第二部 立志篇

第四章 大正動乱

 

大正三年から大正七年にかけて、日本は激しく揺れる。激しく国家主義の道に突き進んで行く。  

大正三年・・・八月、日本軍ドイツに宣戦布告し、第一次世界大戦に参戦する。日本軍、山東省龍口に上陸。青島占領すると共に赤道以北の            
        ドイツ領南洋諸島を占領                             
大正四年・・・中国に二十一ケ条の要求。日英仏伊露五国、単独不講和宣言。東京株式市場暴騰(大戦景気)。貿易収支、出超に転ずる。
大正五年・・・大隈首相狙撃される。工場法施行。憲政会結成(総裁、加藤高明)
大正六年・・・石井・ランシング協定・(日米間の中国問題協定)
大正七年・・・日華共同防敵軍事協定締結(シベリア対策)。米価大暴騰。政府シベリアに出兵を宣言。米価高騰のため富山県に米騒動起こり
        全国に波及。原敬の政友会内閣成立(本格的政党内閣)。第一次世界大戦終わる。

         
この時代、五ヶ年の主たる政治、経済、社会の出来事を列挙したが、この間の世界的大事件は、第一次世界大戦とロシア革命であった(シベリア出兵をもたらす)。
この二つの大事件は、我が国の政治、経済に重大な影響を与える事になった。 
明治以降の我が国の政治の流れは、元老の山県有朋を中心として、軍備の拡大を進める薩摩、長州両藩出身の閥族官僚と、台頭しつつあった西園寺公望、原敬、大隈重信等の憲政擁護派との闘いであったと言える。特に軍事費の膨脹による財政難は、軍備拡大に異を唱え、制止の動きに変わりつつあった。 
しかし中国、朝鮮支配を目的とした日本軍の進出は、陸軍、海軍の双方より南満州に、二個師団の出兵と、戦艦三隻建造の強い要求となって表れ、当時の内閣を揺すぶったのである。
日露戦争後の日本経済は、軍事費拡大に伴う慢性的不況の時代であった。 第一次世界大戦は、大正三年七月二十八日に勃発し、大正七年十一月十一日に終わっている。四年と四ヶ月の戦争であった。オーストリア皇太子夫妻がセルビアの民族主義者により暗殺されたのが切っ掛けであったが、根本的には、ヨーロッパの列強の植民地獲得競争に起因していた。ドイツがバルカン半島に勢力を伸ばそうとし、イギリスはフランス、ロシアと三国協商を結び、ドイツ包囲網を進め、その阻止に当たっていたのだが・…

 第一次世界大戦が起こった時、井上馨は、「今回の欧州の大禍乱は、日本国運の発展に対する大正新時代の天佑である」と述べている。日露戦争後、それに続く新しい発展の機会を掴み得なかった日本の指導者達は、大戦は乗ずべき、またとない機会であると考えたのである。 ドイツは、膠州湾の青島を根拠地として東洋艦隊を置いていた。イギリスは、ドイツの艦船を撃破するため日本の対独参戦を求めてきたのである。 政府は(山本権兵衛内閣)「一、英国からの依頼に基ずく同盟の情誼と、二、ドイツの根拠地を東洋から一掃して国際上に、一段の地位を高め、利益を獲得するために、参戦を断行することが機宣の良策」と判断し、日本の中国に対する進出を警戒する同盟国の微妙な思惑を押し切り大正三年八月二十三日、ドイツに対して宣戦を布告したのである。
第一次世界大戦が起こると、世界経済の中心であったイギリスをはじめ、ヨーロッパ諸国の経済は一時、麻庫状態に陥った。
為替相場は混乱し、海上航路の不安と絡んで取引きは停止状態になった。ヨーロッパの主戦場から遠く離れていた日本の経済も様々な悪影響を免れなかった。ヨーロッパ向けの輸出産業は滞貨の増大、価格の低落に苦しみ、原料資材をヨーロッパからの輸入に仰ぐ産業は、輸入品の品薄と値上がりで打撃を受けることになり、折からの不景気に拍車をかけることになったのである。 
輸出品の中心を生糸と綿糸の相場は、その暮れまでに三割前後まで下がり、繭の値段は輪を掛けて暴落した。合成染料の輸入も止まり染色工業に打撃を与えた。
 しかし、大正四年の中頃になると日本経済は、ロシアとイギリスに対する軍需品の輸出が増加し始め好況に転じたのである。戦争で途絶えたヨーロッパ諸国の商品に代わって、日本の商品が中国は勿論、インド、東南アジアや、遠くオーストラリア、南米諸国にも進出するようになったのである。 第一次世界大戦が長期化して交戦諸国からの輸入が途絶えた上、膨大な量にのぼる兵器や軍需品が必要とされたことが日本経済に大きな影響を与えたのである。 

