庄屋』については、「福井県の歴史・・・印牧邦雄」中に次のように記されている。
「郡奉行は、代官を支配し、代官は大庄屋の支配頭であった。鯖江藩では、領内の村々を六組にわけ、各組に大庄屋一名をおいていた。組合村の規模は、乙坂組を例にとると、丹生郡一三ケ村が、その組下の村々で、管内の人口は、九〇〇余軒、四千数百人であった。
乙坂組の大庄屋千秋家(丹生郡乙坂村)は、持高、二〇〇石の豪農で、代々大庄屋を世襲し、役料として、藩から、ご一俵の給米を受けていた。福井藩と鯖江藩の例をみてもわかるように、諸藩の農村支配機構には、藩庁と村役人の中間には大庄屋が介在していた。
大庄屋は、藩と村とを結合させるために重要な機能を果たしていたが…」 河村家は開祖以来、この大庄屋を勤めていたのであるが、五代目織右工門が、弘化元年に病死して以来、家運は、漸次、衰亡の道を辿って行く。
千秋家との大庄屋の交替期が 「角川日本地名大辞典」では、寛政二年であり、「70年回顧録」では弘化元年となって居り、年代の格差に矛盾を感ずるが、いずれにしても、五代目の死と大庄屋の交替を契機に家運が衰える、その過程は、概ね理解出来る。
但し、河村家が大庄屋のみを専業として、その時代を乗り越えて来たとは考えにくい。河村家の副業が、定吉の事業開始のための布石であったはずである。その副業が、その後の福井県の主たる産業となる絹織物に関係するものであったとすれば、更に理解の度が深まるのであるが、それは現在では断定することが出来ないのである。
河村仙三郎(七代目織右工門)の代になり、家運の復活を図る。
明治六年、仙三郎五十九歳の時、定吉(八代目織右工門)が誕生する。
仙三郎の晩年の子であった。その九年後の明治十四年十二月、仙三郎は他界する。享年六十八歳であり、この時、定吉は九歳になっていた。
他界時、養子、繁吉の交わした念書(仙三郎の遺言)により、明治二十年、河村家の財産を分割することになり、この時、河村家の大部分の財産は失われることになるのである。
定吉は、この時、十五歳であった。
この時から、定吉は「財産復活と家名再興」のため立ち上がるのである。
明治二十三年、定吉十九歳の時、「健気にも、北海道に雄飛を試みんと、単身、函館に渡り種々の実情を視察し、更に遠く北見方面に馳せ、視察を試みた。
当時は金鉱、並びに、砂金等の発掘、採集の起こり始めた時代で多数の人夫が入りこんでいたので、氏は一策を案じ払下げ品等を買い込み、行商に行ったが、結果は予期に反したので、一先ず函館に帰り、移住の準備を整えた後、郷里に帰り、一時、羽二重、製糸業を始めたが、一敗地にまみれた。」
明治二十六年、定吉、二十一歳、同郷の木下スエと結婚する。木下スエ、二十三歳の時である。
河村家と木下家との係わりについては、その後の河村家の発展を考える時、等閑視することの出来ない大きな流れを、部外者の立場で感ずるのである。
木下スエ夫人を始めとし木下ハル、木下ツル、木下万五郎氏などが絡まって息ずいているのが感ぜられてくるのである。
その中に西村エノ(木下エノ)も登場するのであり、その経緯については、推測の域を出ないので、ここでは書かないことにする。
福井県に於いては、明治二十年の前半は羽二重の生産は微々たるものであったが、明治二十五年頃から、商況が活発になると共に、機業家が増加し、福井では、日々五十台の織機が新調されたといわれる。
そして、機業熱は、福井から、隣接郡部に普及して行った。
そこでは、小地主層が、機業の中心となったが、福井機業の二十年以後の急速な普及発展、、四十年代の急速な動力化は、このような小地主層に担はれて進展した。 定吉が北海道の行商から帰り、羽二重と製糸業を始め、一敗地にまみれたのは、丁度、この頃ではなかったか。敗因は判然としないが、しかし、ここで、培かはれた経験が、特に織物機械に対する知識は、その後の、特に函館での製綿業での機械導入に際し、効果的に生かされるのである。
最も、「若いときから、非常に多趣味な人柄であり、特に機械いじりが好きで、それは単なる趣味道楽の域を遥かに越えたものであった。また先代は、先天的に技術家としての才能を具えた立派な専門家だったのである。」とあるように機械に対して天性の才能を有した人であったのだろう。
現在、四十二歳当時のポートレートを見ることが出来るが、繊細さと、強固な意思の持ち主であったことがうかがはれる。ユーモアも備えた人であったとも言われ、人を引き付ける要素を多く持ち、商売の本質を知る、福井の風土が生んだ優れた商人であったのだ。
「商人は、危険な世界を求めよ」と人は言う。敢えて「火中の栗を拾う」ことを潔しとする積もりはなかったが、北海道の実情を探査し、福井と北海道の将来性を比較した時、定吉の心の中に、北海道、特に函館への進出が今をおいては無いのではないかという確固とした決意が生まれて来ていた。
