第二部 立志篇  コドモ印製綿所とその時代

第三章 海の意志

 



 

大正四年十二月、河村定一は、一年志願兵としての隊務を終え、旭川師団野砲連隊を除隊した。短期間の入隊ではあったが、初めての軍隊経験は定一を一回り大きな人物に変えていた。織右工門の定一に対する信頼と期待は大きいものがあった。定一も、この期待に応え、努力研讃し、この年以降、事業推進の中心になって行く。
 一方、源二郎も定一の留守中、定一の補充として与えられた仕事を誤りなく処理すると共に、仕事の内容も確実に覚え、織右工門の期待に応えられるようになっていた。小学校時代、快活で、クラスのリーダーマンで、どちらかと言えば腕白であった源二郎は、その頃は、うって変わって、大きな声を立てることもせず、他人の話しを黙って聞きながら、何時も何かを考えている頭の良い少年に変わっていた。 源二郎は、与えられた帳場の仕事に精を出しながらも、勉強をしたい。上の学校に行きたいという願望を捨てきれずにいたが、その度ごとに、「大将に全てを任せたのだから、お前も奉公第一に仕えてくれ・・・」と言う母、エノの言葉を思い出し、その願望を、きっぱりと打ち消していた。

 一方、第一次世界大戦中ではあったが、製綿業界は次第に好況に向かいつつあった。河村製綿工場もまた例外でなく、いよいよ事業は活況を呈しつつあった。 その矢先、河村製綿工場は、またもや火災を惹き起こすことになる。よくよく河村製綿工場は火災という魔物に取り憑かれたものである。 長じて源二郎が、時に、「治に居て乱を忘れず」という格言を例示し、「非常時対策」に意を注いだのは、度重なる火災を経験した貴重な事実があったからであろう。 

粉雪降り、北西の風が吹き付ける大正五年一月二十五日午後八時四十分頃、工場と居宅の間にある荷造室の附近から出火し、約一時間の間に、主たる工場五棟と居宅を焼き尽くした。 その間の火災の状況を大正五年一月廿六日(水曜日)付発行の函館新聞夕刊は三段抜きの見出しで次のように報じている。  「今日は何の日」ではないが、其の時の状況を、長くはなるが引用することとする。    

           ▲河村製綿工場を焼く  
           ▲人出多く廓内賑わう 
 
火防の設備稍完成すると共に、舊遊園地に火の見櫓成りて、本月六日の消防式の際、各消防署の警鐘打鳴らしたる外

舊臘ボヤさえなく区民は枕を高くして眠り居た折柄、昨二十五日午後八時四十分、多少の雪に寒気を加えたることとて、人々外出もせず、各囲炉裡のほとり暖を取り、地震のありたるなど噂せる戸外の外に「火事よ」と人の叫べる声にっれ 、遊園地の方に当たりて警鐘の響きあり。 
          ▲大森町遊廓方面  
 久しく火事沙汰なく、人々いずれ安堵の胸撫居たるに北西の風寒く戸の隙間を漏れきたるを厭うと云ふ風に、火事よ火事よと叫けび立つ声々に戸外に出づれば頬を千切らんとす誕 る雪風を背として、遥かに火の手を眺むれば、大森遊廓方面に、焔高く立ち昇りて、臥牛山にその紅の色を映し、まだ宵の事とて人々は宙を飛び、若しくは電車に飛び乗りて東へ東へと続きぬ。       
            ▲火元は新川町  
 発火の時刻は、八時四十分頃にて、病中と云える菅署長は綱引き、後押の車上に宙を飛び、蒸気ポンプ凄しき火を吐いて走り行く往来に火を織るが如く、満員の電車に、只乗りも多く、夫々現場近くに至れば、火元は新川町、三百〇九番地にて、鶴岡町の九、蒲團屋河村織右衛門氏の製綿工場なりしが、不幸中の幸か、風は大森海岸に吹ききし事なれば他へ延焼の憂いなく同工場五棟及居宅一棟、此総坪数二百三十三坪を焼き、同九時二十分各消防の尽力に依りて鎮火するを得たり。     
           ▲三度目の火元  
 面白半分に駆けっけし人々は鎮火を見るや、廓内に辿り入り、もう大丈夫、若し焼けることかあれば俺がついて居る。お前の身難は俺が背負って遺ると笑い崩れる勘からぎりしが、夫に引きかえて、火元の河村方は、先年、音羽町に在て火を失し、町民の声に逐はれて大縄町に移りて、又火を失し、斯て現在の新川町に工場を新築して三度目の火を失せるは不注意千万なり。     
            ▲電話通ぜず  
 同工場は女工七十名、男工三十名を有しつつモーターを用いて製綿し居るが、出火の当日は午後五時四十分頃仕事を終れる人々にはいずれも帰宅し、前方の居宅は所有主織右衛門の長女まっゑ(二〇)次女なっゑ(一八)の両名のみ留守し居たりしが八時四十分頃、工場の方に当たって唯ならぬ物音を聞きし長女まっゑは境となれる扉を排し何事ならんと駆け着けんとせしが、もう々たる煙の侵入し来るにスワ火事よと呼び立て、電話にて急を本店に告げんとしたれど狼狽し居る事とて少しも通ぜず、止む無く戸外に駆け出して、火事よ火事よと附近の人々の救いを求め漸くにして箪笥その他の家具を運び出せり。      
             ▲製綿機の摩擦か  
 其筋の調査に依れば出火の個所は機械設備の場所と居宅との間なる休憩所、並びに荷造の用に供し居る室らしけれど、同所は常に火気の全く存せざる処なれば、原因は、詳びゃかならずと。又、聞く処に依れば同日工業中に製綿機の摩擦により火を発し綿に移りて大事に至らんとせし事もありたりと言えば、或は工場よりの出火ならずやと。同夜の風は、西方の風にして火焔は濱辺に傾きたれば幸に延焼なかりしも同工場の右手には函館燐寸工場あり、前方には通りを挟みて新川小学校に軒続きなる家あれば万一東風にてもあらんには一大事を惹き起こすべかりし。     
            ▲損害   
出火の発見は、同工場が全部トタン屋根なれば火の内部に充分廻りたる後、火の手は漸く上り来たるものにして、同夜第三部消防組は、松山巡査部長の訓話ありて、全員集合し居り、急を知るや逸早く駆け着けたるも事既に及ばざる迄火は燃え拡がり居りしなり。 其筋の調査によれば損害の価額は建物、五百圓、工場三千圓、其の他機械類九千二百圓、合計約一万二、三千圓ならんと。

