第四部 戦火篇

        第六章 函館空襲そして終戦 

 

太平洋戦争の終結も間近い昭和二十年七月十四日、十五日の両日、東北、北海道地方は米軍機動部隊の攻撃を受け本州と北海道を結ぶ青函連絡船の基地でもある函館市は大きな被害を受けた。
六月末以降七月上旬にかけて米軍機による北海道方面の偵察活動は活発を極めたが、これらの動きは来るべき北海道方面への空襲の予兆であることを函館市民は感じていた。これより先、七月一日、フィリピンのレイテ湾を出港した米海軍の機動部隊は、七月十日に関東地区を攻撃後、更に北上を続け、七月十三日には青森県尻屋岬の南東約百海里の太平洋上に設定された発進海域に到着していた。 
米海軍の機動部隊は三グループで編成されエセックス級大型空母やインデペンデンス級軽空母など合計十三隻の空母が配備されていた。そして、第三十八・一任務群は北海道東部の飛行場と船舶攻撃及び艦砲射撃部隊の支援、第三十八こ二任務群は東北北部の飛行場と津軽海峡内の船舶攻撃、第三十八・四任務群には北海道南部の飛行場と船舶攻撃という目標が与えられていた。 七月十四日早朝、太平洋上の空母から発進した米軍の艦載機、二千は各々の目標に向かって一斉に攻撃を開始した。  

筆者は住宅の二階で暮らしていたのだが、空襲警報発令のサイレンが鳴り渡るや否や間もなく飛行機の大きな爆音が聞こえ、銀色の翼を太陽の光で輝かせながら低空を飛んでくる艦載機を二階の窓の隙間から眺めていた。その艦載機(グラマン)の機銃掃射の弾が数発、向いの斎藤商店の看板を射ち抜くのが見えた。それが数時間続いたが、幸い付近に、爆弾は投下されなかった。又、遠くから、ドカーン、ドカーンという艦砲射撃の音が間断なく聞こえてきた。同時に函館山の山麓一帯から爆弾の破裂する音が聞こえてきた。 太陽が輝く晴れた午前であった。防空壕に避難しているのか、家に潜んでいるのか路上に人の影が全く見えなかったのを記憶している。 
昭和20年頃の五稜郭陳列部
昭和20年頃の五稜郭陳列部  
その時、松尾や姉達がどうしていたか今では全く思い出すことが出来ない。筆者はただ生死にかかわる空襲であることと、無事に終わってくれることを必死になって祈っていた。
この日、十四日、二十四時までに確認された函館地区の被害は次のようになっている。
 この函館空襲によって、当時運行していた連絡船十二隻中、十隻が沈没座礁炎上し、二隻が損傷し、三百七十三人が死亡するという被害を受け、青函連絡船による輸送ルートは破壊的な打撃を受けただけでなく、石炭を積んで函館から青森に航行中の機帆船二百七十二隻の中、七十隻が沈没し七十九隻が損傷した。機帆船の死亡者数は不明である。
 この函館空襲を行ったのは高速戦艦、航空母艦、巡洋艦、駆逐艦からなる第三十八機動部隊で、この部隊は、二十年七月初め、フィリピンのレイテ湾を出発したものだった。このうち青函連絡船を始めとする函館、青森間を航行する船舶の攻撃と函館市街部の攻撃に関わったのはランドルフ、バターン、エセックス、モンテレーの四隻の空母で、この四隻の空母から十四、十五日の二日間に空襲のために飛び立った戦闘機は延べ二〇九機に及び、投下爆弾は五〇ポンド通常爆弾、五百十四個、ロケット弾二百七十八個に達した。
これによっても、米軍が津軽海峡の交通網の破壊をいかに重視していたのかを知ることが出来る。
事実、米軍の攻撃によって青函航路は全面的に破壊され、函館と本州を結ぶ路は完全に閉ざされたのである。これによって函館市民は物心両面において大きな打撃を被ったが、米軍の激しい攻撃にも関わらず日本軍機が一切防衛しえない状況を目のあたりにして函館市民が「戦争の早期終結が待ち望まれることを認識し始めた」ことであった。

八月六日、米軍は広島に人類の歴史上、最初の原子爆弾を投下した。この原子爆弾の投下によって、広島は約十三万平方キロメートルの市域が灰燧に帰し、九万人から十二万人が死亡した。次いで八月九日には長崎に原子爆弾を投下し、これによって浦上地区を中心に約六・七平方キロメー トルにわたる市街部が破壊され六万人から七万人が死亡した。昭和二十年八月八日の北海道新聞のトップ見出しは、この事を次のように報道している。 
                           落下傘付新型爆弾 
                             広島市相当の被害  
                                    B29 数機をもって攻撃
一、昨八月六日、広島市は敵B29少数の攻撃に依り相当の被害を生じたり
二、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり 

                           着地前空中で詐裂  
                                  当局の指導に信頼毅然たれ
とある。 
八月八日にソ連が対日宣戦を布告し、翌九日からソ連軍が中国東北部の旧「満州」地域、南樺太、千島列島に怒涛の如く侵攻したことにより日本はさらに大きな被害を受けることになった。日本の戦争指導者はソ連の対日参戦はないという前提で「本土決戦」体制を進めてきただけにソ連の参戦によって「本土決戦」体制の構想は崩壊し、最早、抗戦を断念し「ポツダム宣言」を受託する以外になかった。

− ポツダム宣言

七月十七日からベルリン郊外のポツダムで米のトルーマン大統領、英のチャーチル首相、ソ連のスターリンの三国首脳会談が開催され、七月二十六日、中華民国の蒋介石主席の同意を得て米英中の対日共同言言である「ポツダム宣言」を発表した。 
 「吾等は日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、且、右行動に於ける同政府の誠意に付、適当且充分なる保障を提供せんことを同政府に対し要求す。右以外の日本国の選択は迅速かつ完全なる壊滅あるのみ」

函館連合青年団
函館市連合青年団の会合 
前列左端が源二郎 昭和20年頃
  
八月十四日、宮中の防空壕で、「御前会議」を招集し、「聖断」によってポツダム宣言の受託を決定した。御前会議終了後、天皇は「終戦勅語」を朗読し、それをレコードに録音して翌、八月十五日、正午、玉音がラジオで放送されたのである。
当日の北海道新聞は一面トップで次のように記している。 

                       聖断厳かに下り戦ひ局を結ぶ」 
                                  苦難固より尋常にあらず 
                                    総力将来を建設せよ 
                                       大詔を換発新覚悟御明示
とある。
終戦詔書には 
「惟フニ今後帝国ノ受クペキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラズ爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 
然レドモ朕ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ堪へ忍ビ難キヲ忍ビ以テ萬世ノ為二太平ヲ開カムト欲ス」
とあった。
原子爆弾は目本の戦争努力の一切を鳥有に帰せしめた。
函館市民の多くは、この玉音放送によって敗戦の事実を初めて知ると共に、午後に配達された新聞の記事などによって事実関係を知る事ができたのである。





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