大正五年から六年にかけ、企業の利益は急増した。未曾有の戦争景気の到来であった。成金が続々出現した。成金の大なるものは鉱山成金であり、船成金であった。 だが大戦景気は、歪んだ面を強く持っていた。大戦中の好況は、主に輸出品の暴騰によるもので、食糧などの国内消費物資の値上がりは遅れ、賃金も低水準を続けたのである。従って、時局産業のみは巨大な利潤を上げることになったが、その反面、景気の進み方は片寄ったものになって行ったのである。 

大正六年三月、ロシアに革命が起こった。専制主義の象徴とも言うべき帝政ロシアが (皇帝ニコライ二世)崩壊したのである。戦争による大規模な荒廃は社会主義革命のの可能性を作り出すことにもなるとし、レーニンは、「帝国主義戦争を内乱へ」と主張し続けていたのである。十一日にはボルシェヴイキニよるソビエト政権(共和制)が樹立された。
  「日本国又はロシア国に対し敵意を有する第三国と日露のどちらかが戦争になった時は 、たがいに軍事援助を行う」ことを約束した日露協約は、この革命により一年半たらずで全く無効と化した。 
この間、四月にはアメリカもドイツに宣戦し、世界大戦は更に拡大していた。革命後のソビエト政府は、大正七年三月三日、ドイツの要求する苛酷な条件を受け入れブ レストーリトフスク講和条約を結び休戦した。 ヨーロッパに勃発した第一次世界大戦は、目覚ましい発展を遂げたアメリカを世界政治の中心舞台に引き込むと同時に、ロシア革命を成功させ、世界最初の社会主義国家であるソビエト政府を登場させるという思いがけない結果をもたらすことになった。 
ロシア革命が起こったことは、上方では日本の北隣に社会主義国家が生まれた事を意味し、他方ではロシアの軍事力が弱体化した事を意味した。 日本では、シベリアに出兵し、ソビエト革命の波及を防ぎ、東シベリアに日本の勢力下にある緩衝国を作ろうとする画策が始まっていた。 イギリスとフランスは、ウラジオストックに集積してある軍需品がドイツに渡るのを防ぐという理由で日本とアメリカにシベリア出兵を要請してきた。 

大正七年八月二日には日本が、三日にはアメリカがシベリア出兵を宣言し、日米共同出兵が為される事になったのである。 九月中旬迄に、日本軍は、ハバロスクや、チ夕を占領し、ニコライエフスクにも陸戦隊が上陸した。十月末には、シベリアの日本軍は、北満派遣の一万二千を含めて、七万二千にのばった。アメリカは、日本の兵力増派と中東鉄道の独占的管理に抗議をしてきた。この日本のシベリア出兵は、シベリアの民衆の敵意を煽ると共に、日米の悪化を招いた。こうして日本は軍事的支配網を最大限に広げたものの腰ののびきった日本には、内外から矛盾が迫ってきていた。しかし、それにも拘らず、シベリアに対する出兵は紆余曲折を経て大正十一年迄続けられたのである。 

