第四部 戦火篇
第二章 創業の道

 




 昭和十一年が創業の年で、三十七歳であった。
独立に当たっては本人自身非常に慎重であり、「西村光源覚書」に次のように記している。

一、其后(時期ヲ見テ充分二準備ヲ整へ独立ノ旗ヲ上グペシ。軽挙妄動ハ禁物ナリ 
     併シ充分将来無限ノ発展ヲナス事ヲ得ル方法に依リ着手スベシ。
一、独立ヲ急グ勿レ

独立に慎重であった源二郎がミシンの販売事業を思い立ち、辿り着いたのは次の様な経過があった。
源二郎自身は丸村コドモ印製綿所時代から、ミシンが将来、洋裁の技術上、画期的な機器になるであろうと予測していた。又、ミシンが家庭の必需品になるのは、最早、時間の問題である事も感知していた。 

シンガーミシンが日本に上陸したのは明治三十三年の事であり、それ以来シンガーミシンが日本の市場を席巻していたのだが、一方に於いてミシンの国産化を目指す心ある技術者が居た。その一人が安井ミシン商会を設立した安井正義である。彼は昭和七年、多年の夢であった家庭用本縫ミシンの第一号機を誕生させたのである。ミシンの国産化の悲願を立ててから十一年目の事であり、ブラザーミシンの誕生であった。源二郎は時々名古屋や岡崎の製綿業者を訪ねる事があった。特に岡崎の大塚製綿機製作所などでは最先端の製綿機械の製造過程を見ることが出来、参考にすべきことが多大であった。布団のカバー縫製のためのミシンについても話題になり、名古屋の熱田区でミシンの修理と部品の製造を専業とする安井ミシン商会の存在を初めて知ったのである。安井ミシン商会はこの時、昭和五年、(一九三〇年)、まだミシン本体の製造迄に至っていなかった。源二郎が安井ミシン商会と接する事になるのは家庭用本縫ミシンが誕生する昭和七年の事であり、この頃、源二郎は未だ丸村コドモ印製綿所の社員であり雌伏の時であった。雌伏の時は四年続いた。 
この頃、函館では、シンガーミシン函館営業所のミシン貸出の提供により、市の社会課主催で、ミシンを使用しての洋裁の無料講習会が、しばしば開催されていた。ミシン洋裁の技術習得後、市の開設する予定の授産所に於いて勤務する要員を養成するのがこの講習の目的で、大妻技芸学校の教師が指導に当たっていた。講習科目はI、機械使用法、二、製図及び裁断法、三、仕上げ洋裁、で、仕上げするものは、初めは割烹着、エプロン、女児簡単服、女児帽子などの仕上げ易いもの。次に少し進んで、下着類、ホワイトシャツ、ズボン下、ソフトカラー、エプロンドレス、男子学生服などであった。受講者は比較的生活に余裕のある中流家庭以上の教養ある婦人達が主であり年齢も十七歳から五十七歳位迄で多岐にわたっていた。

源二郎は一度、この講習会を見学した事があった。製綿所でもミシンを使っていたが、工業用ミシン の充実した雰囲気とミシンから伝わる熱気に心底驚いたのであった。従来の手作りの裁縫にミシンという革命的機器が加わり洋裁の技術が急速に進化している事を源二郎は肌で感じたのであった。源二郎は何れ自身がが、この機器を取り扱うであろうかすかな予感を覚えながら、安井ミシン商会を頭の片隅に刻みこんでいたのである。 