 続いて一月廿七日夕刊には「火災の原因不明」なるを報じ、廿九日夕刊には、
「好ましからぬ名物、綿屋火事、 ■呪われた綿屋■ また立ち退きか」と、
辛辣な内容で報じてい、 ここでは「過去の数度の失火により立ち退きを繰り返していること」「この火事により、近所の妊婦が心臓麻庫で死亡したこと」河村氏が「何で斯迄に俺は火に呪われているのか」と言ったことや、「河村氏が平生頗る傲慢で、職工に恨まれていたこと。河村氏が、平素無情の振舞いにより益々悪評を高めていること。」「今後再び失態を演じられる様な事があっては大いに新川町の不名誉であると、寄々同工場の再建築を拒むべく町民中の有志間で協議されて居ることなどが記されている。
この時、織右工門は病中にあったが、ドテラ姿で駆け付けた織右工門を群衆は冷ややかな目で見つめている。


 そして、この函館新聞の公機性の無い報道からは、見舞いや同情の言葉は殆ど無く、河村製綿工場を代表する織右工門に対する罵声のみが聞こえてくるのである。商いに徹した織右工門の言語や動作を理解出来ぬ族(やから)が多く存在していたのである。 

この時、製綿工場と居宅は全焼したのであるが、幸、原棉倉庫と、原棉の貯蔵に使用していた貸家二棟は類焼せず原棉全部がこの災難から逃れることが出来ていた。 火事を知り駆け付け、消化のために働いた幹部が居たからで、その中でも、定一や源二郎の活躍は一際目立った。居宅に保管されていた歴代の重要書類は二人の働きにより焼失を逃れていた。特に、原棉が焼失から逃れたことが、その後の操業を早める結果にもなったのである。

 更に幸であったことは風向きも強く水利も良くなかったにも拘らず、燐寸工場や木工所への類焼を防いだことであった。
このような苦境の中で「事業を直ちに継続するために、工場の再建に着手しようとしたのであるが、地元民二百十余名の猛烈な反対に遭った。彼等は連判状を地主に提出し、工場として、土地が使用されることを拒否した」
 当時の差配は中田善七であり、その後の中田家の先代にあたっていた。中田善七については次のような話しが「函館のうつりかわり」に出て来て、その人となりの一端が伺える 。「中田さんは、新川町の一部と高森の一部にわたり広大な土地を持つ横浜の左右町銀行の差配をしていたが、この両町の発展のために、骨を折って、新川町から同町へ橋を架けることになり、十一月中旬に竣工するとのことである。又、中田さんは、貧民部落救済と、次第に貧民を少なくするために、財団法人函館無料宿泊所の敷地を提供し、十一月三日には竣工の予定である」とある。この記事から推測し、新川町方面の土地の賃借りに大きな力を有していたのは中田善七その人であり、以後の河村製綿工場の土地政策と深い繋りを持つことになるのである。 

