第三部 波濤篇
第三章 函館悲惨!昭和九年函館大火
『函館消防組頭、勝田弥吉氏の話』
昭和九年三月二十一日 水曜日
四時を過ぎてから風向きが南々西に一変、同時に強風となり、次第に風力増大し、四時四十分には、風速十七米三の強風となったのです。私は午後四時のニュースを聞いて神戸、大阪地方が二十六米の風と聞いたので、この天候と思い合わせ早速、消防本部に電話をかけて非番一部の警戒召集を命じましたが常備部長から、「測候所に聞いたら、風は倍々強くなるというから非番全員召集を行います」という報告がありました。六時二十分には風速二十米となり烈風となりました。
『コドモ印製綿所の本社』
その同じころ千歳町に所在するコドモ印製綿所の事務所には源二郎を始めとし数人の社員がまだ居残っていた。事務所で、その日の商品の生産数を確認していた源二郎は外の激しい風の音が気になっていた。未だかって経験した事のない風の強さであった。風が吹き付けるたぴに激しく雨戸を揺する。電燈が点滅しだした。電線の故障なのだろう。
「工場は大丈夫かな?」
既に今日の作業を終え工員はみな帰宅した後であった。
「中居君ついておいで。工場の巡回だ!」
源二郎は懐中電灯を手に若い中居、河内の二人の部下を連れて構内に出た。外に出ると叩きつけるような風の強さであった。まだ六時を廻ったばかりなのに外は闇であり、空から固い霰が降り、近くの店の看板の板切れが飛び落ちてくる。工場の屋根のトタンが今にも剥がれそうにパタンパタンと跳ね返り、窓から出ている煙突が今にも倒れそうであった。新川の土手の松林が物凄い唸り声をあげている。大森浜の海鳴りが直ぐそこに聞こえてくる。
「これは異常事態だ!」
と源二郎は思った。懐中電灯を手に源二郎は製品倉庫、仕上工場、原綿倉庫などを次々と巡回した。その時点での異常は特になく、三人は事務所に帰ったがそこに社長の河村定一が待ち構えていた。
「西村君、出来上がっている蒲団を全部煉瓦倉庫に運ぶのだ!」
「社長!帳簿も運びましょう。品貸台帳を失っては元も子も失いますから。」
「分かった!」
定一も源二郎も非常事態になるであろう事を不思議にも予感していたのである。二人共、事態を見定めるのに機微であり敏感であった。
煉瓦倉庫は建坪延四十八坪の煉瓦造瓦葺二階建て製品倉庫一棟の建物であった。
明治四十五年、工場が音羽町に所在していた時、工場より出火、音羽、高砂、松風、新川の各町を焼失する大火になった。(第一一部に詳細記録)その後も二、三度、工場から出火していた処から、工場建設に当たっては火災対策には慎重であった。
工場内の私設消火栓の設置。大小ホースニOO尺の増設。火災報知機の事務所内の設置。火災保険契約の締結など対策に怠りがなかった。煉瓦倉庫も又、非常時対策用として建設した耐火倉庫であった。その倉庫に今、この強風の中を商品と重要帳簿を避難させようとしているのだった。遠く近く消防自動車のサイレンの音が絶え間なく風の中から聞こえてくる。
「この風の強いのに火事か?」
と源二郎は呟いた。時計を見ると六時三十分を過ぎていた。
{函館消防組頭 勝田弥吉氏の話}
其のうちに電燈が点いたが、間もなく消えたり点いたり、市内では看板は飛ぶ。煙突は折れる。垣根のトタンは剥がれる。物干しは飛ぶ。という人変な暴風となりました。突風の時は三十米乃至四十米の物凄い風であったのです。午後六時三十分頃には断線のため、全市消灯して暗黒街と化し消防詰所ではカーバイドランプを点けたり、安全ランプを用意したりして、消防士は刺子を着けて武装し櫓には二人上げ、非常に緊張して待機して居りました。
そのように底知れぬ不安が全淑に漆っている際に、電線の接触の為に火を発した所があり仲町、住古町、海岸町、蓬莱町、など続けざまに六ヶ所から報知機信号が来る。ポンプが西に東に走る。風がいやが上にもひどくなる。不安が更に深刻になったので町内の警備隊も警戒に出ている所もありましたが、午後六時〜し二分、遂に函館市住吉町91番地、神職、杉沢八十八の家から最悪の火災は起きたのです。杉沢八十 八方に於いては突風のため屋根が吹き飛ばされ、杉沢は避難したが一階の切抜炉にあった残火が風に煽られて発火するに至ったのである。この火を叫川町の一部望楼で発見してポンプが出動したのが六時五十八分でした。(この時の風向きは南々西 風速二十ニ米、気温七こ二度) ところが火元は詰所から一番遠いところで、その卜に青柳町の電車通を走る時は向い風のため自動車を一二四回も止められるような始末。現場は又、道は狭く水道も行止まり。四吋管であるから水廻りも悪く、尚、其の上に風の為に筒先の水勢が乱れて思うところに届かず、消防隊としては最も不利であり、第一本目の水が出た時は、火元の周回、十戸以上は}面の猛火の渦巻きでした。