昭和十一年の初め、源二郎は独立の時が来た事を感じた。独立資金は在社中に充分蓄えていた。源二郎は丸村コドモ印製綿所を退社する事を決斯した。妻の、とよは、彼の良き理解者であった。源二郎は少年時代から、製綿所の創業者である河村織右工門に河村家の身内同然に育てられ、成人してからは、現社長の側近として、その辣腕を如何なく発揮し、会社の隆盛を築いて来たのであった。源二郎は会社の柱であったのだ。 源二郎はその力を会社に捧げながら、将来の独立に向け徹底した経営のための知力を身につけて来たのである。今こそその全智全能を賭けて独立する時であった。自身、その覚書の中で、  
「物質ヲ欲スルナ 無形ナルモ信用ト智ヲ得ン事二勉メヨ」
と書き記している。
源二郎は、それを忠実に実行して来たのであった。会社退社は全社員驚き、去り行く事を惜しんだ。「河村織右工門創業七十年回顧録 コドモわた株式会社」には短文ながら次のように記されている。  
「西村源二郎は、当社の無限社員として、また、会社創立以来の重役として大なる功績があったが昭和十二年に退社、独立してミシン販売事業に着手することになった。明治四十一年、九歳の時河村家の一員として育てられ社業に尽庫してきた惜しい人物である。」
三十年間のコドモ印製綿所での勤務であった。 

千歳町店舗は横浜地所株式会社所有の土地に河村関係会社が建築した建物であり、源二郎が河村との過去の繋がりで借りた賃借店舗であった。当時としては、立ち並ぶ商店街の一角を占め新事業開始に相応しい規模の建物であった。店はブラザーミシンを店頭に陳列し、奥には畳を敷いた一坪位の事務所の他に、同じ一坪位の部屋がが有り、工作機械である旋盤が据え付けられ、ミシン製作のための部品が格納されてあった。特に印象にあるのは西日を避けるために、何枚かのブラザーミシンのポスターを利用したカーテンを作り、黄昏時、そのポスターを曳いて西日を避けていた。それが上手に宣伝効果をあげていたのが記憶に残っている。

西村源二郎の会社、創業日は、昭和七年八月一日が社内での通説である。
しかし実際に稼働したのは昭和十一年八月であろうと推察される。筆者は法的な資料、或いは会社の残存資料を探索したが、確実な創業の時期に到達する事が出来なかった。昭和七年は源二郎がそれまで生活していた丸村コドモ印製綿所の社宅を離れ函館市五稜郭町十三番地に自宅を新築した年である。
源二郎はこの時期を独立の旗を掲げた時期と決めたのかもしれない。然し、源二郎は昭和九年三月二十一日に発生した函館大火の際には丸村コドモ印製綿所の総支配人として采配をふるっていたのはその時の資料により明らかである。
従ってここでは昭和十一年八月が漠然としているが会社発足の時期として考えたいのである。地元紙函館新聞の昭和十一年の八月二十五日から十月十五日にかけて次のような社員募集広告が頻繁に掲載されている。この広告はこの時期にのみ、しばしば掲載され、草創期の社員確保に全力を傾注しているのが伺えるのである。



男女社員募集

 ニッポンミシン


・国産部分品販売修繕無料 
 
  五稜郭一三(史蹟館横) 


   日本ミシン株式会社 

       電話 三一六九
 


遡って昭和十一年五月二十六日には



電話買度し御報乞う

 五稜郭史蹟館横

   日本ミシン株式会社  

 


      とある。筆者はこの様な資料を確認しつつ実質的な創業を昭和十一年と決断したのである。

 当時同業者は函館の銀座通りに「シンガーミシン会社」東雲町電停前に「株式会社パインミシン裁縫機械製作所(蛇の目ミシン工業)」、若松町に「丸山ミシン店」が営業をしており、ブラザーミシンを主力に押し出した日本ミシン株式会社の進出は業界への殴り込みであり源二郎自身、心に期するものがあった。
更に昭和十二年三月二十三日には   
 


外国品に勝る(ニッポン)

 外国品の半額

御使用者には無料で
伊勢参宮の大特典あり五回・三圓の月賦に応ず
五稜郭一三(史蹟館横)
   日本ミシン株式会社  
電話 三一六九

 


