十月も末で、曇り日の寒風の吹く日であった。長い間、忘れていた函館の空っ風である。函館は既に初冬であった。
私は、函館駅に近い場所に宿を取った。明治四十一年、源二郎が身を寄せた丸村河村商店の製綿工場と住宅が所在していた音羽町六六番地(明治期)が直ぐ側であった。現在の棒二森屋百貨店所在地の近隣である。
私の旅の目的は、その所在地と源二郎の学歴を辿り、その事実を確認することであった。
1 風聞により、源二郎の小学校入学を事実として書いてはみたが、釈然とせず、追及不足を感じていたのである。
西村康之氏は、その著、”時空遊悠浪慢・・・西村家のルーツを尋ねる”の中で、
「西村源二郎は、河村家の中で小年期、青年期を過ごし、学業は優秀で、常にクラスの中でトップを維持し、リーダーシップを握るタイプの少年であったが・・・」
と書くと共に河村家の兄妹を通じて知り得た小学校時代の源二郎の様子を語ってはいたが、今一つ説得力に欠けるものを私は感じていたのである。
函館市誌「第十三章教育第二節明治時代の教育」によれば、当時、音羽町近辺に小学校は次の二校があった。
一、区立高砂尋常小学校 明治二十年一月、公立を変じて私立となし、尋常小学校とした。
二十五年五月高等科を併置し、二十九年校舎を改築し、三十一年公立に復し高等科を廃した。
二、区立若松尋常高等小学校 明治三十六年開校 現在、両校共に廃校となり、高砂小学校は大森小学校に、若松小学校は北星小学校に吸収合併されている。
翌日、雨の降りしきる夕方、私は、源二郎の小学校在学を確かめるため、大森浜に近い大森小学校の職員室を訪ねた。
四、五人の教師が残務整理の最中であったが、私は校長室に通され、校長の絵面和子氏に面接することが出来た。
絵面氏は、中年の温和な婦人で、優しく応対してくれた。絵面氏は、備え付けの古い金庫を開き、明治期の高砂小学校卒業生名簿を取り出して来た。
古びてはいたが、卒業の過程が明確に読み取れる墨書の名簿であり、歴史の重さが感じられた。その名簿には卒業年度と卒業生名、卒業生の生年月日が書かれていた。
私は明治四十一年以降の十年間を主に、絵面氏と綿密に照合して行った。
しかし、どの年度にも西村源二郎(又は西村マス)の名を見出だすことは出来なかった。
逆に、河村定市(定一、河村ナッエ、河村スエ の姓名は簡単に確認することが出来た。
河村定市 (明治二十七年九月二十四日生) 明治三十八年三月 第 五回卒業
河村ナツ工 (明治三十二年九月八日生) 明治四十五年三月 第十二回卒業
河村ス工ヲ (明治三十五年三月二十八日生) 大正三年三月 第十四回卒業
西村源二郎は明治三十三年五月二十六日生であり、当然、この期間に名を連ねていなければならない。
源二郎が移住した明治四十一年から、大正五年までの名簿を姓名、生年月日を中心に詳細にチェックしたが、源二郎に合致するものは無かったのである。
私は肩の力が抜けるような、落胆するような、そんな不思議な気持ちであった。
「期待に添えず残念でした。」と絵面氏は言われた。
「名前が無ければ、それはそれで良いのです。事実は事実で…」と私は力無く言っていた。
次の日の午前、松川町添いの大縄町にある北星小学校を私は訪ねた。
私は万が一、源二郎だけ、独りだけ、若松小学校に通っていたのではないかと思っていたからである。
丁度、休み時間で、職員室に、二、三人の教師が居た。
私は所用を述べた。暫くして、担当の斎藤教諭が明治期の若松小学校の卒業生名簿を持って来て説明された。
大森小学校と同じように古い墨書の分厚い冊子であり、卒業生の姓名は明確に確認出来た。
私は明治四十一年以降、十年間を綿密にチェックしたが、ここでも西村源二郎の姓名を見出だすことは出来なかった。
河村家の子弟の姓名も無かった。
河村家の子女はおそらくは小学校卒業後、高等女学校に進学したので若松小学校の高等科とは無縁であったと思はれる。
但し、河村定一はこの学校の高等科を
啄木小公園より大森小学校 (あさひ小学校)遠望 |
卒業しているのだが、これも見出だすことは出来なかった。
河村定一は長じて若松小学校の同窓会幹事長の役員を勤めてもいるので、この学校の卒業生であるのだが。それにしても、茫漠たる時の流れが源二郎の名を消し去ったのか。私は感慨の深いものがあった。
