第四部 戦火篇
第一章 戦火拡大

 




 昭和十二年七月七日、日本軍と中国軍が衝突した盧溝橋事変は、日中の対立を愈々深め中国全土への戦火の拡大に発展して行った。
内地の三個師団は、八月上旬から下旬にかけて続々華北へと渡った。  中匡側も軍を北上させて本格的抗戦を用意した。
 日本政府も軍部も、そのまま泥沼の全面戦争に拡大して行くとは夢にも考えていなかった。いわば日本の華北工作を受け入れようとしない中国に一撃を加え保定作戦を遂行する間に向こうから頭を下げさせようという構想であった。そこにみられる驚くべき中匡蔑視観は、中国が頑強な抵抗を見せれば、もう一撃もう一撃と戦争を拡大することになり泥沼にはまる危険を感じながらもそれに対するブレーキを不能にしてしまうのであった。  
八月には、上海に二個師団を派遣すると共に南京政府を反省させ屈伏させるために八月十五日、南京、 蘇州、杭州などへ海軍航空隊が渡洋爆撃を開始した。日華事変、支那事変の初まりであった。 この様な戦争の拡大に伴って日本の国際的孤立は深まる形勢にあったし、予想外の大兵力の投入は国内経済に大きな負担を与え早くも国家総動員体制への移行を開始しなくてはならなくなっていた。 
対中国との抗戦やら、停戦を目的とした和平交渉が決裂した昭和十三年一月十六日、当時の総理、近衛文麿が、
「爾後、国民政府を対手とせず」との声明を出して、正式に和平友渉の道を閉ざしてから事変は、長期戦に発展した。
 軍需動員の遅れから政府、軍部には、漸く焦りの色が見えてきた。ここに至って経済、国民一丸となって戦争に終結さるべき国家総動員法の登場が必至となった。それは既に十二年九月の議会に陸軍が提出を要望していたものであるが、戦時経済の帰結てあると同時に結局は「日本経済経済破滅への道」を法律によって拓いたものであった。
 国家総動員法案は、昭和十三年の第七十三通常議会に提案された。この法案は、「戦時二際シ国家総動員上必要アルトキハ」物資・生産・金融・会社経理・物価・労働など経済のありとあらゆる分野にわたって、助府が命令一本で、強制的に統制措置を実施し、さらに言論の統制、労働争議の禁止すら出来るというものであった。
 しかし、戦争の戦果の情報が流れる一方で、戦争の影響は人々の生活の上に次第に重くのしかかりはじめて行く。外国製のウイスキーや化粧品が輸入禁止になったのはまだしも、日本人が衣料として親しんできた綿の使用が制限されて、戦争は肌に感じられるようになっててきた。或いは、五十トン以上の鉄鋼工作物の建築とか、銅、白金、ガソリンなどの使用も軍需に関係のないものは殆ど禁止された。 翌年の夏、事変一周年を迎える頃には輸出以外の国内向け製品には綿を使ってはいけないことになった。 
このような一物資動員計画」は生産流通・消費・労働などをすべて統制管理し、戦争の要求に応えようとするものであったが、この計画にそって貿易・産業・金融面で次々に統制されて行った。 
 以上のような戦時体制進行過程で国内経済はどう展開されたであろうか。 戦争という至上命令の下で経済は完全に軍事一色に塗り潰され戦争財政の展開と共に諸物価は一斉に上がりインフレーションは、益々激しさを加えて来た。特別会計を通じて支出される臨時軍事費は戦争の拡大と共に急速な勢いで膨張して行ったのである。事変が勃発した十二年に二十億円だったものが翌年には一挙に四十八億円と二倍以上に増加し、太平洋戦争開始の前年十五年には五拾七億円と急膨張した。この臨時軍事費が当時の国家財政支出のうちでいかに大きな比重を占めるものであったか。

中小企業者の苦しみ

 このような総動員体制下の中で、軍需に直結する三丼・三菱・住友などの既成財閥が重化学工業に一斉に進出した。そして、造船業の三菱重工業・自動車の日産トヨタ・電機工業の芝浦製作所・日立、三菱電機など、ひとり軍需産業会社のみ膨大な利潤を挙げられるようになって行ったのである。反面、殆どの中小企業は窮地に立たされていた。最も惨めだったのは軍需に関係のない民需関係のいわゆる、「平和産業」に属する業者であった。厳しい統制と原材料割当てによって、それでなくても抵抗力のない中小企業者達は、ひとたまりもなく倒産に追いやられたり、合併系列化の運命にさらされた。
特にこれらの業者には重要資材に指定された金属・綿糸・ゴムなどを材料に使用するものが多かったから、これらの物資の統制は事実上の営業停止を意味した。   
 そればかりてなく陸海軍による大量の労倒者の引抜き、軍事優先主義による大企業への労動力集中によって、これら業者は極端な労働力不足に悩まされ事実上の開店休業状態に追いやられる者が少なくなかったのである。

