第四部 戦火篇
第四章 戦時の経営 

国民の日々の生活も次第に物資不足となり、耐乏生活を予議なくされて行くと共に、戦時の体制へ引き込まれて行く。 例えば、函館に於いても空襲になったら家の押入れに隠れたり、昭和十八年夏からは「縁の下、又は庭に防空壕を掘れ」と命令されたりした。この頃から各戸ごとに玄関脇へ用水桶と砂袋、バケツ、火叩き、梯子などを備え、ガラス戸には十字の目張りをするようにと指導された。また人々は防空頭巾と三角巾を持ち歩き、胸には本籍、住所、氏名、血液型を記した名札を着けるように指導され、隣組で行う防空訓練で、敵機や焼夷弾の種類と消化法を学んだりした。 
又、全市一斉に防空訓練が定期的に行われた。 
「郷土の空を護れ・・・。八時半、サイレンと警鐘の乱打が全市民の耳を貫くように響く、。空襲警報’が布かれるや二本の軌道に乗り走り続けている電車、自動車、オートバイ、街を歩行していた市民はいつ早く待避訓練に一糸乱れぬ行動を然も迅速に行った。敵機は爆音を響かせ襲って来たが地上に待機する水を漏らさぬ鉄壁防衛陣は即時攻撃を開始、猛襲を極める攻撃のため敵機は完全に失敗。一弾も投下せずに遁走。機影を没し去った。家庭防火群は総監部より発せられる令旨に基き、血みどろの訓練に東奔西走の活躍こそ目覚ましく午前中に襲来せる敵機の爆撃に騒がず、慌てず交通整理に、防毒に避難、待避の秩序ある訓練の完全を期して訓練を終え夕闇を待機して愈々暗夜の灯火管制の第二陣に備えた」とある。その後、防火訓練は連日の如く行はれて行く。 

毎日の食生活も次第に窮屈になって行った。成年者、一日、二合三勺であった米の配給は、二十年七月には二合一勺に減った。はじめ七分搗きだった米は十七年秋から五分搗きとなり、十八年一月から二分搗きになった。そればかりか押し麦、高梁、玉蜀黍などの雑穀が混入され、馬鈴薯、うどん、乾パンなどが総合配給になった。

玄米食が奨励され、十八年から、業務用に強制的に配給された。味噌、醤油、砂糖、食用油などの調味料も全て配給制で、特に十九年八月から一般への配給が停止された砂糖に対する人々の飢えは激しかった。その他医療をはじめ、マッチ、石鹸、ロウソク、ちり紙、靴、地下足袋などの生活必需品も全て切符配給制となった。。敵機の襲来に備え隣近所の密集した住宅の取り壊しも行われ、見る間に空地になって行く。燃え広がる火災を予想しての防火対策であった。その取り壊し跡の空地を各家庭に無料で貸し出した。各家庭は挙って菜園用に借り受け、馬鈴薯、玉蜀黍、南瓜、胡瓜、大豆などを栽培した。これが各家庭の食料事情に微かながら役立った。
戦時中、千歳町陳列部と学院の建物の管理責任者は飛内松尾だった建物の管理についての対外的な折衝は松尾が一人で行い、その結果を源二郎に報告するのが常だった。 
松尾は不思議に隣近所の仲間に人望があった。防火訓練など、女ながらもバケツでの消化リレーなど、モンペ服装で常に先頭に立った。千歳町会長の勝又秀吉から、「第二部第一班長」に選任されたり、隣保班長として函館市長、登坂良作から感謝状を授与されたりしている。隣保とは当時の隣組制度の事であり、この時知り合った戦時中の隣近所の仲間が松尾のその時の生活を間接的に助けるのである。隣近所の仲間で、商店街の主は丸村一質店を経営する河村高治、管家具製作所。潟端タイル販売、河村織右工門別宅、石山畳店、小林クリーニング店、木津質店などで、松尾の交際術は、これらの商店を上手に統率する事が出来た。石山畳店の石山フヨとは生涯の友人となり現在も連絡が途絶えないでいる。 
安井社長摩周湖
ブラザー安井社長と摩周湖にて  
会社の戦時中の状況については昭和三十一年八月一日る。に発行された会社経歴書から引用する事にする。
『「国産ミシンの発達は、国民が国産品を愛用し、製造業者また世界水準を行く性能のミシンを生み出さればならない。」の信条は、日本ミシン製造株式会社々長安井正義と完全に一致し、互いに肝胆相照し前者(安井正義)は製造に後者(西村源二郎)は販売に邁進、着々地歩を固めました。昭和十八年、家庭用ミシンの製造が禁止された時は軍被服廠の委嘱を受け、関係工場へのミシンの納入、修理、軍部衣服の製作、衣服の修復などを引受ました。』とある。
ミシンの納入、修理は日本ミシン合資会社、衣服の製作、修復等は合資会社日本服装が夫々担当している。日本服装、日本ミシン女学院の当時については、松尾の手記を参考に推測したい。