              そして次のような新聞記事に出会うのである。



日本ミシン 

 伊勢参宮招待


非常時克服は外国品の輸入防止にありとし 優秀国産ミシンの完成に全生命を献じ努力し ている日本ミシン会社はその念願達成され名 実共に外国品に優る国産ブラザーミシン(従 来のニッポンミシン)の完成を遂げ飛躍時代 を現出した。 会社函館分店たる五稜郭日本ミシン会社にて は、これが謝恩のためブラザーミシン愛用者 優待として十三年一月より四月に至る間、伊 勢神宮、関西観光の催しをなすとのことなれ ば、この壮挙は今より大いに期待され断然好 評を博している。
尚、詳細は三一六九番に問い合わされしと

 


この記事の中で  
「会社函館分店たる五稜郭日本ミシンは・・・・」
とある記事の意味について筆者はもとより、これを読む人は疑問の思いに立ち至るのではないか・・・
『 創業時、当社は、ブラザーミシンの製造元である日本ミシン製造株式会社(名古屋所在)の関東以北に於ける販売権を与えられ、「日本ミシン」の商標を使用しながら日本ミシン製造株式会社の支店として出発したと推察される。従って一般的な商法の法規に基づく会社設立とは趣を異にしているのである。筆者は創業時に遡って法的登記事項を調べたが函館法務局に於ける会社設立登記事実を明確に確認する事は出来なかった。
支店であれば地方法務局に届ける必要はない。日本ミシン製造株式会社の本店所在地(名古屋)にて支店登記すればよいのである。
昭和十四年四月十二日発行の函館商工会議所発行の「函館商工名録」の会社名簿の中では「日本ミシン株式会社函館支店」と記録されている。又、現存する当時の資料に使用されている会社印(角印)には「日本ミシン株式会社函館支店」として刻印されているのが明確に確認出来る。  「世界に挑むブラザーの歩み」(昭和四十六年四月三十日、ブラザー工業株式会社刊)によれば  
『名古屋に販売拠点の大池営業所を開設 
 日本ミシン製造株式会社として発足した当初、当社のミシンは関東以北に於いては、販売権を与えていた日本ミシン株式会社によって「日本ミシン」の商標、一方、静岡以西では本来の「ブラザーミシン」の商標という変則的な形で販売されていた。このため、とかくまぎらわしい出来事も多かったので昭和十一年、販売権を取り戻すと共に従来の不合理を是正し、全国業者を一丸としたブラザーミシンの販売網を確立することとした。 
 そして昭和十一年四月、名古屋市中区大池町に初めて「ブラザーミシン大池営業所」を開設し、ここを国内販売活動の本拠としたのである。これが後にブラザーミシン販売株式会社の誕生につながるわけである』と記されている。
そして、当社に於いては昭和十一年四月に販売権、商号が取り戻されたにも拘わらず「日本ミシン株式会社」の商号はそのまま西村源二郎を代表とする法人名として半永久的に使用される事になる。源二郎は、優れた哲学者でもあり、わが企業を世界的な発展の段階でとらえていた事でもあり「日本ミシン」の商号は相応しいスケールの商号であった。 
ブラザーの支店の組織から離脱し独自に正式な法人組織として活動を開始するのは昭和十五年以降の事であり「日本ミシン合資会社」(代表者西村源二郎)が当時の正式な法人名となるのである。また関係会社として、昭和十八年に「合資会社日本服装」(代表者西村豊)を設立するのである。
この間の事情を昭和三十一年八月一日刊の営業経歴書は記す。 

 『現在経営責任者西村源二郎は北海道に於て繊維関係会社に関係している間に、当時滔々と輸入されて居りましたシンガーミシンの波にもまれ苦難の道を歩みつつあった国産ミシンの将来に着目して昭和八年業界に入り、昭和十年一月早くもブラザーミシンの北海道地区の販売を委託されました。 「国産ミシンの発達は国民が国産品を愛用し、製造業者また世界水準を行く性能のミシンを産みださねばならない。」の信条は日本ミシン製造株式会社社長安井正義氏と完全に一致し、互に肝胆相照し、 前者は製造に、後者は販売に邁進、着々地歩を固めました。昭和十八年、家庭用ミシンの製造が禁止されました時は軍被服廠の委嘱を受け関係工場へのミシン納入や修理を引受けました。』とある。
 これは創業時より昭和十八年までの動きを簡略に書き記したものである。従って創業時の基幹となる会社は次のようになる。