大正七年七月以来、戦局の主導権を連合国に奪われ、退却を続けていたドイツは、十月初めに十四ケ条を基礎とする休戦と講和をアメリカ大統領ウィルソンに申し入れた。十一月の初めにはキール軍港の水兵が出動命令を拒否したのをきっかけに全ドイツの大都市に革命が起こって労働者・兵士評議会の支配下におかれた。九日にはベルリンが革命の渦に巻き込まれ共和制が宣言され、ウィルヘルム二世はオランダに亡命した。ツアーが退位してから一年半でカイゼルも姿を消した。共和国の宰相には多数派社会民主党のエーベルトが就任した。 十一月十一日には休戦が実現し四年四ヶ月にわたって闘われた第一次世界大戦は、連合国の勝利によって幕を閉じた。「デモクラシーの勝利」が高らかに叫ばれた。ロシア革命・米騒動・に続くドイツの革命は日本の中にもデモクラシーの波を沸き立たせることになった。 

ここで言う日本の米騒動とは次のようなものであった。大戦勃発後に暴落した米価はその後三年近くも物価の上昇に取り残されていたが、大正六年の中頃になると、今度は急テンポで上昇しはじめた。一石、十五円の価格が、七月には三十円にのぼった。 米価が暴騰した原因は、大戦中の好況によって都市の人口や鉱工業の労働者が激増した。
これまで米の代わりに麦や稗などを食料としていた農家も養蚕などによる収入の増加によって米を食べるようになった。酒造米の消費量も増えた。こうして米の消費量が急増した反面、農村からの人口流出が続いたため、局地的には農村労働力が不足し、大正六、七年には内地米の収穫高は低下した。
 他方、大戦のために外国米の輸入が大幅に減った。その上、大正四年から、多量の内地米が輸出されたため大正六年の秋から七年にかけては、内地の在庫米が著しく減少し、米価高騰の原因になったのである。それに伴って売り惜しみや買い占めが始まり暴騰を引き起こす一因にもなったのである。
 米価の暴騰は民衆の生活難を深刻にし、社会不安を増大させた。当時の寺内内閣は、専ら警察力を増強し、社会不安を抑えようとしたが、日本中に広がった社会不安を警察の力だけで抑えつけることは出来なかった。ロシア革命が「パンをよこせ」から始まったことを国民は知っていたのである。
 新聞は連日のように、いかに米価騰貴が、中流階級を含めた民衆の生活を苦しめているかを報じた。 

大正七年七月十二日、富山県下新川郡魚津町から米騒動が始まった。富山の米騒動は、「越中女一揆」として報道された。
しかし、米価は、更に跳ね上がり九日には五十円を超えた。八月十日になると米騒動は京都と名古屋に飛び火し十一日には大阪の天王寺、神戸にも飛び火した。
更に同じ十一日には、東海・近畿・中国・四国に。十三日には、東京を中心とした関東に、十六日には日本全国に波及したのである。十七日以後、騒動は地方の町や村に移った。地主が米価の値上がりで肥え太るのと反対に貧農、特に日雇や職人などの不安定な労働者は生活難に喘いでおり、その怒りを爆発させたのである。 
この間、神戸の鈴木商店や鈴木の兵庫精米所が焼かれ、山口県の沖の山炭坑と福岡県の峰地炭坑では、賃上げ要求が暴動に転化している。十八日には出動した軍隊にダイナマイトで抵抗し、死者十三名、重傷者十六名を出している。そして九月十二日に三池炭坑の騒動が終わったのを最後に五十日に渡って全国を覆った米騒動は終わったのである。 騒動は一道三府三七県にわたり、三八市、一五三町、一七八村、計三六九ケ所にのぼった。街頭の騒動に参加したものは百万人を超えただろうと言われている。軍隊の出動した市町村は三府二三県にわたり百以上に達した。出兵のピークニおける総数は、二万二千名以上、出動総人員は延べ五万七千人以上と推定される。
近代日本史上、民衆運動に対して これほど巨大な兵力が投入させれたことは、未だかって無かったのである。 米騒動に参加した民衆の中に、民衆の苦しみによって肥え太る富豪に対する反感と、富豪や地主の味方になって、民衆の生活を顧みない政府に対する不信とが広がっていたのである。
シベリア出兵が始まり出征兵士が続々と出発したが、民衆は、そっぽを向いていたのである。 

