第四部 戦火篇

第三章 太平洋戦争突入前後




 昭和十四年一月、平沼騏一郎内閣が成立したが中国との戦争の長期化は動かし難い情勢になり大本営も「長期攻囲」の方針を決定せざるをえなくなった。 

このような情勢の中で日華事変開始当初は日本に好意的でなかったドイツが一九三八年に入ると中国から軍事顧問団を呼び戻し、満州国を承認するなど、しきりに日本との友好関係強化をはかった。それは近い将来に起こる可能性のある英仏との戦争に備えて英仏、特にイギリスを牽制する役割を日本に期待したからである。こうしてイタリアを加えた三国同盟締結の動きが次第に高まって行く。三国同盟締結には米内光政海相を初めとする海軍が最も強硬に反対した。然し、ドイツは日本との同盟交渉が、遅遅として進まぬため、ひそかにソ連と不可侵条約締結の交渉を進めていた。それは英仏を牽制しながら、次の目標であるポーランド進出計画を実行するための布石であった。条約は八月二十三日、モスクワで調印されただちに全世界に伝えられた。日本政府にとって、それは全くの寝耳に水の衝撃であった。国際情勢の見通しを失った平沼内閣は八月二十八日総辞職した。八月二十日、外蒙古との国境に近いノモハンで大規模な戦闘が始まったがソ連の重厚な機械化部隊の反撃により日本軍の死傷者、約一万七千名、第二十三師団は殆ど全滅した。九月十六日、ソ連との停戦協定が成立し事件は解決を見た。

八月二十七日、阿部信行内閣が成立する。阿部内閣の課題はアメリカとの国交の調整であり、親英米派の海軍大将の野村喜三郎が外相に就任し、アメリカとの調整に当たることにした。アメリカは既に同年七月二十六日に対日経済制裁の観点から、日米通商航海条約の廃棄(一九四〇年一月二十六日発 t3 効)を通告していた。日華事変を進めるため、鉄鋼、石油など、必需物資の多くをアメリカに依存しなければならなかった日本は、なんとかして日米関係の悪化を防ぎ新しい通商条約を締結する必要にせまられていたのである。クルー駐日大使は日本の国交改善の要請にかなり好意的であったが、アメリカ政府は冷啖であった。日本が積極的な大陸進出政策を取る以上もはやアメリカには対日協調の予知は全くなかった。こうして通商条約廃棄は発行し、新しい条約も結ばれぬまま終わっためである。当然の如く国内は物資不足となり、物価騰貴を呼び起し国民の生活は次第に苦しくなって行く。  「民心は対外通商政策、中国の戦争に由来する食糧、その他物資状態の悪化、特に物価の高騰と政府の配給政策の失敗の影響を受けている・…」

昭和十五年一月十四日、阿部内閣はわずか四ヶ月半で崩壊し、大命は以外にも米内光政海軍大将に下ったのである。十五年一月十六日米内内閣は発足した。然し、陸軍は対英米協調を脱し切れない米内内閣打倒のため公然と動き始める。十五年七月十六日畑陸相は単独辞表を提出し、米内首相の後任陸相推薦の要請に対し、陸軍三長官会議は推薦を拒否し、ここに陸軍の思惑どおり米内内閣は倒れるのである。 日本は、三国同盟、南進、そして対英米戦争へとまっしぐらに進みだそうとしていたのである。                                        米内内閣の後継のバトンは昭和十五年七月十七日、近衛文麿に渡った。第二次内閣であった。

 