戦時中は製鋼業、機械工業、繊維工業などは惨脩たる状態で、殆ど生産活動は停止していた。その影響は、函館でミシン販売業を営む日本ミシン合資会社、被服業を営む合資会社日本服装の営業活動にも多大な影響を与えていたのだが、いかなる悪条件下にあっても従業員に対する給与の未払い、遅配などは起こらなかった。従業員の生活は確実に守られていたのである。
苦しい時代ではあったが、源二郎の才覚で、戦争中でありながら全国各地の大小ミシン関係製造会社に接触し、ミシン製造に必要な機材、部品などを調達、仕入し、源二郎を始めとする従業員の技術により、それらを組み合わせ、
昭和18年日本服装技芸卒業
昭和18年日本服装技芸卒業  
会社独自のアッセンブルミシンを製品化し、販売し続けたのである。又、長い配給統制下にあって、衣服生活は底をついていたが、学院経営などを基軸にして軍部衣服の製作、衣服の修復などにより合資会社日本服装は収益を確保し続けたのである。戦時中ではあったが資金回転は正常であった。
一方、戦時中の一時期を西村昌之が回想する。 
「函館中学時代の或る冬休みに、戦争中ですが、父に同行させられ、修学旅行等、もうないのです から(戦争中、益々風雲急な折ですから)岩手県の水沢の鋳物の産地にミシン脚の仕入、新潟の三条市にはミシンのパーツ、ボビンケース中釜の仕入、鋳物の産地桑名、東京の小金井の蛇の目ミシンにも。更に浜松・名古屋ではミシンのパーツ、テーブルの仕入、大阪など部品メーカーや問屋など数十件廻り歩いた記憶があります。
勿論、ブラザーの本社にも御邪魔し、当時の上田営業部長の自宅にも御邪魔した記憶があります。伊勢神宮にも生まれて初めて参拝し神々しい気持ちになったのを覚えております。」
西村昌之の回想は当時の商品仕入の仕入先を知る唯一の資料である。 
昭和十六年、源二郎の長男、西村昌之は庁立函館中学校の最終学年勉学中で、昭和十七年三月同校を卒業する。同じ学年に板垣周一、高橋彦弥が居た。ついでながら佐藤羊昭は昭和十一年卒業、大沢清躬は昭和十五年卒業、中原一夫(定時制、昭和二十七年卒業)などが居り、その他にも同校卒業者には、池浦禎、飛内好郎、板垣俊資、滝本武州(函館支店)などが居た。卒業後、進学などそれぞ れの道を歩むが、会社最盛期には会社の中核となって社業に尽力するのである。  又、当時の臨時用員の中には庁立五稜中学在学中の者もいたが姓と名が一致しないのでここでは省略 することとするが創業時代の貴重な一員であった事は確かである。その他には学院教師の中に大森服装学院卒業の白石一義が居た。本人は戦時中の学院を支えたが戦後は当社を退社し、函館市千代ヶ岱町にフレッシュ洋裁女学院を設立し、学院長となり洋裁技術の発展に尽力するのである。源二郎の才腕は戦時中であっても衰える事なく将来の会社発展の基礎を創り出すのである。 