もう一校、住居から遠く離れたところに、鶴岡尋常小学校があった。
函館市誌は次のように著している。
「貧民学校として、従来、月謝を徴収しなかったが、三十二年八月、社団法人となし、三十三年一月、渡辺孝平(初代熊四郎退隠後改名)より基本金一萬圓及び、高砂町宅地八百九十八坪餓を校舎敷地として寄付あり、同年、寄付金五千四百絲圓を募って新築移転した。」とある。
この説明には引っ掛かるものがあり、特に「貧民学校…云々」については河村家の立場上、考えられない事である。
又、鶴岡小学校は高砂町所在とは言え、住居とは離れた距離であり、通学上、不便な位置にあった。
推測するに、源二郎とは無縁の小学校と見るべきと私は判断したのである。
結局、西村源二郎には小学校卒業の事実は無いということになるのだが、事実は、筆者が前章に書くように、源二郎の小学校生活を語る河村ナツエの生の証言があるのだ。不思議と言えば不思議な話しである。 西村康之氏も後日談として、昭和四十五年八月、源二郎(光源)のブラジル渡航記念として開催された第四回光源会に招待された河村家子女が、西村家子女と交わした雑談を引き合いに出す。
(その年、大阪万博開催年でもあった。)
「源ちゃんは、大して勉強もしていないのに、クラスでは常にトップの成績で、率先して、前に出て、挙手をして、クラスでは人気者だった…」
河村ナツエより一歳下の源二郎がナツエと同学年、同学級であったとは考え難いが、恐らくは河村ナツエの言葉であろう。
ナツエが虚言を吐くことは決してないはずである。そうだとすれば、源二郎は卒業の資格を得ず高砂小学校を去ったのかもしれない。
その要因は多々考えられる。 本文 北星小学校の斎藤教諭は、「明治の頃の小学校の入学規則は、そんなに厳しいものではなかったようでした・・・」と言われた。
事情によって、緩急の解釈が為されたということであろうか。そうであるとすれば卒業名簿に西村源二郎の姓名が記録されなかった何等かの事情があったはずである。その事情の有力説は中途転校説である。そして、この転校説の有力な要因として、当の丸村河村商店の製綿工場が火元となった明治四十五年四月十二日の函館大火がある。
函館大火災害誌(北海道社会事業協会 昭和十二年三月二十一日発行)には次ぎのように記されている。
「明治四十五年四月十二日午後二時、音羽町六五より出火、焼失区域、音羽、高砂、松風、新川の各町に互り、縦二百四十間、横百八十間、棟数三百二十、戸数七百三十三戸を焼失した。
この坪数九千四百三十二坪で、損害高二十二萬五千八百四十圓に及び、午後四時十分鎮火。当日は、西風強く出火当時は一秒時十四米であったが、漸次速度を加え、午後三時には十五米五に達した。為に火は強風に拭き捲られて火勢猛烈となり、延焼速にして、混乱を極めた。消防隊は極力防禦に努めたるも飛火の箇所多きと延焼の迅速なる為め位置転換の余儀なきに至り、水利不便の為、僅の注水と破壊作業を行ったが消火に困難を極めた。
これが為に消防手二十名の負傷者をさへ出すに至った。」とある。
又、河村織右工門創業70年回顧録も大火の模様を次ぎのように記す。
「明治45年(一九一一年)4月12日午後2時10分、この不幸な大火が起こったのである。工場内の綿打新綿アンドン機械より発火した火が綿に燃え移った。
これが原因である。工場は忽ち猛火に包まれ折柄の西の烈風に煽られて火の手は四方に拡がって行き、音羽町、高砂町、新川町等7百戸余をなめつくし2時間後の午後4時10分漸くにして鎮火した。多数の焼失家屋と負傷者まで出し、しかも、その火元が、河村工場なのである。そのときの当主、先代織右工門の苦衷はいかぽかりであったろうか。
河村家の損害だけでも、全工場 、機械、その他、附属施設等、一切を焼失してしまったのであるから。その額3万円を下らず河村家は一瞬にして無一物となってしまった、といっても決していいすぎではなかった。
当時の状況は次ぎに掲げる新聞記事によってその一端を伺うことができる。・……」
明治45年4月13日付の函館毎日新聞には、函館大火災害誌と、ほぼ同様の記事が掲載されていて、「焼失区域、焼失住家、その他」なども記されているが、最後に次ぎの記事がある。