この中田善七の仲介を得て、「強硬な地元民と数回の交渉を重ね、漸く条件付で、話し合いがまとまり、工場の再建に着手することが出来るのである。」 
 あの火災現場で織右工門が  
「ナーニー萬圓で直ちに再築が出来る。」
と、えらい元気で発言し、周囲の顰蹙を買ったと、新聞記事に出ているが、その言葉の通り再建が実現するのである。
 その難関に怯まぬ強気な自信が工場を支えて来たのであった。  
苦境から立ち上がり建物が再築され、操業を開始し、生産も順調に進み始めたその時、今度は、河村商店鶴岡町販売部が函館大火の災禍に遭うのである。 

大正五年八月二日午後三時五十分、旭町百四十番地、函館白玉製造所から出火し、旭町、、栄町、地蔵町、鶴岡町、音羽町、西川町、真砂町、汐止町、の八ヶ町を焼き尽くすのである。 
大正五年八月三日付の函館新聞夕刊は、次のように報じている。
 
      火・一十年自の大火      
 △猛火に崇らるる函館
△八月といふ月は函館を呪ふ
△而かも十年前は八月廿五日、今度は二日
土用に入りて以来雨らしき雨来らず殊に数日前の炎天打ち続きて各家屋の乾燥一と方ならねば各町内にては夫々火防に対する注意を与へ夜警番も注意怠りなかりしが、昨二日午後三時五十五分ケタタマしき警鐘は区民の午睡の夢破りて全焼約千九百戸に達し八ケ町に亘り火の海と化しアハヤ函館区全体を烏有に帰すべき勢ひを呈したる事とて漸く鎮火を見るに至るは、八時三十八分迄約四時間区民は、火と戦へり
      ▲火元は製粉所
発火当時は俗に『下東風』と称して汐首方面より吹き居たれど僅かに四米突内外の微力なりしも千九百に近き類焼者を出せる火元は旭町百四十番地函館白玉製造所なる乾燥室にして、折柄断水中の事とてスワ火事よと叫び立て消火に努めしもその甲斐なかりしは発火に先立ち附近の人々が危険を認め注意を促したるを密かに揉み消さんとして近来希に見る大惨事を演出するに至りしは返す返すも遺憾也 
      ▲焼失戸数と町
火元附近は栄町、音羽町の事なれば労働者多く住める棟割長屋の男女は濱稼其他出でておらず留守せる老幼の悲鳴を挙げて家具を取出ださんとする光景目も当らず中には腰も立て得ざる病者あり、九十に近き高齢者ありて泣き叫べど怒りに怒れる火の手は羽目板を紙を焼くよりも速やかにして瞬間に火の手を拡め猛威を逞しうせる結果約千九百の類焼戸数は旭町五百二十五戸▲栄町百九十一戸▲地蔵町二十九戸▲鶴岡町二百五十三戸(百三十六棟)半焼二棟二戸………なるが尚調査未定なれど  
      ▲前月来日和続き
前月はあたかも濃霧季節なれば上中旬は曇天多かりしも降雨少く殊に下旬二十二三日の小雨前後は全く快晴の日和続きにて、加うるに十数年来嘗って無き高温度なりしを以って乾燥に乾燥したる上のことなれば此意外なる大惨事を呈せるに至れるものの如し。
 
函館新聞は大火の模様を詳細に報じているが、ここではそれを省略するが、鶴岡町十番地に所在していた河村商店鶴岡町販売部は、焼失せる区域の中に確実に入って居た。 「……鶴岡町は、四十七番地から五十九番地まで五十番地から五十二番地まで六十二番地から七十二番地まで及び十五番地から二十三番地まで十二番地から十四番地まで一番地から十一番地までの両側を焼きとある。  この俗称、白玉大火により、鶴岡町販売部は類焼の憂き目をみるのだが、火災の進行を素早く察知した河村定一を中心とする幹部の働きにより二商品、家財の大部分を搬出し、被害を最低限に食い止めていた。思うに、度重なる火災の体験が、この非常時に生かされたのかもしれない。工場と販売部を併せて、三萬圓の損害であった。 しかし、何時の場合でも河村商店の立ち直りの(再建の)早いのには驚嘆する。それは、一般の常識を遥かに越える程早いのである。しかし、それが事実なのである。織右工門、及び幹部の凄腕振りが忍ばれてくる。 
この時も工場にあっては、火災の前科を重ねた河村製綿工場に対する地元民の猛烈な反対を押し切ると同時に、差配。中田善七との数度の折衝を重ね、火災の翌月である二月には工場の建設に着手し、三月には古綿機、四月には夜具綿機、五月には半綿機、を導入するように活動を再開して行くのである。又、鶴岡町販売部は、鶴岡町六四の加藤呉服店の貸家を借り営業を開始する。
 