太平洋戦争突入はミシン業界にも多大な影響を与え軍需増産に殆ど切り替わり死力を尽くすようになったがブラザーだけは細々ながらミシンの製造を中止することはなかった。「ブラザーの歩み」はその間の事情を次のように記す。 
『間もなく戦争の激化による資材不足から銑鉄、鋼材、油など、あらゆる必需物資が割当配給となり、一方、価格はいわゆる○価格(公定価格)によって厳しく規制され、経営は苦しくなるばかりであった。昭和十八年に至り家庭用ミシンの製造が実質的には禁止され、多くのメーカーはミシンの生産だけでは経営困難となり相次いで軍需品の下請け工場に転換した。そして、ミシン業界は否応なく軍需産業一本に駆り立てられて行ったのである。
然し当社は技術的優秀性によって被服廠の継続的受注を確保し、会社をあげてミシン報国の念に燃えながら昭和二十年五月の大空襲によって生産設備を失うまで、ともかくミシンの生産を続行することが出来たのである。この間、戦火のなかにあっても絶えず新製品開発の研究を進めていた。…』

当時のブラザーミシンの価格 
         家庭用ミシン              十五種七〇型手廻し台付        一四〇円四〇銭             
                               一ケ抽出付                 一六二円  
                               十五種キャビネット             二二六円八〇銭
          家庭用ミシン             十五種八三型手廻し           一八三円四四銭 
                               一ケ抽出付                 二二三円六〇銭   
                               三ケ抽出付                 二三八円六〇銭
                               一五種キャビネット             三一四円O八銭

が公定価格であり月間売上台数三〇〇台として換算して約五万円位が会社全体の売上高であった。 三〇% の仕入原価、約一万五千円を差引、三万五千円の粗利益を確保していたものと推測される。

従業員の給与は筆者の家族の給与辞令を参考としてみる。(戦時中、昭和十四年から二十三年までの給与辞令を我が母は保管していた。)
飛内松尾、月給壱百弐拾円。飛内恵美子、月給九拾円が現在確認出来る当時の(昭和十八年〜二十年頃) 一般的給与の基本であったところから、社員数十人程度の人件費の総額は五千円程度と推測されるのである。その他、諸経費を差引経常収支、月額二万円程度は確保していただろうと推測する。勿論、夏、冬の賞与の支給も確保されていた。

 

西村家族昭和19年
昭和19年の西村全家族   

因みに飛内松尾の昭和二十年六月の賞与は弐百四拾円、飛内恵美子の同年同月の賞与は壱百八拾円であった。(日本ミシン合資会社 代表社員 西村源二郎印) 
このように社員に対する賃金支払は社会の経済の流動性、著しく厳しい生活環境の中にあっても途切れることなく続けられた。当然の事と言えば当然の事ではあるが、源二郎の社員を思う深い愛情の表れであり「事業は人なり」にも通ずるものがある。

源二郎の家族環境については詳細を書かず子息の生年のみを記すこととする。
長男  西村 昌之  大正十四年
長女      恭子  大正十五年
次女      洋子  昭和 六年
四男      成之  昭和 十年
四女      圭子  昭和十二年
五女      優子  昭和十四年
五男      康之  昭和十六年
六男      克之  昭和十八年
七男      俊之  昭和十九年
九男      充之 昭和二十二年

それぞれ大正から昭和の激動期に生誕し、戦後の混乱期に成長した一族である事に特色がある。まれに見る多産系の家族と言えるが、以後、西村保全会を組織し一族の協調繁栄を祈った父親としての源二郎、母親、とよ の子育ての力量に感服するものである。
 

 

 

 

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