農村の窮乏化

食糧供給の減少が目立って来たのは厳密に言えば昭和十五年頃からである。しかし、最も重要な米について言えば既に事変開始の年以降、多少の増減は見せながらも、完全に頭打ち、乃至、減少傾向が見られた。その原因は勿論、戦時経済・統制経済と密接に結びついていた。その一つは肥料、農機具などの生産材の不足であった。    召集によって農村の主たる働き手は戦場に狩り出された。日本の兵隊数は十二年未には既に陸軍だけで九十五万人を超え、太平洋戦争開始の十六年末には二百十一万人に達していたが、その半数以上は農村出身者によって占められていたのである。  
一方、化学肥料の供給は輸入原料の減少、或いは化学肥料会社の爆薬会社への転換などの事情から急速に減少した。また農機貝生産も減少の一一を辿り、加えて電力、 石油の供給不足が農業機械の運転を困難にした。こういった事情が日本の農業生産に決定的な影響を与えるようになるのは戦争が南方、太平洋にまで拡大してからの事であった。 
だが「食糧確保」は特に戦時においては絶対に必要な事柄であった。食糧供給の不足と、需要の増加という矛盾にぶつかてた政府は農業統制を強化し、 従来の米穀統制法に加えて十二年に「米穀応急措置法」を制定し、政府の米穀買上げと、軍隊への売却措置を強化した。
そして同じ年、「米穀配給統制法」が制定されるに至つて米の集荷配給機構が一元化され、杉府の統制の下に置かれるようになった。
食糧危機の進行と共に、それは更に米の強制買上(供出制度)・流通加工の統制・割当配給制度の実施などに進んで行った。
一家の柱を戦場に奪われ、或いは、工場に奪われ、残された老人、女子の手で生産された米、その他の農産物は厳しい供出制度に縛られ強制的に政府に買上げられた。農業生産の衰退はやがて戦時体制を内から崩して行く大きな原因にまて発展して行った。  
インフレ・代用品・配給、どれをとっても国民生活の敵である。インフレは年々その勢いを増し、消費物価は年々十パーセント、二十パーセントと、うなぎのぼりに上昇した。 物資の不足は、 日本人の生活の知恵を開発し、様々な代用品の傑作を生み出した。たとえ代用品でても手に入るうちはまだ良かった。太平洋戦争が近づくにつれて砂糖のような輸入品はもとより米、炭など日本国内で生産されるものから、果てはマッチに至るまで、厳しい割当配給制度の下に置かれるようになった。  
  しかし, いくらや価格だけを釘づけにしても需給の不均衡が依然存在し、インフレの根源たる戦争―財政膨張がなくならない限り問題は解決しない。徒に闇取引の横行を許し、一部、業者を富ませて、国民を苦しませるだけであった。「乏しきを憂えず、等しからざるを憂う」政府は、この勝手なスローガンを掲げて切符制、配給制を強行し、この矛盾をなんとか無くしようとした。しかし最早、事は単なる経済政策上の問題ではなかった。太平洋戦争が近づくにつれて、匡民生活は一歩一歩崩壊へと突き進んで行ったのである。又、国民を戦争に駆り立てるためには、単に国民の思想を弾圧し、国民に耐乏生活を押し付けるだけでは不充分であった。国民自らが戦争の重大さを知り、それへの積極的な参加と国家への忠誠を誓い、そのために、いかなる苦しみをも耐え忍ぶ心構えを持つ必要があったのである。 
 
「国民精神総動員運動」はこうして十二年十月、国民精神総動員中央連盟の創立を機にスタートした。国民の消費生活からは、一切の贅沢が排撃された。電力を無駄に消費するという理由から「パーマネントは止めましよう」となり、節約と愛国精神高揚という両面から「日の丸弁当」がもてはやされ、国民服姿やモンぺ姿の男女が増えて来た。 昭和十四年一月四日、近衛内閣は総辞職し、枢密院議長、平沼騏一郎に組閣の大命が降下した。近衛首相はかねてから、日華事変の解決や防共協定強化問題など時局全般にわたって行詰りを感じていた。汪兆銘の重慶脱出を機会に、新事態に対処するため政局と民心の一新をはかる、との理由で辞職したわけである。
昭和十四年一月五日、平沼騏一郎内閣が成立した。近衛をはじめとし八人前閣僚が名を連ねた内閣であった。


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