第三部  波濤篇
第五章  復興の時   

 

 函館大火により、コドモ印製綿所の本社工場、鶴岡町支店、谷地頭別邸など殆どの建物が類焼の厄に遭い、次の物件のみが焼け残った。
 

  本社   煉瓦造瓦葺製品倉庫二階建   一棟        一、六〇二円  
  在庫   製綿及び綿布類                  一九、九七三円 
                             合計    二二、五七五円 
鶴岡町支店   運搬用自動車                     五〇四円  

搬出商品類                             五、六〇八円
                               合計  六、一一二円

 

又、従業員の殆ど全員が罹災、一時は住む家も無く食料品の購入すら懸念されるような惨脩たる有様であった。
源二郎が昭和七年八月に五稜郭町に新築した住宅が大火の類焼を逃れ、河村定一家族を一時的に収容する事が出来たのは何よりの幸運であった。 
河村定一家族は源二郎夫婦の懇切丁寧な接待に感謝しつつ新しい住宅を探索したのであった。  
本店の煉瓦倉庫に収納された店歴、経理関係帳簿、現金預金関係帳簿、顧客台帳などの重要帳簿、商品の一部などは源二郎と中居由太郎の機転の利いた処置に救われた。
源二郎はコドモ印製綿所にとって危機の中の救世主であった。 
 会社は、大火後の応急策として、仮営業所を小樽分工場内に置き、営業を継続すると共に、鶴岡町支店は大火を逃れた若松町方面を探索し、函館市若松町二番地に(停車場前○ 角より約一丁、電車通り、水谷油店隣)店を借り、仮販売所とし焼け残りの商品と小樽支店より商品を移動し、機を逸する事無く復興サービスと銘打って仕立て蒲団の大特売を開始したのである。 
 
 蒲団は災害後の事とて飛ぶように売れた。  
「禍を転じて福となす」の例えを地で行く状態であった。会社としての復興計画は順調であった。会社は、罹災はしたが、度重なる火災を経験していたので不慮の災害に対する備えを怠らなかった。その結果。火災保険金、十八万円を受け取り、これを唯一の財源とし復興に着手したのである。 
 先ず小樽分工場の大拡張を図り、この年の八月にこれを完成させた。この結果、従来の生産能力の六割増となった。続いて鶴岡町支店の新店舗を新築し六月にはこれを完成させた。 
昭和九年六月二十七日函館新聞夕刊に次のような広告を掲載している。  
 
 

 

                                                                             謹告
 

       復興−新築落成−感謝○火災後、若松町の現住所に仮営業中之処、
       此の程愈々鶴岡町六十三番地(旧店舗隣)に新築落成致し一両日中に移転の運びに
       立至りましたのは偏に各位の深甚なる御引立ての賜と感謝に耐えない次第に御座います。
       何れ新店舗へ移転之上は鋭意準備を整え各位に対する開店披露謝恩大売出しを催しますれば
       旨新聞にて謹告申し上げました節は何分のご愛顧御引立て之程お願い申し上げます。
 

                                                                                                    皆 様 の 河 村 蒲 団 店
 

 

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次は愈々復興の根幹である本店の建築である。大火後、本店の旧所在地、千歳町十二番地の土地には都市計画上、建築出来なくなった。函館市議会や坂本市長は「大火の実状に鑑みて路線の改止、即ち、区画整理の必要」を説き、焦Lの街を焼けない壮麗な市街地として再現せしめたいと望み、その計爾を推進中であった。それらの事情を検討しつつ、函館市追分町三‐六番地に約一、二〇〇坪の土地を新しく購入し施行者金子組に工事を請負わせた。事務所及び住宅、仕入工場、荒掛工場など、犬二棟で、工事は急ピッチで進んだ。八月より着工し、十一月に大体の竣工を見たのである。
 従来使用していた旧本店所在地の千歳町十二番地には貸家を建てる市にし、木造亜鉛葺二階建の建物を二戸建設した。 
その他、横浜地所の土地には次々と住宅が建てられ、コドモ印製綿所の関連する建物として、その後数十年に渉って、有効な利益を挙げることになる。源二郎、独立時の店舗はこれらの一角の建物を賃借したものであった。 
会社は、大天災に遭遇したのであるが、比較的迅速に復興することが出来たのは天佑の加護もさることながら、機に処して敏なる経営方針が確立されていたこと。いかなる苦境にあっても屈せず一致協力して事にあたった従業員の凄ましい闘魂の結集があったからだと言えるであろう。