大正七年十一月に第一次世界大戦の停戦が実現すると、大戦景気の反動が起こった。大戦で貿易が途絶えた為に暴騰していた金属・染料こ楽品等は途端に暴落し造船業や海運業米騒動は、当然、函館にも波及したと思われる。函館市史年表の大正七年八月には、「是時、函館の富商、渡辺孝平(二代目)が金二万円、同、小熊幸一郎、金一万円を区役所に米の廉売金として寄付す。」とある。
 同年九月には 「九月、欧州大戦の影響により函館地方また事業勃興し、物価騰貴して、平常の三倍にも跳ね上がる」ともある。 また、大正七年の。米騒動”を大きな契機として、翌大正八年以降、函館においても社会労働運動が高揚し、労働組合が結成されると共に、各職場において賃上げ・労働条件の改善などを要求したストライキが頻発していく。
 その頃、函館区は、1、東京 2、大阪 3、神戸 4、京都 5、名古屋 6、横浜7、長崎 8、広島に続いて、全国第9の都市であった。

 西村源二郎は、その大正の荒波の中で生きていた。
函館という北の都市でその時代を見詰めていた。その時代が己の人生の中で、いかなる意義を持つものか。それを考えることもなく、ただひたすら、その荒波に身を任せていた。 
後年、ぞの時代を回顧して 
「総ベテ物事ハ、十分ヲ望ム可ラズ。七分同トナセ。殊二経済界二対シテ警戒ヲ要スル八時期ノ問題ナリ(大正八年〜九年ヲ忘 ルナ)」と記している。
 短いが重い言葉である。
その大正八年が目前に迫っている函館の経済界であった。 大正八年。時代は刻々と進んで行った。大正七年九月二十九日原敬政友内閣が成立していた。原敬が大正十年十一月四日、東京駅頭で刺殺されるまで、この内閣は続く。
 
大正八年一月、ヴェルサイユ条約が発効され、六月二十八日には正式に調印され、第一次世界大戦は終結した。連合国側は日本、イギリス、フランス、イタリアの四ケ国であり、アメリカは、上院の反対によって条約の批准を拒んだのである。日本と中国の領土問題を解決することが出来ずワシントン会議まで持ち越されることになった。しかし、この機を境に日本は、国際連盟の常任理事国となりイギリス、フランス、イタリアと共に世界の一等国として国際舞台に登場することになるのだが、ファシズムの時代に突入する切っ掛けともなって行く。 原内閣は、金融政策や財界対策でも景気を煽った。大正七年十一月に第一次世界大戦が終結すると、我が国でも、すぐに大戦景気の反動が起こった。大戦での貿易が途絶えたために暴騰していた金属、染料、薬品等は途端に暴落し、造船業や、海運業も激しい打撃を受けた。市価の暴落を防ぐために各地に同業組合が、ぞくぞくと結成され、政府への陳情を始めると政府は次々に救済の手を打った。 ところが、大正八年の三、四月頃には、不況は底をつき、続いて大戦中を上回る熱狂的な戦後景気が訪れることになる。ヨーロッパの交戦諸国の消耗が予想以上に激しく、反って復興のための物資の需要が増大し、アメリカの好況も続いたため、我が国の輸出も増加した。戦時中は機械類の輸入の困難から手控えていた生産設備の更新拡張も始まり企業熱の中心は、戦時中の造船、機械、化学工業から、電力、紡績、銀行、雑工業などに移ったが、それは大戦中の規模を遥かに越えていた。原内閣の積極予算も景気を刺激した。大戦景気に昧をしめた人々は投機に狂奔した。投機は生糸、綿糸などの商品から株式、企業、土地にまでおよんだ。 大戦後の狂熱景気は物価、とりわけ生活必需品を暴騰させた。東京市中の小売物価でみると、大正九年三月がピークで、休戦となった七年十一月にくらべて、平均五割も上がり大戦直前の三倍あまりになっていた。米価も一石四十円から五十円をこえ、米騒動最中の高値同様になった。生活難の激化と共に労働者やサラリーマンの動きは活発になり賃金引上げを要求する争議は広範囲に爆発的に広がって行った。