この火災のあった大正五年から大正七年(一九一八年)にかけて工場の事業は、ますます急速に伸び、前途はいよいよ有望で、製綿高、及び布団、蚊帳の販売高に於いて北海道随一の確固たる地位を築くことになるのである。丸村河村製綿工場の第二期向上発展時代と言われている。火災が幸したのであろうか。考えさせられるものがある。 函館市史(通説篇3)は次ぎのように記す。
 「このうち、成長の著しい丸村河村製綿所では明治四十三年の職工数十人、蒸気三馬力が、。大正八年には、職工数九十一人(うち女子七十人)、電動力四十馬力に達している。そして生産額は九千円か三十四万二千円と高い成長である。大正六年では原料古綿は一貫七十銭位であり、これを打ち直しすると、一貫九十五銭で販売できるが、一人、一日二貫しか出来ない。それが機械を入れると一日、十五貫できるのが実態だった。」とある。 市史は、大正期までを概観したものだが、機械による改革がその生産量を増加させたことを暗に説明しているのである。実際、火災後に設備された機械は、カード機四台、舞切機十台、古綿機六台であった。
 このように河村製綿工場は、災害後、いち早く立ち直り繁栄の道を辿るのだが、これも災害後の経営者の超人的な折衝と、決断によるものであり、織右工門その他の幹部の凄腕ぶりが忍ばれてくるのである。 
この時期、工場においては、一層、機械の改良と、新設に意を注いでいた。
 一、両面機の採用 
二、ミシン機に動力台を採用 
三、カード機の改善、
などが主なものであったが、それは、従来の生産量を倍加させる製造力の増強に繋って行った。
 特にこの場合、注意を払わねばならないのは、ミシン機の改良であった。工場では、創業の頃から、布団縫いの為に、工業用の足踏みミシンを使用していたのだが、縫うことの迅速化の為に、更に、動力台、二台を新設したことである。 源二郎がミシンに関心を深めるのは未だ先の事であるが、少なくとも、この頃から源二郎のミシンに対する接触は始まっていたと見るべきである。その環境が整っていたと思われる。
 
そもそも、ミシンが、わが国に於いて、初めてお目見えしたのは万延元年(一八六十年)、徳川家茂の時代で、わが国初の訪米使節団に加わった通訳、名浜万次郎が持ち帰ったものが最初と言われているが、一説には、安政年間、アメリカのウイラーウイルソン社から、、同社製の新式ミシンが将軍家に献上されたのをもって嗜失(こうし)とする。  そして、衣服の洋風化が進むにつれて、ミシンが家庭における必需品となるのは、最早時間の問題であったし、同時に、日本の繊維工場に於いては工業用ミシンは欠くべからざるものになりつつあったのである。この市場の動きを察知したのがシンガーミシンであった。明治三十三年に、横浜に市場席巻の拠点を築いたのである。河村製綿工場に於いても織右工門や工場責任者の大阪、東京方面の業界視察の折りに、ミシン使用の現場を見、その重要性を認識しつつあったのである。
 工場では使用していたシンガーミシンのレベルアップを、その視察を機に着手し、当然の如く、この導入は、生産性向上のI且を担ったのであった。 