「因みに、河村織右工門氏は、自家より出火して、かかる災禍を蒙らしめたるは、死にも入りたき心地して、50円の見舞金などは大海の一滴にも値せざれども、聊か謝意を表するために寄付したしたと、本社に委託されたり。」
その日の事は源二郎の脳裏から消え去らなかった。
源二郎は学校の授業を終え、家に帰って来た前後の出火であった。
工員が「火事だ!」「水だ!」と叫び、走り回り始めてから間も無く工場の庇から濠々と煙りが吹き出してきた。
次ぎにバリバリと音がして火が舞い上がった。強風に煽られて火の粉が飛び散り、その火が、瞬く間に棟から棟に燃え移った。
源二郎は姉妹と手をつなぎながら工場の前の路上に立ち尽くしていた。消防隊が駆け付けガソリンポンプのホースから水が放射されたが、焦点が定まらず既に手遅れの状態であった。
工場の柱が燃え落ちるのが見え、その熱が姉妹の身に襲いかかって来た時、 「逃げよう!」と源二郎は言った。
「母さん!・・」と叫んでマツエは母を捜し、スエオは既に泣き出していた。
間も無く火は姉妹の住家まで狂うように包み込んで行った。源二郎は宝町にある西村エノの仮住居を知っていた。差し当たり、そこに行って落ち着こうと思った。
「姉ちゃん、逃げるんだ!」
定一が、まだ学校から帰らず、父母は工員の先頭に立って消火の真っ最中であった。
今、姉妹を引き連れて行くのは自分なのだと源二郎は思っていた。少年の正義感であった。
音羽町から宝町までは、そんなに遠い距離ではなかった。エノの部屋に辿り着いた時、火は高砂町を紙め尽くし、松風町、新川町に向かって突き進んでいた。
宝町にあるエノの家の部屋は相変わらず簡素であった。エノは火事が起きていることは知っていた。
昼から町が騒々しく、人の行き来が激しい。風の吹き荒れる空に濠々と黒煙が舞い上がるのが見える。火災現場が近いのも知っていた。
「工場から火が出、燃えている。それで皆んなで逃げて来たんだ。」と、源二郎が真剣に言うのを聞いて
「綿屋の工場から?それなら大変だ。大将も……。お前達も…」
エノは久し振りの源二郎を見て、相好を崩したが火事の内容を聞いて一変し、芯から驚いたようだった。
エノは、子供達を確認しながら、
「綿屋に行って来る。お前達はここに、じっとしていて…」と言って、慌ただしく出て行った。
その夜、遅くなって、エノは酷く疲れた様子で帰って来た。
「お前達は四、五日ここに居て。落ち着くまで。大将も、工場も大変なんだから…」と言って、へなへなと座りこんだ。
火が鎮まってから多数の被害者が河村に押し掛けているような口振りだった。
エノは仕立物をしながら暮らしていた。ひっそりと暮らしているためか、あの新十津川の時に較べ、幾分、和らぎ、若さが戻ったような温和な感じがした。
「袷や、単衣を仕立てる仕事なのよ。これでどうにか暮らしていける。滝川での。”もめん屋”で知った事が助けになって……。源や、お前も学校で活発にやっているそうで、安心していたけれど……大将の母さんに聞いていた。」
「うん。」源二郎は姉妹の顔をうかがいながら、ただ頷いていた。
河村商店とは近い所に住居かありながら、我が子源二郎と一線を劃していたのだが、突然の源二郎達の来訪であった。
狭い家であったが源二郎と姉妹は十日程、その家で寝泊まりをしたのである。
この間、当然、一家の住宅が工場敷地内にあり、住宅も全焼したところから河村家は代替えの住宅を探索していた。そして仮説住宅を鶴岡町26番地に決め一家がそこに移転したのは火災の時から半月が経過してからだった。
しかし、新住宅は家族全員が生活する為には狭隘であり、源二郎だけは、この一時期、西村エノの住む家に預けられることになるのである。