1. 法人名 日本ミシン製造株式会社 
本店所在地 名古屋市瑞穂区堀田通
代表者 安井 正義
設立年月日 昭和九年一月十五日
法人名 日本ミシン製造株式会社函館支店 (通称、日本ミシン会社)
支店所在地 函館市五稜郭町十三番地
支店代表者 西村源二郎
設立年月日 昭和十一年八月一日



2. 法人名 日本ミシン合資会社 (日本ミシン製造株式会社より分離独立)
本店所在地 函館市五稜郭町十三番地
千歳町出張所 函館市千歳町二七番地
事業目的 ミシン製造と販売と修理。被服縫製と技芸教授業
代表者 西村源二郎
分離独立年月日 昭和十四年八月一日



3. 法人名 合資会社日本服装 (日本ミシン合資会社より分離独立) 
本店所在地 函館市五稜郭町十三番地
日本ミシン女学院 函館市千歳町二七番地
事業目的 被服縫製と技芸教授業
代表者 西村 豊
設立年月日 昭和十八年四月一日


現在確たる資料は存在せず残存資料より整理したものである。技芸教授業の日本ミシン女学院の経営は昭和十五年十二月より昭和十六年三月にかけて活発化する。この期間、日本ミシン女学院の生徒募集が頻繁に行われる。函館新聞に掲載された広告は次のようなものであり、掲載回数も週二度、一ヶ月八回を超え学院経営に重点を置いた様子が強く伺えるのである。  昭和十六年五月一日より学院経営に拍車がかかる。時局は切迫していたが、四月に学院は日本ミシン合資会社より分離独立し、合資会社日本服装の一部門として活動を開始していた。内容は次の通りであった。教授陣の中心に飛内松尾が居た。「まつを」を「松尾」にこの時から改名し、以後、対外的に「松尾」を名乗ることになる。これは源二郎の配慮によるものであった。 「 飛内まつを」は、昭和十四年四月、生活の糧を求めて郷里の青森県下北郡から子女を伴い移住して来ていた。その寄寓先が、西村源二郎が経営する函館市千歳町二十七番地に所在する店舗の二階の貸し間の一室であった。移住後の四月の後半よりそのまま源二郎の店舗に勤務する事になった。源二郎は、人を見る確かな目を持ち、この時も、「まつを」の容貌、礼儀正しさなどから、
飛内松尾
飛内松尾右より二番目 S22年頃  

「まつを」の人柄を知ると共に己の少年時代と相似しているのを感じていたのかもしれない。明治、大正、昭和の時代を生き抜く者同志に共通する精神を共有していたのかもしれない。「まつを」この時、四十六歳であった。「まつを」が、ミシン技術、洋裁技術をそれまでの人生の、どの時点で取得したものか不明だが、ミシンの仕様説明、仕立部、学院勤務、などで良く源二郎の期待に応えた。その過程は、飛内松尾回想録「光陰矢のごとく」に記されている。

学院経営の趣旨は次の通りであった。 
学院の経営目的は洋裁技術の普及発達に努力貢献する事であり、習得後は夫々家庭人として、あるいは職業洋裁家として習得技術を大いに活用する事に目的を置く。学院の特色は短期間に小額の費用で直ちに役立つ洋裁技術を修得させる事を目的とする。修業年限は満六ヶ月]とする。教授の内容は洋裁の基本的学科、技術より始めて婦人、子供服は勿論の事、男子服の初歩までを修得せしめ、併せてデザインの研究実習を行い洋裁全般を修得させるという内容であった。幸い会社の本業がミシン販売であったので使用ミシンは充分のゆとりをもって設備する事が出来た。学院の評判は上々であった。新聞広告を次のように掲載している。 
  