 函館市史通説編第三巻より
「第一次大戦期の日本経済の好況は、外国貿易の拡大に支えられたものであり、函館も例外ではなかった。大戦前の日本の経済界は入超があいつぎ、商況は停滞していたが、函館の内外貿易は比較的順調に推移していた。大正三年に大戦が勃発し、大正四年になると、ヨーロッパ交戦国からの輸入が途絶したことにより国内産業が勃興し、また世界各市場においてヨーロッパの生産品の欠乏が日本製品の需要を喚起し、未曽有のの活況を呈した。函館においても漁業貿易の拡大と、外国輸出の増大に先導され、黄金時代を現出したのである。この間、露領における鮭鱒缶詰業が著しく発達し、露領から直接ヨーロッパに輸出された。・……」
「戦後二於ケル函館区商工業ノ現況」(北海道大学付属図書館蔵)より
「而シテ大戦中ハ我が国一般未曾有ノ好影響ヲ受ケテ我函館モ商業ノ発展ハ、勿論、工業界モ長足ノ進歩ヲ遂ゲ、空前ノ好況ヲ呈シ、大戦後ノ大正八年ノ如キハ真二黄金時代ヲ現出シタル観アリキ・・」
函館の経済界も空前の好況を呈していたが、反面、物価騰貴の波は、函館にも押し寄せ、製綿業界も例外ではなかった。

大正八年六月八日日)函館新聞より 

                            製綿の奔騰

「過般来、大阪市場を導火線に製綿市場は狂騰又は、奔騰せるが、右に就き、区内、 新川町、丸村製綿所主の語る所に依れば、本年度は、米綿作付の減少及び作柄悲観の処へ、欧州紡績業者よりの注文殺到したる為、米綿は一時に奔騰し、今后の 市場は、益々強硬を呈すべく、尚一方、綿糸は五百円以上の強調を呈し居るより支那綿の如きも、大勢に動かされ、近来希に見る活躍を演じ、加ふるに、銀塊相 場は未曾有の高値にあるため、支那本国よりの輸入不引合にて、在荷愈々減退し、各地共に一層売惜しみ、殆ど現在品としての売り物なく、営業者の買付は蓋し、苦心惨備に値するものありて、茲僅か十数日間に判綿一個に付十圓以上の昇騰を演じたり……」とある。


函館市年表には、 
「大正八年十一月、物価益々高騰して、函館の白米、小売値段一升、六十六銭となる。」とある。
 

又、大正九年一月二十三日には、河村織右工門が組合長として取り決めた次の広告がある。 

 

値上広告
 

諸物価騰貴ノ為今回当組合ノ協議ノ結果
事情不止得一月十七日ヨリ値上実行仕候
間何卒不相変御用命頂度此段謹告仕候
打直し一貫目に附、金六十銭
                  大正九年一月                                                               

                                                      函館製綿業組合

              
狂気じみた好景気の中で、河村製綿所の大正八年度に於ける製綿高、及び売上高は、過去、最高の数字を記録することになる。  

                                                 年度                         製 綿 高                                  売 上 高  

                                              大正八年                      八七・〇〇〇貫                          四八五・〇〇〇圓

しかし、この狂気じみた好景気は長くは続かなかった。政友会の積極政策は、行き詰まっていたのである。
 大正九年三月十五日、それまで奔騰を続けてきた東京の株式市場は、俄然、大暴落に転じた。四八四圓だった花形株の東株が一挙に四百圓を割ったのをはじめ、他の諸株も崩落し、東京株式取引所は二日間、立会の休止を余儀なくされた。
 当時、もっとも激しい投機が行われていたのは大阪を中心とする綿糸布投機であり、横浜を中心とする生糸投機がこれに続いていた。 四月七日に大阪で、増田ビルブローカー銀行が倒産したのをきっかけに、地方の小銀行の取付が広がった。四月中に七行が休業し、年内の破綻二十一行、取付を受けたものは六十一行を数えた。綿糸、生糸等の商品市場にも恐怖が及んだ。東京、大阪、の株取引は、一ヶ月にわたって休会し、全国の機業地は一斉に操業を休止した。

