第四部 戦火篇
第五章 敗 戦 



そのようにして戦争は始まり、昭和十七年三月頃迄は米英の反撃も少なく帝国陸海軍の勝利は続いた。
昭和十六年十二月、マレー上陸、香港攻略等、日本の真珠湾攻撃は誠に華やかであったが、日本軍の南方攻略も又壮大であった。
昭和十七年一月二日ヽマニラ占領ヽ二月十五日ヽシンガポール陥落ヽ三月一日、ジャワ上陸、五月七日、コレヒドール陥落など南方作戦は連戦連勝を博していたが、それも宣戦布告以来の一年間であった。 
昭和十七年五月三日、日本海軍はソロモン群島フローリダ島のツラギに無血上陸したが、ツラギーポートモレスピー作戦を探知した米艦隊との間で珊瑚海海戦が行われた。この海戦は史上初めての空母艦載機のみによる戦闘で、米空母レキシントンを撃沈ヽヨークタウンを大破させたべ日本側も改装空母「祥鳳」を失い、「翔鶴」は大破されてポートモレスビー攻略部隊は引き返し、作戦は延期された。この作戦を契機とし、日本の侵攻は阻止され、後退の一途を辿ることになる。
昭和十八年二月七日ヽ日本軍はガダルカナル島を撤退する。 この時から戦いは決戦の段階に入り大きな転機が刻々と迫って来る。
緒戦の打撃から立ち直ったアメリカは徐々に戦力を回復し、圧倒的な物量に物を言わせ猛反攻に出てきた。ヨーロッパに於いては北アフリカ。及び、スターリングラードの包囲作戦相さい等の敗北で、ドイツ軍退潮の兆しがみえ南部戦線で反枢軸軍がシチリヤに上陸した。太平洋に於いてはニューギュアヽソロモンの両方面から反攻開始したアメリカ軍のラバウル包囲作戦が始まった。
四月十八日ヽ連合艦隊司令長官ヽ山本五十六が一式陸攻機に搭乗してラバウルを出発して間もなくアメリカミッチェル隊に襲われジャングルに突っ込み戦死した。又ヽ五月二十九日北方ヽアリューシャン列島のアッツ島で山崎部隊長以下、将兵、二千余命が玉砕した。ニューギニア方面もアメリカ軍に一方的に攻略され撤退を余儀なくさせられた。

九月八日、イタリヤが無条件降伏した。

この頃、国内では米軍反攻による戦況悪化から船と航空機と航空機操縦要員の不足が深刻になって行って行く。
十一月二十五日、中部太平洋タワラ島の日本軍はアメリカの総攻撃により玉砕する。
十一月二十七日、米英華三国の会談がエジプトのカイロで行われ、日本の植民地の解放が謳われた「カイロ宣言」が発せられた。 昭和十九年二月十七日、カロリン諸島の中のトラック島がアメリカによる大空襲を受け、航空機、二百七十八機、輸送船三十二隻が全滅した。この大空襲の後、間もなく、マーシャル諸島のエニウェトク島が陥落。続いてマリアナ沖海戦の惨敗。サイパン島の陥落。比島、レイテ島に於けるアメリカ軍の上陸と、アメリカ軍の飛び石伝いの猛反攻を受けて日
ブラザーミシンの販売開始
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本軍は刻々と押し戻され、圧迫されて行く。同時にビルマ方面の一大作戦で、インパールを占拠する作戦でも連合軍の反攻にあい撤退を余儀なくさせられて行く昭和二十年二月十一日、チャーチル英、ルーズベルト米、スターリンソ連の三国代表によるヤルタ会談で、秘密協定が結ばれる。ドイツの敗北後三ヶ月以内のソ連の対日参戦の約束が決められていた。
二月十九日、アメリカ軍は硫黄島に上陸を開始する。兵、七万五千。四九五隻の艦艇による八千発に及ぶ艦砲射撃。千六百機の航空機による攻撃など圧倒的な戦力であった。栗林忠道中将が指揮する陸軍一万五千五百と海軍七千五百は果敢に応戦し、日本軍よりも多い二万四千八百五七人の死傷をアメリカ軍に与えたが指揮官と兵器の大半が失われ一ヶ月後全滅した。五月二日、ベルリンはソ連軍に占領され、七日にはドイツは無条件降伏をした。
与国ドイツの崩壊は政治上層部に予期された事とは言え大きな衝撃を与えることになった。
四月一日、アメリカ軍は沖縄の嘉手納に上陸した。沖縄本島の第三十二軍は三ヶ月にわたって持ちこたえた。この戦いは多数の市民を巻き込む戦いとなり一般市民は生活と戦いの不安に慄きながら軍に協力していた。戦いは六月二十三日、早朝、牛島中将の自刃で終焉し、義勇兵を含む日本軍の戦死者は約十一万、市民十万人が死んだ。この間米軍の本土空襲は激化したが、沖縄軍民の三ヵ月にわたる抵抗は本土決戦の時間を稼ぎ米軍の本土上陸を慎重にさせることになった。 
十九年六月十六日、北九州がB29二十機で空襲されて以来繰り返された本土空襲は銃後の生活を直接危険におとしいれた。
そして米軍爆撃機B29 を主力とする本土空襲はマリアナに一大基地が出来た十九年年秋から本格化した。
東京は昭和二十年三月九日、四月十三日、五月二十五日の大空襲を中心に、全百二回の空襲を受けた。空襲は東京にかぎらず全国各地に及んだ。
 こうした空襲で日本全体の死傷者六十六万五千を数え国富の損失は昭和十年の国富の三割四分、六百五十三億円に及んだ。
 この数字は終戦時の公定価格であるから現在の貨幣価値に換算すれば五十兆から六十兆になろう。
焼失家屋は全国住宅の二割に当たる二百三十万戸で、で、被災者は一千万人を越えた。






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