 洋裁専門教授 

 本科  六ヶ月 
 速成科 三ヶ月

入学案内送呈(寄宿舎設備あり) 
         函館市新川町電停前 

            日本ミシン女学院



世界に輝くブラザーミシン
           函館市五稜郭一三番地 

            日本ミシン会社

 





 昭和十五年十二月十三日版


 ミシン買うなら  
 公定価で!
ブラザーミシン
函館市新川電停前 
日本ミシン会社           
電話三一六九番

 ----- △ -----           

生 徒 募 集
入学期、科目随意

日本ミシン女学院             

 





 昭和十五年十二月より昭和十六年三月まで版


 洋 裁 教 授  
 ミシン使用法裁断法
婦人子供服縫製技芸
廃物厚生法一般  
入学随意、科目随意     
新川電停前

日本ミシン女学院
電話三一六九番

 


源二郎が自身で筆を使いながら学院規定をポスター用紙に書き込むのを筆者は見ている。松尾が文化服装学院の洋裁指導要綱を手にしながら製図の書き方。裁断法などを、黒板を使って生徒に指導しているのも筆者は見ているのである。「寄宿舎設備あり」としているが本格的学院経営の始動を感じさせる。然し、昭和十六年は太平洋戦争の開戦の年である。時局は切迫していた。

当時、函館市内には洋裁学校十校が存在し、技芸学院も三院あり、又、新川町電停近くにはミツワ洋服店も存在し、軍服などの調整業を営んでいた。洋裁技芸業は競い合っている現状であったが、ミシンの製造、販売を兼ねている当社は経営上、非常に有利であった。
 昭和十五年の後半より函館市に於いても次第に戦時色が濃くなって行く。国民精神総動員法が制定されたのは昭和十二年の事であったが昭和十四年四月函館市銃後奉公会と共同で「市民   戦時対応生活刷新新実践要綱」を制定した。この要綱は十五項目から成っているが、市民生活全般にわ たって極めて詳細に規制を加え、その事によって「全市民は益々自粛自戒、業務に精励し、隣保団結、市勢の伸長を図り愈々国策に順応して皇国の大躍進に寄与せねばならぬ。」との意図が込められていた。
女学院
戦時中の卒業式  

   これらの項目は市民に対する努力目標としての性格が強く、まず「毎朝神仏を拝し国威宣揚を祈る」と共に 「各自、身を修め、家を整え日々感謝の念を持って働く事。」
(第一)「寝食に規律節制を励行」「毎日適度の運動を行う」
(第二)「白米食を胚芽米、七分掲米、半掲米、或は玄食米に改める事。」「酒、煙草の類は今迄より少なくとも二ご二割程度の節約をする事」
(第三)「照明は適度にし」
(第四)「服装は簡素を旨とし、みだりに厚着をしない」
(第五)「家屋の新築、改築は当分見合わせる事」
(第六)「無計画、その日暮らしの生活を改め家計予算を立て家計簿の記入を励行する事」
(第七)「人を訪問する場合にはお互いに時間の空費を避けるため要談を簡潔にする事」
(第八)などの項目があった。
しかし、この様な項目は戦時体制の進展と共に急激に函館市民の生活を圧迫し、その内面から戦時下という意識の創出に大きな役割を果たして行くのである。
また「本市が敵の空襲を受けたと仮想した時、本市を災禍の中より救い、本市の保全を期する途は唯々市民の統制ある行動と郷土愛の精神より蓬出する協力一致の活動があるのみ」と隣保を中心とした防空演習が行われるようになって行く。
この様に時局は厳しい戦時の時にまっしぐらに突き進んで行くのである。


前頁
目次
次頁
 

 

 

 

inserted by FC2 system