 昭和九年十一月二十四目、株式合資会社丸村コドモ印製綿所は函館地方法務局に左記の商業登記を実施している。

 

                        ◎ 株式合資会社丸村コドモ印製綿所変更


一、昭和九年十一月二十四日 本店及函館市鶴岡町ノ支店ヲ左ノ地二移転ス

 一、本店、函館巾追分町三十六番地
一、支店、函館市鶴岡町六十三番地
一、昭和九年十一月二十四日、無限責任社員河村綾子ハ、其出資持分全部ヲ無限責任社員河村定コー譲渡シテ退社シ、
        之ヲ譲受ケタル同人ハ、其出資額ヲ金十四万六千円ト変更シタリ
ー、無限責任社員河村定一(、昭和九年十一月二十四日住所ヲ左ノ地二移転ス  
        函館市追分町三十六番地
一、無限責任社員紀太惟修ハ  昭和九年十一月二十四目住所ヲ左ノ地二移転ス
        函館市鶴岡町六十三番地
一、無限責任社員西村源二郎ハ昭和九年十一月二十四日住所ヲ左ノ地二移転ス  
        函館市五稜郭町十三番地 
 

 

昭和七年五月十五日、時の総理、犬養毅が暗殺され、五月二十六日、海軍大将で、元、朝鮮総督や、枢密顧問官をしていた斎藤実を首班とする「挙国一致内閣」が成立した。 

斎藤内閣は、その成立後間もなく昭和七年九月十五日、日満議定書によって満州国を公式に承認した。当時、国内ではリットン報告の関係で、満州国を承認する事は国際連盟内の日本の立場を困難にするという議論もあったが、内田外相は敢えて承認に踏み切ったのである。
国際連盟委員会はリットン報告を下に「満州の状態を満州事変以前に戻すことはできないが、現制度を承認するものではない。」という決議案を作り、これも、すぐ日本に満州国承認の取消しを求めるものでなく、漠然とこの問題に対する連盟の意思表示をするという趣旨のものだと説明された。しかし、日本は、一切、この妥協に応じないという頑なな態度をとった。
 閣議は、八年(一九三三年)二月二十日、国際連盟脱退の方針を決定した。二十四日の連盟総会で、右の委員会の案が賛成四十二、反対一(日本)、棄権一 (タイ)で、採択されると、直ちに日本代表の松岡洋右等は退場し、三月二十八日、連盟脱退が正式に通告されたのである。
この頃から、戦争は華北に展り八年二月、板垣征四郎は天津に飛び、ここに天津特務機関を作った。五月十日頃には、北京の北方まで進出し、空軍が北京上空で威嚇飛行を行うまでになっていた。華北への侵略は直接、日華事変の前奏曲をなすもので、国外では、日本がいよいよ孤立し、非常時が深刻になって行く。一方、国内では、反動の嵐が吹き荒れて行く。

 小林多喜二の虐殺事件、五月には京大の滝川事件などが発生し、政治の中心に進出した軍部が着々と準戦時体制を固めて行く中で社会主義思想は無論の事、自由主義、平和主義、国際主義など、およそ軍部の政策に批判的な思想は全てアカとされる事になっていった。

 昭和九年には(函館大火の年)斎藤内閣も人々に飽きられ、色々な方面から政局の転換を促す動きが現れはじめた。軍部はさらに強力な内閣を出現させて自分達の政策をもっと推し進めようという意図を露骨に持ちはじめていた。それらの倒閣を意図した事件により斎藤内閣は揺らぎ始める。 
 第六十五議会における「足利尊氏問題」「樺太工業問題」は中島久万吉商相、鳩山一郎文相を辞任に追い込み、最後は「帝人事件」 の発生により、(結果は無罪)斎藤内閣は昭和九年七月三日総辞職する事になった。そして、海軍大臣だった岡田啓介に組閣の大命が下った。
 