次ぎに源二郎に与えられた仕事は、寮の管理であり、初めて経験する人の管理であった。「従来、工場は主として壮年者を弁当持ちで雇用していた。しかし、労働能率の向上のためには年少者を使用する方が、能率的であり、また彼等を工場の住宅内に居住させる方が断然能率上良かった。」いわゆる独身制に着目し。これを実施に移したのである。 この時期、各地に於いて労働運動が盛んに行われ、一方、労働者保護の名の下に、大正五年には工場法が施行されていた。そして河村製綿工場に於いても勤務者の待遇改善が人事上の課題になっていたのである。 
この独身寮の建設については、織右工門が決定を下したのであるが、それまでに、源二郎が、時に定一に対して、それとなく若い人材の必要性を示唆していたのである。源二郎は十七歳になり(大正六年)、それなりの経営的考えを持つようになっていた。  
「兄さん・・」
 源二郎は普段、定一をそう呼び、定一は源二郎を対外的に「弟」と呼んでいた。 
 「若い職工が少ないと思いませんか・・」と言った。
定一は、そう突然言う源二郎を目を丸くして見つめた。定一自身も考えていた事であったが、源二郎が言うとは思ってもいなかった。 
 「これからは若さが必要だと思う・…呼び掛ければ、きっと集まってきますよ・…若い力で工場を盛り立ててみたい・・」
=みたい=と言う願望は、不遜と思える程の権限を逸脱した言葉であった。
  「みんな大人で、所帯者だからなあー」
と定一はそう言って相槌を打ったが、工場の職工の主流を壮年者が占めていることは事実であった。 
 「親父に話してみるよ。源、心配してくれて有難う。」
と定一は言った。 
それから間も無くしてから独身寮建設が発表された。織右工門の決断であった。若者を集め、工場の中核に育てることを目的として建てられるものであった。 大正六年の秋、河村製綿工場の独身寮は竣工した。
大層な建物ではなかったが、四畳半の個室が十室程ある二階建の建物であった。源二郎がその寮の責任者に指名され、入口の側の管理人室に
大正12年頃の男子社員  
大正12年頃の男子社員
河村家の家族と放れ、引越ししたのは大正七年の初めであった。そして四月を目指し寮生の募集が行われた。
 後日、その頃の事を思いだし、寮生活を経験した男女の従業員達は、一様に 
「寮生活が懐かしい。」
と口を揃えた。
男女合わせて十五人位で、いずれも十五歳から十八歳位の、源二郎と同年輩の若者であった。女子の職工の見習もいたが統制がとれ、大きな問題は生じなかった。

午前五時、責任者である源二郎の合図で寮生が寮の前の通路に整列する。冬は寮の廊下に整列した。初めは普段着のままで、中にはドテラを着て集まる者、寝ぼけ顔の者もいて 、仮装行列のようであった。点呼が始まり、遅れるとそれ相応の罰が課せられ、工場の当直などが割当てられたりした。源二郎が、それぞれの服装を注意してから、それぞれの仕事着で集合するようになった。同年輩でありながら源二郎は人を魅きつける力を持っていた。点呼が終わると源二郎が先頭に立ち工場と寮の前を全員で清掃。冬は積もった雪掻きが主な仕事であった。そして、掃除が終わらないと朝食にありつけなかった。寮生は寮の食堂で食事をしたが、時には、河村家の家族と一緒に工場の食堂で食事をすることもあった。当時の労働時間は、午前五時、工場が開門され、五時四十分に、その日の係が機械に油を差し、六時の鐘を合図に機械の運転が開始され、午後六時で休転することになっていた。。従って工員は、六時前後の出勤となるので、寮生の朝食を含めての朝の活動は目まぐるしいものであった。
 しかし、時間の厳しさはあったが、休息時間もあり、工賃もそれなりに水準を上回っていた。工場の設備や福利も、火災を機に改善され、次第に河村製綿工場は近代化に向け脱皮しつつあった。
 夜、食事が終わって、寮生がくつろいでいると、源二郎がやってきて、寮生達の中に入ってくる。今日一日の事。身の回りの話。業界の話など、優しく話し合うのが常で、それを、寮生は「河村の寮会議」と呼んでいた。  「真面目で、思慮があり、忍耐強く、正直なら、それは君達にも出来るよ。良い商品が沢山揃い、それを安く売れば、綿や、布団は金高が張るから利益を出しやすく有利なんだ 。必ず〇村 は、全国的に伸び、大きな会社になると思う。どうだみんな……」
これが十八歳の青年の言葉かと寮生は夢物語のように聞いていた。十八歳の青年が、その夢を実現するとは思はれなかったが、意気軒昂で、凛とした源二郎の意思だけは寮生に伝わっていた。 
源二郎は、いつもは人に接する態度や姿勢に厳しかったが、寮生と話を交わす時は寮生が足を投げ出し、腕枕で体を横たえていても何も言わなかった。 
 「いま思うと、あれは寮生に話すというより、自分に言い聞かせながら構想を確認するための時間であったのかもしれない……。」
と後日源二郎は語っている。 