           大正九年三月十七日、函館新聞より 

                   財界の暗黒面 
                       日露戦争以来の現象


株が下がった。
河村ふとん広告
河村ふとんの広告  
綿糸が暴落した。兎に角欧州戦以来、明るさ続きの、我が経済界済界も茲に、漸く暗黒面の幕を開いた。農商務省の永光管理課長は、「コンな事は日露戦争後に一度あった。彼の時は泡沫会社は全部潰れて大不景気が来た。今度總ての相場が激落した事が日露戦争後の不景気と同様の結果となるか何うかは予測出来ないが経済界が昨今の如くイツまでも続くものでなく何日か冷却する時の来る事は誰しも考へて居たのである。景気の好い時は株は地方に散り景気の悪い時は之が都会に集まる原則から見て一朝不景気となったならば今までに吸収された株は一時都会へ集まって来る。不景気の来るは当然である。この対策は、山本大臣の方寸にあるだらう」と兎に角米価の惨落は延いて地方農民に恐慌を、都会に商工業の不振を来すだろう。
しかし函館は・・・ 大正九年五月一日 
買占の一点張りか。売の一方に傾いた関西の修羅場に比べて 
   函館に山師のない証擦 今後の動静如何
この三日迄に廿万円の金を調達して貰い度いと内地の問屋筋が大グラつきのために其飛沫が函館へまで飛んで来たので、幾分の打撃を居る所もありと言ひ又株には・・・大した取引もなかったし、確かに函館は安全地帯と目されて居るが、ヤハリ波動によって或る方面を通じ二百万円位の手庇を負ふてぃるとも伝えられている。
僅かに一万か二万の金で、十万二十万或るいは、十万の資本で百万二百万の仕事をしゃうと言ふ山師的取引をする人は一人もない。即ち実質で行って居る丈に全く怪我人は…昨今の内地の様にない、経済界のドンテンがへしの道具変わり、銀行手形の取引・・買占め一方になって煽りかけた反動が逆転直下と言ふ今度は・・売りの一方で呉服太物類でも金さヘウンと持って居ると一と山いくらで買ひもされるが借夫が急場の大手庇を防ぐ為の大口で小売取引が少しもない丈一層大修羅場を演じている。
差し当たり今日の函館に不況を呈しつつあるのは内地の反響によって・・在荷は少しも動かぬ、但し動かそうとすれば仮に一万円の材料があったところで七千円の金を銀行に持ち出す其苦痛はシビレを切らして居る訳で自然函館は一番活気ある濱町方面が先途を見越して手控えているので不景気らしいが銀行に迷惑をかけたり怪しげな手形が飛んでボロを出した内地と大分趣が異なって居て、夫れ丈け信用のある土地と言ふ事は、今度の大騒ぎによって一倍確実に証明されたけれど内地の騒動が・・どこまで続くか知らぬが今の処函館に怪我人はないので公園の花見・・招魂社の祭礼も賑わしからう。デ現在では悲観する程のことはないが然うかと言って余り楽観をせぬ夫も大事を取る函館の実質であることが一般に窺はれる。