近衛内閣は軍部の対外的積極方針と政治革新の主張とを基本の柱としてスタートを切ったのである。近衛は組閣に当たって外相、海相、陸相を松岡洋右、吉田善五、東條英機を就任させた。東條英機は関東軍憲兵司令官、関東軍参謀長を歴任し、陸軍内部の主戦派であった。彼が陸相として就任した事は近衛内閣の暗い運命を暗示していた。近衛は陸軍の主張して来た外交路線を大幅に取り入れたものであり軍部独走を抑えるどころか軍部と共に行動する方向を取り入れたものであった。 第二次近衛内閣の新体制理念を具体化したものに大政翼賛会の成立がある。国民運動組織に力点を置いているのが特徴で一君万民肇国の精神(建国の精神)というような右翼にも軍部にも抵抗なく受け入れられる言葉を使いながら政府、軍部、議会以外の国民層の結成を強調して、国民の結集をエネルギーとした政治革新の意図を暗示していた。これは近衛の抱く軍部の抑制と政治指導の奪回を婉曲に表現したものであった。しかしながら、この新体制運動は最終的には軍部の圧力などにより初期の意図するところから遊離した軍部と政府の定めた戦争体制に国民を無批判に動員するための組織となって行く。こうして大政翼賛会は十五年十月十二日発足したのである。 昭和十五年十一月十日から十四日まで全国各地で紀元二千六百年を祝う祝典が行われた。神武天皇が橿原の宮で初めて即位した時から紀元二千六百年に当たるとし国民の愛国心を盛り上げようとしたものであった。祝いの済んだ十一月十五日、「祝い終わった。さあ働こう」という大政翼賛会のポスターが一斉に貼りめぐらされ臣道実践が呼びかけられた。

 

 この年、(昭和十五年)九月二十七日、日独伊ゴー国軍事同盟が調印されている。当時、ドイツは英本土猛爆にも拘わらずイギリスを屈伏させる見通しが立たず日本に接近するようになったのである。九月二十六日の枢密院審査委員会では三国同盟条約が付議、可決された後、。この日の夜の本会議に於い U て満場一致で可決された。しかし委員会の討議では同盟の締結がアメリカを刺激し、対米関係を悪化させることを憂いる声や戦争が長期化した場合の資源、取り分け石油資源調達の見通しについての質問が多くドイツに対する不信やドイツの斡旋による日ソ国交調整を疑問とする質問もあった。このように基本的な点について意見が分かれながらも三国同盟の締結は最終的に決定され、九月二十七日、ベルリンに於いて日独伊三国同盟条約が締結されたのである。 

出征
出征する若者を見送る会  


日本はヨーロッパに於ける新秩序建設についての独伊の指導的地位を認め且つこれを尊重し、そのための三国の相互協力と更に締結国の何れか一国が現にヨーロッパ戦争、または日華紛争に参加していない一国(アメリカ)により攻撃された時は、あらゆる政治的、経済的、軍事的方法により相互に援助することとしたのである。このように三国同盟の締結と共に日本のアジアへの進出はアメリカを次第に硬化させる原因となった。 このように三国同盟はアメリカを一層反発させ、十月になってノックス米海軍長官は三国同盟の挑発に応ずると演説し、太平洋艦隊の強化に乗り出した。さらに極東在住のアメリカ人に引き楊げを勧告し日米関係は緊迫して行った。一方、近衛は勿論、国内でも対米関係の悪化を望まず日米交渉の妥結を望む声が多くなりつつあった。

 日米交渉は元外相で、海軍大将の野村吉三郎駐米大使とハル国務長官との間で折衝が重ねられていた。昭和十六年四月十六日、日米諒解案が作られた。その中心となる条項は、日華間の協定による日本軍の中国撤退、中国の満州国承認、蒋政権と汪政権の合流、などで、その中にハル四原則があった。 一、すべての国家の領土保全と主権の尊重 二、内政不干渉 三、通商の機会均等を含む平等原則四、平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状を撹乱しないこと。の四原則であった。松岡外相はこれらの諒解案を大幅に修正してアメリカに提出したが、六月二十一日、アメリカの公式対案が提出された。 「三国同盟による援助義務」を削除し、中国問題については「善隣友好」「主権と領土の相互尊重に関する原則と、その実際に矛盾しない条件の提出」「中国の満州国承認の削除など」であり口上書がつけられ、日本にナチス、ドイツとその征服政策を支持する指導者がいては実質的な成果をおさめることは出来ないと松岡外相を非難した。松岡は激怒した。松岡は対米関係の悪化を望まず日米交渉の妥結を望む内閣全体の意向から浮き上がって行く。 そしてアメリカ側は日米の交渉とは別に、アメリカ、イギリス、中国、オランダのいわゆるA、B、C、D、の結束を固め対日包囲網を固めると共に、日本を開戦以外に、出口のない袋小路に追い詰めて行く。