大正12年頃の女工さん  
大正12年頃の女工
夜、十時過ぎ、原棉を積んだ馬車が工場に到達する。源二郎は若い寮生を引き連れて工場に行き、検品と定価付けを始める。工場の作業場は夜中の一時二時まで明りが灯っていることもあった。 時には、出張販売に出掛けた販売店員が夜遅く帰って来ることもあり、源二郎は、そんな社員を寮に案内し、飲物を出し、仕事の疲れを慰してやるのだった。 
 「寮生活が懐かしい・・・」  
と寮生活を経験した店員が後日、口を揃えて言ったのは、それぞれの青春の一時期、喜びや悲しみを伴った共同生活が、その個人にとって貴重な体験になったからであり、その陰に西村源二郎という、かけがいのない若い指導者が居たからであった。 
当時の工場の構成は、女工五十二名、男工十八名、大工七名、鍛治工二名、掃除係一名荷造り一名、雑役夫一名、馬車追一名、夜警一名 計八十四名の人員構成であり、その中に源二郎と寮生も含まれていたのである。  
しかし、その頃から何故か 「自分も勉強をしなくては…」【勉強をしたい…】という予想外の欲求が心の底から湧き出てくるのを意識するようになっていた。
勉強とは源二郎の場合、中学校、高等学校で学ぶ平常の知識取得を意味していた。周囲の人々に対等に接する知力は備わっていたが、それ以上の知力を求めていた。それは又、己ひとりの力で切り開く道なのであった。意識を仕出し始めてから時々新聞の広告欄に掲載される早稲田大学出販部より出されている通信講座の内容に目を通すようになっていた。
それは次ぎのような広告であった

 

  経営三十有余年=通信教育界の権威


  早稲田大学講義録
 総長大隈侯より優美なるメダル贈与其の他特典多大
 ▲小学卒業後自宅で中学入校同様の学力が得られる日本一独学機関


    中学講義

          =第一号出ず=速に入学せよ!

  商業講義
 ▲商業大発展の今日!・立身成功の指導者は是れ 
   政治経済科、法律科、文学科 
   葉書にて申込次第各科見本附規則書直ちに送呈すべし
   申込書 東京牛込早稲田  
   早稲田大学出版部 電話番号  三三二 
                        四七四 
 

それから間も無く、意を決して、源二郎は早稲田大学出版部に、受講申込みの葉書を送り、その年、大正七年の四月から、商業講義の【政治経済科】の通信教育を受け始めたのである。大きい悦びの勉学であった。どの科目も初めて接するので困難なものであったが、それにしても源二郎の理解力は早かった。平常の勤務を終えた夜が源二郎の勉学の時で、寮の粗末な机に向かった。新たなる源二郎の闘いの始まりであった。
 
 
大正七年(一九十八年)六月二十五日、河村定一は、函館区末廣町扶桑軒、鈴木岩三郎氏長女綾子と結婚式を挙げた。定一、二十五歳の初夏であった。 
河村家にとって一際多忙な年であり、多忙な月であった。源二郎は、定一の見合いの話は、それとなく、姉妹から聞いていた。
  
 
「格式のある家柄と結びつくのだから大変なことだ。」と思ったりもした。一方で、河村家によって育てられた十一年の年月を思った。流れて行くような年月であったが、着実に生きて来た十一年でもあった。式の前日、工場の庭で、 
「兄さん、おめでとう。幸せにね…これは私の気持ちです。」
と言って祝儀の袋を差し出した。源二郎が、心して蓄えていた貯蓄の中から引き出した金銭だった。
 「これ・・源、お前が・・」
定一は驚いて源二郎を凝視した。源二郎は一寸微笑して
 「これからも兄さん。よろしく…」と言って頭を下げた。
源二郎は、常に自身を卑下することも、へりくだることもなく、堂々と生きて来たのだが、この場合、自然に、素直に頭を下げていた。 
「これからは、自分は責任が重くなるが、源、よろしく頼む・・・。」
と定一は言い。手を差し出した。源二郎はそれを堅く握った。 
 