この火災のある前月、即ち、明治四十五年三月、河村ナツエは高砂尋常小学校を卒業していたが、西村源二郎が、この小学校を卒業する迄には、後、一年の月日を残していた。 この時、西村エノの住居は、大火焼失区域外である函館の西部に所在していた。大火の混乱を避けて、その住居で過ごしていたが、十日程して河村の姉妹を母親のスエが迎えに来て、連れて行った。源二郎は、河村家の次ぎの住宅が用意されるまで、一人だけで、エノの住居に残されたが、その端緒になったのは、火災当日の源二郎の機転の利いた行動によるものであっただけに、離ればなれの生活には、妙に納得するものがあった。そして、残された一年間を高砂小学校を離れ、近くの小学校に転校し、通学することになったのである。その学校は、恐らくは、区立東川尋常小学校か、区立賓尋常小学校のいずれかであった。そして、その一年間は、源二郎にとって、割りと平穏に明け暮れることの出来た一年間であった。
河村家の兄妹は、差し当たり鶴岡町26番地の店舗の中の部屋で生活し、定一は、元町にある函館商業学校に。マツエ、ナツエはこれも元町にあった女学校に。スエヲは大正三年三月迄、火災被害修復後の高砂小学校に通うことになったのである。しかし、この不自由な時期は短期間であり、河村商店が火災発生の火元としての責任上の諸問題を解決すると共に、幾多の困難を乗り越えて、新工場を函館市新川町に建設し、翌年、付設の住宅が完成する迄の一年間であった。その間の事情について回顧録では
「火災後直ちに、鶴岡町26番地に移り、板戸を立てて仮住居とし、静かに謹慎の意を表明していたが、世間の罵詈讒謗はただごとではない。
加うるに、無一物同然という大損害なので、経営の続行も危ぶまれ、一時は、閉業もやむを得ないと思うに至る所まで追いこまれたのである。」と当時の苦難を記す。
そして 「しかし、温かく励ます友人や知己もあった。こういう誠意や友情によって、再起の決意を固め、四月の末日、鶴岡町13番地にようやく再開の運びとなったのである。一方、製綿工場も再建しなければ肝心の綿の製造が始まらないのである。しかし、元の場所に工場を建てることは、地元の反対で到底不可能である。・……秘かに、新川町三〇九番地に建築をはじめたが、これまた地元の嗅ぎつける所となり、果然猛排斥を食うことになった。・・先代は、ただひたすら腰を低くし、隠忍持久、忍耐力の限界点まで、堪えられるだけ堪え忍び、示談に示談を重ねて、漸くにして、復旧の計画より数十間、後ろに退いて建て直すことに話合いをつけ、つまり条件付で解決して、同年七月末より綿の製造を開始できるようになった。」とある。
参考のために当時の音羽町の河村商店の真向かいには車製造業の太田商店、隣接する場所には、酒醤油販売業の生駒商店、酒造業の菅谷合名会社、酒雑貨商の高田合名会社、活版業の龍商店などが、疎らに点在し、それらが全て全焼していた。 それらの業者に対する河村商店の賠償責任や、財務状況は、今では確認することができないが、火災発生後、四ヶ月間の俚に工場を再建することができたのは、果たして可能であったのであろうか?神業に近い俊敏さであると共に多少の疑問も感じてくるのである。
ともあれ、明治末年の新川町は、雑草の繁った荒野原で、当時、小学校は、殆ど西部にあったので、小学校の運動会や、低学年の遠足によい場所であった。
又、新川の堤防には美しい松林があり、厳冬には長い直線コースをスケートをしている子供達を時々見ることができるような場所であった。 丸村河村商店の移転した新川町三〇九番地は、後に町名が千歳町と変わるのであるが、当時は、松風町の成田山別院から先は家が疎らで、今の千歳町電停前付近に、ポツンと明治三十三年に出来た函館慈恵院だけがあった。これは今の中央病院の前身である。この土地は、函館の中でも人里離れた土地であったのだ。ついでながら、河村商店の移転した新川町三〇九番地一帯の土地所有者は横浜の左右町銀行であり、大正期、差配人は中田善七であった。差配人とは所有者に代わって、貸家、貨地、を管理する人の意であり、この中田善七が以後の河村商店と深い繋がりを持つことになる。