 岡田内閣は綱紀粛正、民心作興、国際親善、国防安全、教育刷新、など、十大政綱の実現という旗じるLを掲げて出発したが閣僚が小物であったし、岡田自身、善意で真面目ではあったが、政治的識見を欠いていた。その上、政党、特に政友会は軍と組んで政府の足を引っ張ることしか考えていなかつのだからファシズムの大波を食い止めるということは初めから望めない事であった。 
 この政府が成立すると間もなく陸軍は満州行政機構の改革を要求し成立させると共に、海軍はワシントン条約廃棄を十二月に実現させた。この頃になると陸軍は政府や政党をそっちのけにして公然と政治に介入するようになり、その象徴的なものが、昭和九年十月に出た 「国防の本義と其強化の提唱」 というパンフレットであった。 
 「戦いは創造の父、文化の母である。試練の個人における、ひとしく、それぞれの生命の生成発展、文化創造の動機であり刺激である。」
という書き出しで始まり国防の重要性と国民の覚悟を説いたものであったが、其の中には、経済活動の個人主義を廃して統制を強化するとか、富の偏在を是正して国民の生活安定を図るとか、税制を改めて負担の公平を図るとか、凡そ軍部の権限外の要求が盛り込まれていた。軍の政治介入は極めて露骨であった。 そして、次の「天皇機関説」問題では愈々思想統制にまで自ら乗り出して来るのである。
 
美濃部達吉の 「天皇機関説」なる学説は明治憲法を出来るだけ民主主義的に解釈し、天皇の権限を法令の枠の中に収めようとするものであった。要するに統治権というものは、本来、国自体にある・・国民にあるとまでは当時は言えなかった。・・ものであり、天皇は国の最高の機関として、この統治権を行使するに過ぎない。従って天皇の権限も憲法その他の法律に従って発動されるもので、絶対無限ではないというもので、今日から見れば極、当たり前の説であった。然し、独裁を望む軍部にとっては、それは、大いに邪魔な学説であった。 
軍は天皇が、若し絶対無限の権限を持つなら軍は天皇の名において自由に何でもやれる事になる。それは議会を無力化し国民の権利を剥奪するためにどうしても排撃されなければならない学説であった。 
 
岡田総理は、昭和十年二月十九日の貴族院本会議での菊池武夫の機関説排撃演説や、衆議院の江藤源九郎の美濃部に対する不敬罪告発など、反対運動の高まりが拡大しで来た結果、俄かに態度を改めて機関説排撃に同調する事になった。 そして三月二十日と二十四日、貴衆両院は機関説排撃を決議し、自ら墓穴を掘ったのである。
 
この機関説排撃は、目本の学問や思想の上に重大な意味を持つ事になった。国体は一種のタブーとされ、最早、まともに日本の社会について研究したり論じたりする事は出来なくなった。天皇はこれによって、神格化され、国民はその前に一切を捨てる事を要求されるようになった。国民を引きずり込んで行くために欠くことの出来ない地ならしであった。 昭和十年十二月、日本はロンドン軍縮会議を脱退し、軍備無制限時代に突入して行くのである。
 
この年、昭和十年一月一日、源二郎に、四男、成之が誕生している。 
 
    
 
  
                                 参考資料
 
一. 昭和の歴史2 「昭和の恐慌」  小学館                                (一九八八七月一日刊)
二、 日本の歴史鍵 「ファシズムの道」中央公論社                             (昭和四二年一月一四日刊)
三、 函館新聞            函館新聞社                               (自昭和二年 至昭和十一年)
四、 読売新聞  「吹雪の夜彷徨う十万人、函館」                             (昭和九年三月二三日刊)
五、 函館大火災害誌    北海道社会事業協会編                            (昭和十二年刊)
六、 寺田寅彦随筆集 第四巻 小宮豊隆編 岩波文庫                          (昭和三四年五月十日刊)
七、 世界に挑むブラザーの歩み ブラザー工業株式会社                         (昭和四六年四月三十日刊)
八、 巨木を讃える 西村光源翁追想録 太洋協和会                            (昭和六二年八月一日刊)
九、 河村織右工門創業吝年回顧録 コドモわた株式会社                         (昭和四四年三月刊) 
 
 
  

 

 

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