 六月二十一日の米国案については七月十日の連絡会議で松岡外相はいちいち反論した。昭和十六年七月十六日、松岡外相を辞任させるべく近衛内閣は総辞職した。松岡外相は総辞職に意外であったがやむをえず辞職に同意した 昭和十六年七月十八日、第三次近衛内閣が成立した。外相には豊田貞次郎が就任したが前内閣の主要閣僚はそのまま留任した。この内閣の課題は、その登場の経緯からいっても日米交渉の促進にあった。近衛はルーズベルトとの会談が対米紛争の解決のための最後の手段と、方針を固めていたのである。しかし、大本営政府連絡会議に於ける陸海軍両統帥部の方針は違っていた。 一、対仏印進駐の遂行 二、南方及び北方の戦備の強力確実な実行 三、三国同枢軸精神に背馳しないこと。 この要求に従うことは日米交渉打開を掲げる内閣の死命を制することであった。事実、アメリカは七月二十五日、日本の南部仏印進駐通告に対する報復として在米日本資産の凍結を公布し、八月一日対日石油輸出を完全に禁止したのである。近衛第三次内閣はこのようにして軍部からは突き上げられ、アメリカからは追い打ちをかけられて、対米戦争か否かの問題が極度に煮詰まって来たのである。 昭和十六年九月六日開戦か否かを協議する御前会議が開かれた。

出席者は、近衛首相、豊田外相、田辺内相、小倉蔵相、東條陸相、及川海相、杉山参謀総長、永野軍令部総長、塚田参謀次長、伊藤軍令部次長、原枢密院議長、富田内閣書記官長、武藤陸軍軍務局長、岡海軍軍務局長、鈴木企画院総裁の十五名であった。 そして次の「帝国国策遂行要領」を決定した。 一、帝国は、自存自衛を全うするため、対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に、概ね十月下旬を   目途とし戦争準備を完整す 二、帝国は、右に並行して、米英に対し外交の手段を尽して帝国の要求貫徹に努む三 前号外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於いては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す これによれば十月上旬までに対米(英蘭)交渉妥結の目途がない場合には対米開戦を決意すると言うことであった。米の石油の対日禁輸実行は日本を窮地に追い込んだ。日本の石油の手持ち量は一年半で、消費し尽くす状態であり、軍需資材の多数が日々枯渇の一路を辿っていた。

統帥部はこの様な状態打破のため、「機を失せず」「積極的作戦に邁進」「死中に活を求むるの策に出ざるべからず」と主張していたが、近衛は相変わらずルーズベルトとの直接会談に期待をかけていた。 しかし、十月二日に野村大使に手交わされたハル国務長官の回答は元々の原則に立ち戻る事を要求するものであり、「日本の中国および仏印からの全面撤兵」を要求し、且つ「三国同盟条約についても骨抜き」を要求したものであった。

 野村大使は十月三日。  「日米交渉はついにdead lockとなれる感あり。世界政局に大いなる変化ある場合、及び日本が政策を転向する場合以外、対日外交は不変なりと思考す」と豊田外相に具申した。 この前後に至ってようやく近衛もその自信を喪失し始めていた。近衛は木戸内大臣と懇談したが、 「軍部に於いて十月十五日を期し是が非でも戦争開始ということになれば自分には自信なく進退を考える外なし」と漏らしたのである。