定一と綾子が結ばれてからニケ月後の八月の中頃、丁度、その日は、休日で、函館八幡宮の例大祭の日で町が賑わっていた時であったが、寮の源二郎の部屋に河村スエヲが、ひょっこり顔を出した。
 スエヲは、その年、十七歳になっていた。平常、源二郎が河村家の子女の中で気軽に話せるのはスエヲであり、スエヲは、気強くはあったが、それを決して表面に出さぬ優しさを持ち。顔立ちも平凡ではあったが、育ちの良さを伺えるものを持っていた。スエヲは、その時、山の手の女学校に通う身であった。 
 「源ちゃん、海に行こうよ。」
と源二郎に言った。 
「海?」 
 「そうよ。大森浜に」
工場から新川の土手添いの松林の中を十五分位歩き、砂山を越えると海であった。源二郎はそれまで、近い所に居りながら、その海に行ったことはなかった。海に囲まれた函館の、太平洋に面しているその荒海を、まだ見ていなかったのである。 
 「こんな格好でいいの・・」
源二郎は工場の作業服を着ていたので、素早く軽快なシャツに着替えた。スエヲは浴衣姿であった。 
 「急に海が見たくなったの。姉ちゃん達はお祭りに行った。私は海の方が良いの。」
と言い源二郎を見て微笑んだ。 
晴れた夏の日の午後であったが、涼風の立つ秋の日を感じさせる日でもあった。二人は、松林の小道を海に向かってゆっくりと歩いて行った。焦げ茶色をした濱防風や、赤や黄のはまなすの花が所々に咲く白い砂山を越えると大森の浜であった。
 陽は強く照り、空には雲一つなく、青い空が果てなく展かっていた。砂山の上に立って遠く見渡せば、右手は臥牛山の麓が続き、その先端は立待の岬であった。左手は湯の川、恵山の岬が続き、対岸は青森の大間崎の島影であった。遥か水平線を五、六艘の漁船が走っている。それが藍色の波間に見え隠れしていた。これが地図の中の津軽海峡の一部であったが、太平洋から寄せる土用の荒波は間断なく荒磯に砕け散り、白い飛沫を上げていた。 源二郎は未だ、函館の港しか見ていなかった。近いようで遠い大森の浜であった。浜に簾張りの小屋が一軒立っている。真夏には海水浴場の一部として使っていた小屋であった。今は人影も少なく静かであった。スエヲと源二郎は渚ずたいに、その小屋まで歩き、長い椅子の上に座った。
 スエオが何故、源二郎を海に誘ったのか判然としなかったが、今、この海を見詰め、海の向こうにある何か得体の知れぬ夢のようなものが沸々と湧き起こって来ていた。  スエヲも海を見詰めていた。姉達が祭りに出掛けて行き、独り残された空虚感が源二郎を誘い出した結果になったのだが、不思議に何の拘りも感じていなかった。 
姉のうち、長女のマツェは大正二年十八歳で紀太惟修と結婚し、同じ工場内で所帯を構えていた。紀太は、鶴岡町店の責任者をしていた。次女のナツェは、その年、二十歳で、後年、新川町に設立する販売店の責任者となる鈴木繁延と交際中であり、スエヲだけが、浮いた噂など一つもない独り身であった。 その時のスエヲは、ただ砂山に咲く花を見、渚を歩きながら、夏の海を見たかっただけなのであった。 
函館大森浜
現在の大森浜  
 「源ちゃん。この海を見るのは初めてでしょう。こんなに近い海なのに・…源ちゃんは仕事が好きなようだから。よそ見も、遊びもせず頑張ってきた源ちゃん…。でも大変だったよね。」
 一部始終を知っているスエヲに、そう言われ、生まれて初めて、人様から励ましの言葉をかけられたような気が源二郎にはした。実際、脇目も振らずに生きてきた河村家の十一年間だった。そして、これからも走り続けて行かねばならない自分自身を意識していたのだが・…   
「辛いことばかりで大変だったよねえ…」続けてスエヲに、そう言われて、源二郎は、ただ頷き、目を閉じた。海鳴りが耳の底に聞こえた。瞬間、新十津川や、滝川の家の事や、開拓地の景色や、父や母の姿が、脳裏に映った。続けて、  
「源ちゃんは海に似ている。」と、何気なく呟くようにスエヲが言った時、源二郎は、目を見開き、スエヲまじまじと見た。スエヲの言葉を明確に理解するのは、先の事なのだが、そう言われて、  
 
「私は大将や、兄さんから、今、商いの道を教えられいる。ただひたすら、商いとは何かを知る毎日なのです。私はこの教えを決して無駄にしない積もりです・…」と、そう言った。
生真面目な源二郎の受け応えであった。
 それからスエヲは、最近の河村家の出来事や、たびたび出会った火災の事などを話したのだが、
 「源ちゃんは海に似ている・・」
と言ったスエヲの言葉は源二郎の心にとりわけ強く響き、長く尾を引くことになる。日常の河村家の暮らしや、工場勤務の中で、垣間見られる源二郎の人柄の大きさ、暖かさのある大きな抱擁力など、将来、源二郎が海のような大きな器(うつわ)に成長することをスエヲは予感し、期待し、そう言ったのかもしれなかった。
 
 海・・・・・・。変わることなく悠久の姿を保ち続ける海。この砂濱から初めて見る海。まこと海の様相は心をそそり、飽きることのない眺めであった。
 波のうねり。光のきらめき。吹き付ける潮風。
あくせくとした日常の煩労の中にある源二郎が、何故か今、大きな自然という哲学に出会ったような気がしていた。
 海とは何か 
海は様々な様相を持っている。 
人は、それぞれの思いを好きなように、この海から汲み取ることが出来る。
それだけ海は大きく広い抱擁力のあることを人に暗示しているのだ。
動と不動。
絶え間のない変化と、常に自己同一を保って変わることのない恒常性
生の歓喜と死の恐怖。
自然と宇宙の広大さ。
海の生気は人に大いなる活力を与え、人の心を解き放つ。
海を前にして人は自由であり、また不自由にもなる。
 