 早稲田大学講義録による政治経済科の履修期間は、十八ヶ月であり、主な科目と講師は  

  
                   政治原論・浮田博士、経済原論・服部教授、新国家論・大隈総長。
                   商業政策・小林教授、商法  ・柳川教授、予算公債・田中博士


などで、全部二十九教科であった。 
これらを履修し終えると試験問題が課せられ、その問題を解き、時には論文も書き、それを早稲田大学講義録本部に送付し、合格の結果を受けてからの学科の修業であり、その繰返しが続いた。
 源二郎の履修時間は終業後の夜間であり、時々、深夜にも及び、時間的にも、知力においても、並大抵の努力では達成出来ない程のものであったが、源二郎は、それに挑戦し次々に習得して行ったのは源二郎が天才的な素質を有していたからに外ならない。その当時の事を記した本人の記録は、今では極く少量しか残っていないが、その少量の記録の中に天才的素質をうかがえるものを若干、確認することが出来る。
 しかし、いかに天才的素質を有すると言っても、全科目の合格を果たし、講義を終了したのは、履修期間の延長を申請してから約一年後の大正九年の九月であり、三十ヶ月を要していた。源二郎にとって満願の日であり、目的完遂の満足感があった。 
合格後、更に東京の早稲田大学で行われる最終の筆記試験に合格すれば、大学卒としての正式な資格を取得出来ることになっていたのである。 
当時の早稲田大学は大学とは言うものの専門学校令による旧学制によって運営されていたI早稲田大学百年史”によれば、
 「従来の私学は官学に比して世間の信用も薄く、亦官尊民卑の思想も国民一般の頭脳に泌み渡り、その上、官学には、各種の特典があって、私学と官学は決して対等の地位に於ける競争ではないのである。従って私学は、比較的優秀ならざる学生を収容したのは止むを得ないものがあった。】即ち、早稲田大学は、「大学と称していたものの法政上では専門学校令による学校であって、ただ。大学‥という名称を使用していたにすぎなかったのである。しかるに大正七年の新大学令の公布によって私立大学も官立大学と同等のものとして認められることになった。」
 大正九年二月六日、文部大臣、中橋徳五郎により、新大学令に依る「大学設立認可」を受け、大正九年三月三十一日には「早稲田大学学則」が制定された。この時、早稲田大学、政治経済学部、理工学部、文学部などは正式にこの学則に従って学部として発足するのであるが専門部と高等師範部の両部のみは、依然、専門学校令によった旧学制の下に設置されており、大正九年以後もこの二者は同じく専門学校令により設置されていた。しかし、早稲田大学全体が、このとき、再編整備されたのだから、それなりの影響を受けつつあった。専門部も新制への転換期を迎えていたのである。
 従って、源二郎が早稲田大学専門部を受験する大正十年二月は、旧制としての最後の卒業試験であり、旧制は、入学も卒業も比較的容易であり、講義録受験者にとって有利な条件が揃っていたのである。 次の資料は、「早稲田大学規則便覧大正九年四月改正」に所載されているものである。「専門部政治経済科、法律科及び商科を卒業したるものは、大正二年七月勅令第二百六十一号文官任用第六条第三項に依り判任文官に任用せらるるの資格を有す」とある。 大正十年四月より、専門部、高等師範部も再編整備を機に入学試験を行うようになる。それは先ず、新設の商科が口火を切ったとある。
但し、専門部の中、法律科は、「四月中無試験入学を許可する。」と謳っている。応募者が定員を越えず無試験の状態が続いていたらしい。それまでの専門部の体質が窺えて来るのである。
 地方居住の源二郎は、その辺の情報に乏しかったのは、致し方ないと言うべきか。また、、専門部受験が源二郎の人間的評価を下げるものでないことは当然である。その時の源二郎は、ただ、ひたすら、大学の卒業と資格取得を目指し、自身の実力と対峙しながら、愚直に努力を続けていたのである。孤独な戦いでもあった。 その最終試験が、刻々と近ずきつつあった。

源二郎は、初めから大学受験に俊巡するものがあった。身分と己を取り巻く環境を考えたからである。身分不相応というべきか。 しかし、源二郎には、約三十ヶ月に及ぶ努力と結果を無にする事は出来ない思いがあった。源二郎の心に漠然とした希望が生まれ始めていた。大望と言ってよかった。 織右工門や定一は、そんな源二郎の向学心には一目も二目もおいていた。織右工門は源二郎を定一と同じように進学させなかったことに悔いを感じてもいた。源二郎は、誰の力も借りず独力で己の道を切り拓いて行く。過去の苦闘の時代が源二郎を一回りも二回りも大きく成長させていたのである。源二郎の人格、人を魅きつける力、強い信念、更に、優れた知能に、その向学心をも併せて、織右工門は直系にはない秀れたものを源二郎に感じていた。
 織右工門は源二郎に定一を扶け、河村家と己の築いた事業を託す期待をも抱き始めていたのであった。
 「あと二年したらスエヲを源にやろうか・・・」
と織右工門は妻のスエや定一に言い、二人もまた、そんな言葉に頷くほどにまでなり、当然のように店の中枢にいる、それぞれの幹部達もまた、暗黙の中に、それを了解しつつあった。
 源二郎自身は、まだ、織右工門や定一から、その話を正式には聞いてはいなかったが、周囲が醸し出す雰囲気から、それとなく察していたようである。スエ が将来の伴侶になることを予感していたのかもしれない。
 源二郎の思いの中に、あの祭りの日の大森浜があった。大森浜に誘った若さ溢れるスエヲの姿が強く灼きついていた。 
河村織右工門の次女、ナッイは、大正八年六月十六日、鈴木繁延と結婚していた。鈴木は、この後、大正十年に、河村蒲団店に入店し、新設された新川町店の支店長として活躍することになる。
 従って、当時、河村家の中で独身を決めていたのはスエヲだけであった。スエヲにも、源二郎にも、お互いを思う淡い夢があったかもしれない。又、二人の周囲が、それ以上の期待を込めて見詰めていた。しかし、結果的に、二人の思いは、結実することはなかったのである。