 十月二日以降、十六日まで、近衛、陸軍、海軍などの戦争開始への責任のなすり合いの末、近衛も、東條も皇族内閣説を持ち出した。それが木戸内大臣の反対に合うや十六日近衛は内閣を投げだした。十月十七日、木戸内大臣の発議により東條英機陸相を後継首相に推した。東條自身は皇族である東久蓮宮を推していた。木戸自身の考えは東條が陸軍を抑えて開戦の決意である「帝国国策遂行要領」を 「白紙還元」することを期待していたのである。十月十八日、東條内閣は成立した。内閣の当面の課題は「白紙還元の御定」に従って国策の再検討を行うことであった。十月二十三日から三十日日にかけて大本営政府連絡会議が開かれ種々の間題の検討を行って三十日終了したが結論は次の通りであった。

一、戦争は極力避け臥薪嘗胆する 
二、開戦を直ちに決意し政戦略の諸施策を、この方針に集中する 
三、戦争決意のもとに作戦準備を完整するとともに外交施策を続行してこれが妥協に努めるという三つの案が結論であった。

東條内閣の外相兼拓務相である東郷茂徳は第三案に基き来栖三郎前駐独大使、野村吉三郎大使に命じて米側と最後の折衝を行わせたが米の日本に対する不信感は最早決定的であった。
十一月二十六日、ハル国務長官がルーズベルト大統領に提案し、結論として日本側に提示したいわゆるハルーノートの内容は次のようなものであり、日米交渉当初の米側の要求の最大限を再び提示してきたものであった。特に 
一、中国および仏印より日本の陸海空軍および警察の全面撤退 
二、日華近接特殊緊密関係の放棄 
三、三国同盟の死文化 
四、中国における重慶政権以外の一切の政権の否認を要求していた。
これは両国の交渉がこれまで進めてきた妥協を全く認めないものであった。ハルは「日本は、既に戦争の車輪回しはじめている」ことを知っていたのである。

東郷はハルがわざと日本の承認しがたい事項を、承認しがたい形態で応答してきたのではないかと、強い失望を感ずると共に戦争開始を主張する統帥部と全力を尽くして闘った熱意を一挙に失ったのである。連絡会議は、二十九日、最早、なんの論争もなく開戦を行う御前会議原案を決定、十一月一日の御前会議は、「米英蘭に劃戦す」と決定したのである。十二月八日、択捉島に集結していた日本海軍の機動部隊は米太平洋艦隊の主力艦隊が終結するハワイ真珠湾を奇襲した。太平洋戦争の始まりであった。

日本はこの真珠湾攻撃によってアメリカの戦艦五隻を撃沈、三隻を撃破し、外に多くの艦艇を撃沈または撃破した。また撃墜及び地上撃破を含めて航空機一八八を失わせ、二九一機を使用不能おちいらせ戦死者は二四〇〇余名に及んだ。これに反し日本側の損害は特殊潜航艇五隻の外に航空機二九機、戦死者一〇〇名以内と僅少にとどまった。戦果はまさに嚇々たるものがあった。 八日午前六時(日本時間)、「帝国陸海軍は本八日未明、西大西洋において米英軍と戦闘状態に入れり」という、ごく短い大本営陸海軍部発表が行われた。この発表はただちに電波に乗って臨時ニュースとして国民に伝えられ、日米交渉の行詰まりで重苦るしい雰囲気に陥っていた国民に大きな衝撃を与えた。

 午前十一時四十五分、宣戦の証書が発せられ、正午に全国に放送された。証書は、米英が中国の残存政権(蒋介石政権)を支援して東亜の禍乱を助長し、平和の美名に隠れて東洋制覇をはかり与国を誘って日本の周辺で武備を増強し、経済的圧迫を強化して日本の生存を脅かしている。このまま事態が推移すれば東亜安定にかんする日本の積年の努力は水庖に帰し日本の努力は水庖に帰し日本の存立も危うくされるので「自存自衛」のためやむをえず起ったものであると国民に説いていた。

以上、長文となったが日本の運命を決めた一時代の流れを記し書き残すことにした、

 

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