定吉は、スエにその決意を打ち明けると共に、河村、木下の一族にもその決意を語った。同時に、その移住のための資金作りに奔走したのであった。
明治二十七年九月二十四日、定吉の長男、定一が誕生した。それから二年後の明治二十九年四月、定吉は、妻、スエと三歳になったばかりの定一を連れて、函館市東川町に移住したのである。
定吉は、家名再興と、財産復活の悲願に燃えていたが、函館が福井より勝る保証はその時にはなかった。但し、定吉の住む甑谷村を含む清水町からの北海道への移住は、明治二十年に最も多く、福井県全体としては、全国府県別移住人口の中にあって、明治三十九年まで常時、全国七位以内の順位に位置していたので、定吉の移住も、このブームに便乗したものであったかもしれない。 その後、北海道移住の福井県人は、それぞれ苦難の道を切り開き、財をなすとと共に、社会的地位を得11 し、北海道全域にわたって、経済、社会、政治の各部門に大きな貢献をしているのである。近江商人に匹敵する大きな力を有していたことになる。福井県と北海道の繋がりは極めて特異なものであったと言える。
函館に於ける初めての住居は、おそらく、東川町の近辺からの出発であったことは、函館進出以来の二年間が暗中模索の時代であり、飲食店をはじめとして数種の事業を開業した場所が、東川、寶、蓬来町のテリトリーであったことによる。そして、これらの町は当時の函館の繁華街でもあったのである。しかも、そこを紹介した仲介者が居たはずであった。何の手掛かりもない土地に単身赴任的に進出出来るわけがないのである。
函館移住後、二年間は、飲食業、納豆製造業等を始めたり、暗中模索を繰り返していたが、最終的に現在の基礎となる製綿事業を、函館市西川町に於いて開始したのは明治三十二年九月であり、この時が「コドモわた株式会社」の創業の年であると「70年史」に記されている。
西村源二郎生誕の前年の事である。 北海道に於ける製綿事業の嘆矢である。
明治三十五年、三月には、工場は、音羽町六十六番地に移転している。工場を音羽町に移転する二ヶ年半の間に定吉は、工場設備の機械化に尽力していた。 事業の成否は、そのリーダーの人間性で決まると言う。
「総べて、一個の事業の成功するか失敗するかの要因は、一にも人物、二にも人物、その首脳となる人物の如何によって決することと言明して憚らない。
また、成功の要件は次の四項に帰するのである。
第一の要件は、事業の性質如何である。
第二の要件は利益のある事業でなければならない。
第三の要件は、四囲の情勢である。
第四の要件は、其の局にあたる人物の如何である。
安田善次郎 」
定吉の起こした事業の内容を考える時、草創期、事業を支えたのは、親族を中心とした身内によるものであり、次第に親族以外の人材によって構成されることになるが、定吉の人事操作の巧みさが感じられてくる。
事業の性質も、製綿という、その時代の生活様式を変え、庶民の求めていたものを生み出そうとする先見性のあるものであった。そして、それは、定吉が、福井に於いて起こした織物業と密接な関連があったということが出来る。
但し、日本の綿業の歴史は古い。吉村武夫氏の「ふとん綿の歴史」によれば、それは、千二百年前の、延暦年間に始まり、最盛期は、江戸時代、文化、文政となっている。
綿業の主たる地域も、三河国幡豆郡に始まり、大阪三郷(摂津、河内、和泉)が発祥の地であった。従って、以後の日本の綿製品の主たる生産地域は、大阪、名古屋地区であり、次第に、江戸、関東地区(埼玉、山梨、)に進出して来ていたのである。そして明治の初年に至るまで、北海道の綿業は、その埓外にあったので、定吉の北海道に於ける事業の開始は正に時宜に適うものであったのである。北海道に於ける嘆矢たる所以である。 その頃、明治三十七年から、四十年にかけて、定吉は、新機械の導入に全力を傾注していた。綿打ちの原始的方法である弓打式から、機械化による綿打へと変革する過程にあったのである。 舞切機、一台、杭綿機、一
函館古地図 明治42年 |
函館商業学校の生徒 大正3年 北大北方資料館 |
判綿、小袖綿、夜具綿、 布団類製造卸商 丸村河村商店 函館区音羽町六六 電話九七七番 振替口座東京八八三四番 |
国内初のローラーカードマシン |
ローラーカード機を導入し、北海道の製綿事業のリーダーとして一段と飛躍して行ったのは明治四十三年五月を契機としていた。
その時代、日露両国、米国の満州鉄道中立化案を拒否。憲政本党解散。立憲国民党結成。大逆事件起きる。韓国併合条約。
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