第四部 戦火篇 
第七章  過ぎ去りし十年 



終戦の日、源二郎は過ぎ去った喧騒の十年を振り返った。正しくこの十年は国民総動員の戦時体制下の中を、疾風の如く生きて来た十年であったと思う。ミシン業に身を投じたのも、外国製品の台頭はあったが、国産ミシンが、時代の先端を行く成長商品になるということを確信していたからであった。しかし、素人が始めた商品の取り扱いについては、まだまだ牛の歩みであった。 
しかし源二郎自身は、
「けとうの考え出したもの位、私にだって、その理屈の解らぬ筈はない」と果敢に挑戦し、先ずはミシンの構造、組立、使用方法等、商品知識を完全に修得して行った。源二郎自身、仕事の発想、物事に対した時の徹底した効率主義など稀にみる素質の持ち主であったのだ。 修得後は率先して販売に向かった。三十代後半の若さがあった。店頭に来る客には、愛想よく説明し、良く成契に結びつけた。次はミシンの配達であった。自転車にリヤカーを繋ぎ、ミシンとテーブルを荷台に載せ、倒れぬようにロープで結び、自転車を漕いで客先に向かうのであった。外交、配達、修理、など、創業の初期は源二郎自身、商売が何よりも好きな一介のセールスマンであったのだ。五稜郭の倉庫から函館の西部の弁天町迄配達したこともあった。

 創業の昭和十一年から昭和十六年までの五年間、商品は順調に回転した。この五年の間に、ブラザーミシンを取り扱う日本ミシン合資会社の社名は函館を中心とした道南は勿論、北海道の奥地まで浸透し始めていた。同時に、ブラザーミシンの性能の優秀さも認識されっつあった。次第に売上も伸びブラザーミシン販売株式会社からの信頼も増して行った。正社員、臨時社員も入社した。商品の配達については宅配便(便利屋)を利用した。その発展の中心に源二郎自身が居た。
 「商売発展の原動力は現在ある私の内にあるものの活用である。その最たるものは自分の頭脳である。蓄えて来た自分の経験、店舗、顧客、仕入先、社員、妻という働き手、信用力、のれん、など・・・.これらを自分の頭脳で充分活かし、その総合力で会社の売上を五年で五倍に持って行く」
源二郎はそんな大きな目標を抱きながら初期の経営に当たっていた。
店舗については五稜郭の店舗と千歳町の陳列部、学院が主力現場で、専属の工務店と提携し、絶えず改築、改装を行うと共に店頭のレイアウトや什器などを新しくするなど美化を心がけた。場所が新川町の電停前で商店街の中でも店舗の大きさとミシンの配列は特に目立つものであり宣伝効果が大きかった。
顧客のミシン志向は洋裁の進展と共に大きくなり、ミシンの需要は途切れることなく続いた。顧客には誠心誠意、親切丁寧に「世界に輝くブラザーミシン」を合言葉に顧客がミシンを真に使いこなせる事が出来るように指導した。それが固定客獲得に繋がった。販売価格は公定価格を維持したが月賦販 売方式(分割払)を他社に先駆けて導入した。月賦販売は事後の回収訪問もあり顧客との繋がりを一層密にし、顧客の拡大に繋がった。
仕入先・・・商品を大切に。
昭和20年頃の大阪支店
昭和20年頃の大阪支店  

ブラザーミシン販売株式会社の特約店として、その製造元である日本ミシン製造株式会社との連携を一層強固にすると共に、将来の自社製品化とミシン部品多様化を考慮し、東北、関東、新潟、大阪方面のミシン製造業者との接触を密にした。「大阪地区」のミシン業界についての調査は、この時から始まり戦後の大阪進出の切掛けとなるのである。
社員・・・戦時中は縁戚知人の紹介を基に実力主義で社員を採用したが適材適所、効果的な採用で成果は充分であった。
妻・・・西村とよ、は合資会社日本服装の代表社員として活動した。源二郎の伴侶として、お互いの信頼は深く、常に明朗温和にして夫婦一体となって良く家庭と会社の事業活動を支えた。後年、太洋婦人会会長として婦人社員の代表としても活躍する。

 源二郎は、五稜郭の自宅から千歳町の陳列部まで、毎日、自転車で通って来た。毎朝八時には出社した。そして一通り社内を点検する。その後で社員との朝礼が始まる。その場で、仕事の指示、確認をする。その意図が明確に伝わらない場合は朝礼後、関係者を集め、再度説明し説得した。決済は即断、即決、その日のうちに答えが出た。「敏速」「積極」・・・仕事は迅速、果敢で商機を逸する事はなかった。一の具体を聞き、そこから全体像を把握し、計画そのものの可否を判断するというやり方で、そこに又、独特の勘が加味されるという情況であった。 これらは天性の性格は勿論であるが、総支配人として活躍したコドモわた株式会社時代の経験から生まれて来たものであったと思われる。社員教育も優れていた。仕事をするのは血と涙を湛えた社員である。どんなに完璧にマニュアルを整えたところで、それを扱う社員を無視したならば必ず反発が起きる。まかせる。まかせて良いという信頼をどう築くか。源二郎はここに情熱とエネルギーを注いで来たのであった。社員に対する厳しさ、優しさの両面を備えた経営者であったのだ。それは創業の時を越え生涯変わらなかった。

源二郎の日中は、来客の折衝、外交、ミシンの組立、調節、各種企画の立案、金銭出納の確認後、午後五時頃退社する。これが毎日の源二郎の日課であった。

 昭和十六年十二月の太平洋戦争勃発以降は流石に経営も苦しくなった。ミシンも生産が制限され仕入量も少なくなった。
源二郎は次第に商品の流れが停滞し、商品の売買のみでの取引は不可能になって行くことを予測し、軍被服廠と提携すると共に学院経営に重点を置くように方向を転じて行った。学院経営の基本も源二郎の優れた企画力で統括された。学院経営がミシンの販売と表裏一体のものであることを認識して経 営に当たっていたのである。時局は切迫していたが生徒数は減らず授業料収入は増大して行ったのである。

源二郎が昭和の激動期に生きた十年間は以上の通りである。苦しみの時代ではあったが将来を見越だ雌伏の時代でもあった。源二郎は着々とその機の来る事を信じ実力を蓄えていたのである。平和が来ればその時はミシン産業の時代になる。その信念を頑なに持ち続けていた。

人生は波静かな日ばかりではない。嵐が荒れ狂う日々もある。時には方向を見失い彷徨う時もある。しかし、その困苦窮乏に耐えてこそ人に幸せが訪れる。源二郎の脳裏に時に蘇るのは開拓の地での少年時代であり、商いを学んだ奉公時代の光景であった。

 

 

                                                                     参考資料 

 1 . YB3 8 3          函館新聞                           自昭和1 1年 1月1日至昭和1 6年2月1 9日
2. TB 1 9              北海道新聞                     自昭和1 7年1 1月1日 至昭和20年8月1 5日
3.函館市史 通説編  第4巻                                                                函館市役所
4.会社商工名録会社表  昭和1 4年4月1 2日刊                                          函館商工会議所
5. 782.1 W686M 日本ミシン産業史 昭和3 6年刊                                       東京日本ミシン協会
6.ブラザーの歩み    昭和4 6年4月30日                                                       ブラザー工業株式会社
7.河村織右工門創業70年回顧録 昭和4 4年3月刊                                    コドモわた株式会社
8.日本の歴史25太平洋戦争 昭和42年2月15日                                              中央公論社



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