大正九年の年の終り、物価高騰に伴う函館の不景気は漸く沈静する気配を見せ始めていた。米価も安定し、失業率も減少し、職人などは、相当の仕事があって、大分、畜財も出来て、正月には、安い餅も食べられると、不景気を唱える一面、好景気の声もあった。露領漁業の基地である函館にとって、他都市に較べ、大正八年、九年は、一時的緊張の時代であったのかもしれない。
 その上、今年はどうか、当業者が首をひねっていた鰮(いわし)漁が意外の好況を呈し 、住吉町、大森、根崎、志苔(しのり)へかけて、漁は平年以上の収穫であった。近海は、平年、五万石をまず好漁としているが、下海岸の鰮漁は、初漁以来五万五千石の収穫を見て、既に平年以上の漁であった。鮭漁が函館区内にも相応のうるほいがあるのだから 、一部に不景気説を唱えようとも、必ずや、みじめな年越を見るようなことは断じてあるまい。従って良い正月を迎えられるであろうと商店街も、歳の市も活気が漲っていた。
 河村製綿所もまた 
「然るに当社はどうかというに、戦時中の一次的な好況時代において、すでに、来るべき反動的な不況時代の到来を充分に予測していたのである。即ち得意先の選択等において、適切にして堅実な経営方針を立てて進み、かつ金融関係においても万全の策を講じていたので、生産力は常に平均して、一定の線を維持し、他の同業者のように、にわかに生産力の減退を見ることはなかったのである。従って、需要期に入ると共に、事実は予想以上に繁忙を極め、製品の不足を来すという状態であった。」
 河村製綿所も、河村蒲団店も不景気を克服し活況のある事業を展開していた。
その年の暮れ、源二郎はスエヲに婚約者が決まったという工員達の間で広まっている噂を耳にした。
 相手は中田元吉(先代善七)の長男、中田善七であった。第三章で書いたように、中田家は横浜の左右町銀行の差配人(所有主に代わる、貸家、貸地の管理人)をしていた。主に函館区の新川町、高盛町という、未開の土地四万坪と、疎らに建てられた建物の管理に当たっていた。
 河村家とは、河村製綿所が音羽町に所在していた時、出火し、新川町に移転した時からの不動産を仲介しての付き合いであった。後年、この土地は横浜土地株式会社の所有となり、河村定一が中田家に代わり土地管理権の一切を所有し、丸村コドモ印製綿所が代理店業を営むことになるのだが、当時は、中田家がその権利一切を所有していたのである。
 当の中田家は、新川町管内でも有力者であり、元吉も善七も商才に長けた人物であった。親子揃って世渡りの巧みな人物であったと言える。源二郎は、中田親子が時として、河村家に出入りしていることを知り、時には工場の中で出会う時もあったが、別に関心を持つわけでもなく、普通の来客と同じように接し同じ様な挨拶を交わしていたのだった。
 その中田善七とスエヲの婚約が正式に決まったことを知った時も、源二郎は特に驚くことはなかった。織右工門や定一の態度に多少のよそよそしさを感じたのは、そのためであったのかと思い当たることもあったが、逆にこの機会が自分の人生にとって、大きな転機になることを予感していたのである。十年二月の早稲田大学の最終試験が目前に迫りつつあった。初めて見る東京という日本の首府を見ることへの期待に、胸を膨らましていたのであった。 
源二郎はその時、既に河村製綿所と河村蒲団店の金融、商品の業務部門の責任のある地位に上りつめていた。

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