この年、即ち、明治四十五年七月三十日、明治天皇が崩御せられ、皇太子が践祚し、大正と改元された。前年、朋治四十四年八月二十日、皇太子殿下、(大正天皇)は、北海道行啓の第一歩を函館に記している。 顧みて、明治とはどんな時代であったのか。明治という時代は、西洋に較べて百年以上も遅れていた日本が、政治、経済に於いて、一挙に、その遅れを取り戻そうとして我武者羅に突き進んだ時代であった。文明開化の名の下に、西洋から輸入される文化。それに伴って大都市を中心に人々の生活の姿が大きく変わって行く。自由平等を旗印に憲法が制定され、次第に国民が主権を持つ議会政治がスタートしたのであった。そして、近代産業の目覚ましい発達により、国力は次第に充実し、日清、日露の戦争の勝利は日本の実力を世界に知らしめる結果となった。国を思い、、家を思い、己自信を思う、貧しくはあったが、意思堅固で質実剛健な日本国民が存在していたのである。日本の基礎固めの時代であり、司馬遼太郎の描く「坂の上の雲」を目指す日本の青春の時代であった。
この明治の時代から、少年源二郎は何を学び、何を体得したのであろうか。
新十津川時代には「開拓の辛苦」に出会い、函館では「商人しての基礎」と、「人と人との交わり」を学び始めていたと言って良いであろう。母とは何か。愛とは何かを知り始めていたと言っても良いだろう。何時の時代でも通じる人としての心掛け、例えば、何かに情熱をぶつけたり、目標を定めて努力をしたり、思いやりの心を持ったり、自らの信念に生きたりするという、ごく当たり前の感覚と、社会情勢を適格に判断する能力を、周囲の環境の中から学び始めていたと言ってよい。それは天性のものであったのかもしれない。
それは明治の倫理感にも繋がるものであった。 大正二年三月、十三歳で、源二郎は小学校、おそらくは、東川尋常小学校を卒業する。同時に、源二郎は、函館市新川町に建設した丸村河村商店の製綿工場に付設された河村家の住宅に河村家の家族と合流し、工場の下働きとして再出発することになった。
源二郎、叩き上げとしての出発であった。(現在、千歳町には当時の住宅が残存し、当時の面影をしのぶことが出来る。)工場長は織右工門の近親である河村高治であった。
合流する前日、エノは源二郎に言った。
「大将にお前の全てを任せたのだから、お前も奉公を第一に仕えてくれ。奉公するということがどんなことか覚えてくれ。ねばり強く、辛抱強く生きてくれ。」と言った。
そのことが母が子に与えた最後の言葉になる。その日が最後となり、エノは、源二郎と河村家の前から姿を消すことになる。
西村エノは何故、この時を最後に河村家や源二郎から消え去ってしまったのであろうか。狭い函館のなかで、エノの動静は絶えず知り得たはずである。要するに消え去っては居ないのである。周囲の環境が消え去らしたと言っても過言ではない。 「さわらぬ神にたたりなし」なのである。関係しなければ災いを招かないのである。それは明らかに周囲の偽善であった。
そうだとすれば、エノ自身の人格に何等かの欠落があったのであろうか。しかし、エノ自身に対する責め言葉を超えて、明治の女性の悲劇性を筆者は強く感じてならないのである。世の正道を歩む人々にとって、エノは、犠牲を伴った神話の世界で生きる一女性であったのかもしれない。 そして、ここでは、多少の見解の相違はあるが、西村康之氏の。時空遊悠浪漫”を”再び引用することにより、いつか、真実が発掘されるまでの、一応の纏めとして、西村エノという明治の開拓期を生きた、強い性の女性と別れようと思うのである。
「源二郎の生母は西村エノと言い、八代目河村織右工門のスエ夫人と遠縁で雪の凍る新十津川より船で函館にやってきたのである。西村エノと言う女性像は、戸籍に現れて来ない、いわゆる、正妻ではない女性なので、謎に包まれたまま、封印されているが、河村製綿場で働かなかったこと、西村源蔵の死後2年後に函館で再婚したこと、源二郎が仇の子と呼ばれていたこと、源二郎が吾が子にさえ生母のことを語らなかった事、河村家、明石家が口を濁していること等を総合して憶測すると、西村エノは福井県鯖江市より親戚の河村スエより以前に北海道新十津川に移住してきたが、河村家の生業に馴染まない、情熱家で、飲食業を営むタイプの独立志向の強い、肌合いの異なる女性像か浮かんでくるのである。…」 西村康之氏の表現にも理解し難い曖昧さが感じられてならないが、これは親近者としての精一杯の表現であろう。
函館商工案内 大正四年 |
函館商工案内 大正四年 |
新川町電車車庫 大正二年 北大北方資料室 |
河村製綿工場 |
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