この時を境にして源二郎の海の哲学が始まり、その詳細は第三部「波濤篇」にて記すこととするが、後年、源二郎は「海」を「太洋」に換え、人としての生きる道を表現した。いわゆる「太洋学会綱領」であり、「太洋精神」である。そこでは、「愛と平和」「活力」 「刻苦研鑽」「思想の調和」等を謳い、海が象徴する自然の偉大さを源二郎自身の哲学に換えたのである。 
そして、この時が源二郎の思想の萌芽の始まりの時でもあった。 
 
日暮れ近く、スエヲと源二郎は砂山から渚づたいを歩き、再び砂山を越えて松風町に出た。祭りの囃しが流れ、停車場に通ずる大門通りに、八幡宮の御輿の行列が長く続き、その間隙を花電車が走り、それを見る着飾った男女で大門通りは大いに賑わっていた。 通りは、至る処、献燈で彩られ、店頭に、幔幕を打ちめぐらし、金屏風を立てている商店もあった。八幡宮の御輿の他に、樽御輿が威勢の良い幇間連中にもまれていた。又、停車場の広場には、青森仕立てのネプタの舞台が出来ていて、若い男女が輪になって踊っていた。活動写真館や巴座の大歌舞伎も今日だけは大入りであった。
 燃えた音羽町の、かっての河村製綿工場の跡の近くには、棒二荻野呉服店が店を建て、明々とした灯の下に今流行の衣服が飾られ、客の出入れが激しかった。 
この様に、毎年の事ながら一年一回の函館八幡宮の祭典は近在の旧盆とも重なり、函館の町をI層活気ずかせていた。大正七年の夏の終りの日であった。
 
 
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 この時期、河村製綿工場は、小売販売にも参入していた。「火災後の痛手を一日も早く癒し、繁栄に導くためには、どうしても、小売業の必要性に着目しなければならなかった 。」と70年史には書かれている。
 ◆小売対策として、蒲団購買会を作り客層を展げた。  
 (一種の無尽であり、後年の予約販売に通じる)
 ◆鶴岡町10番地に店舗を開設し、陳列棚を設置し、福引大売出しなどを行い客を呼び寄せた。(店頭販売である。)
 ◆毎夜、区内各所で、夜店を開き、蚊帳、座布団、枕、見切反物などを販売した。(街頭宣伝販売に当たる。)
 
 
 
この頃、製綿以外に蚊帳の販売にも力を入れ始めていた。製品は特に、本場越前(福井県))より直入し、小売、卸売にてその浸透を図り、北海道地区の権利と販路を河村製綿工場が独占するほどになっていた。
 
このように、蚊帳を含めて、函館地区に於いては、各小売呉服店、卸呉服店に至るまで 、丸村製品の取扱いを浸透させると共に、道内においても日高、胆振地方を初めとし、根室、釧路の道東地区。札幌、小樽、旭川、の主要都市、江差、名寄、士別、美深など。更には当時の樺太まで、販路を拡大して行った。
 販路の拡大を可能にさせた一つの原因は、製品の秀逸さにあったと言ってよい。工場の機械改良による製品の質、量の向上にあったのである。特に判綿の改良、原綿の選択等には特に力を入れていた。
 この・ようにして度重なる災害を乗り越えて、製造、販売共に順調に推移して行った結果、製綿工場としての売上高は下記のように急激に上昇していったのである。
 
 
年度 売上高 製綿高
大正5年 130,900円 64,200貫
大正6年 190,100円 62,100貫
大正7年 298,500円 63,200貫
 
 
又、この時期、社員、工員に対する人事管理に徹底した改善が為されている。「使用人奨励法」という、利益金の新しい配分方法を規定化している。ここで決められた会社の利益配分方式は、源二郎が独立後、自社で採用した利益金の留保方法や、年功金制度(退職金制度)の一部と相似するものかおる。
 又、工場内に於ける「救済会」を発展的に解消して、新たに新年会、運動会の開催など、社員主体に運営する「親睦会」を組織化し、福利、厚生面で、社員や工員が安心して働ける環境の改善に意を尽くしたのであった。この親睦会制度も又、相似するものがある。 これらの会社経営方式の逐一を源二郎はつぶさに観察し体得して行ったのである。
そして、これらの施策そのものの中に、源二郎自身が提言したものも一、二あるような気が筆者には感じられてくるのである。 

大正七年十一月二十日、河村製綿工場は、初めて商号を「丸村」とし、函館裁判所に登録した。



 

 

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