続いて到着した」部、三部、四部の水管車、二、一部のポンプ車も水が揃った時は火元の道路向かいのカマボコエ場にも延焼し、往吉町一帯屋根のとられた家が二三割もあったので、風下三ケ所に早くも飛火し火災が起こりました。私も各部長と共に現場で指揮している時に突風の為に電住に叩きつけられてヨロメキー「四回も倒れ伝令に背負われて谷地頭の電車の終点に第二線として戦うべく退きました。この時、後から来た第二部の大型ポンプからも二口延ばさして郵便局前の六間通りで止めるべく重傷者数名出すまでもガンづフさせましたが、其の時は一番風が強く、屋根が飛んで来る、木が倒れる、トタンが雨あられのようにビュウビュウうなってくる。指揮者も筒先の者も立って居られず地べたに伏したり、お互いに腕を組み合ったり、電柱やポンプに捕まって漸く耐えていたが、七時四十分頃、飛火は段々殖えて、それが続き、住古、谷地頭の一帯は火の海になっていました。
{コドモ印製綿所本社 午後七時三十分}
西の空が火焔の為に真っ赤に明るい。全市が停電で暗闇のため、飛び散る火花が、かえって明るさを増している。火煙がこの千歳町まで流れで来ていた。きな臭い匂いが漂よって来た。
「火を消して下さい。」
外では育年団が声を枯らしている。
「火は谷地頭だ!先代は大丈夫か?」
創案者の河村織右衛門は今では家督を定一に譲り谷地頭町十四番地に別宅を構え、悠悠自適の日々を過ごしていたのだ。定一の家族が別宅に電詰をかけたが通じない。電話は不通であった。 連絡が取れない。家族に焦りが見えた。
源二郎と工員達が暗闇と風の中で、懐中電灯を片手に完成商品を工場から煉瓦倉庫に運び入れている。経理室の帳簿、不動産資料、店暦などを空き箱に移し細引きを掛け、倉庫に運ぶ。それを瞬時に素早く行はなければならなかった。帳簿と金銭資料は倉庫の中心部に置き、その付近にバケツの水を撒いた。主な物を格納し、窓の鍵を確かめ、入り口の鉄扉を閉め、補助鍵を掛け鉄の門を掛けた。
全てが終わった時、源二郎は中居に言った。
「助かるかなあ?燃えた時はそれまでだ。・・・」
源二郎はそう言ったが工場が全焼するとはまだ考えても居なかった。
其の時の事を中居由太郎は僅かに回想する。
『昭和九年の函館大火に「丸村コドモわた」も全焼した。 其の時、支配人と私は最後まで残り、重要書類、帳簿等と商品を出来るだけ多く煉瓦倉庫に詰め‘、倉庫の窓、鉄扉を締め切って最後まで手を尽くしました:…倉庫以外は全部焼け、焼け野原に煉瓦倉庫だけがポツンと残りました・・」と書いている。
午後八時、火は青柳町、春日町、相生町まで焼き尽くしていた。 風向き、南々西。、風速二四・▽、気温二二二度であった。 谷地頭一帯は函館八幡宮の階段付近の住宅地まで火の海であった。垣根を取られた家から次々と火が吹き出し、真っ赤に焼けたトタンや、燃えている柾が雨瑕のように飛び散り、火の海を広げて行く。 身なりを整えていない身動きを鈍くするようなオーバーを来た男、角巻きを身に纏った女に手を引かれたマントを来た子供達。着の身着のままの寝巻姿の大人も居る。それらが、四、五人の単位で函館公園の広場や住吉の海岸を目指して逃げて行く。その後を火の波が襲ってゆく。
「お母ちゃん、熱いよう!」 火に巻き込まれた子供の泣き叫ぶ声が聞こえる。しかし救える状態ではなかった。八幡宮と公園通りの松や杉の木が烈風のため次々と倒れて行く。それに火が燃え移る。道が火の道となる。?丁二三 読売新聞の特報一
烈風の中をつんざく警鈍の血目。
急行する消防自動車のサイレンの唸り。
「スワツ火事だごと狼狽する暇もなく大烈風に来る火勢の猛烈さは燎原の火の如く木造建の多い市街を呑んで瞬く間に住吉町、から青柳町、呑口町と東北方面に延焼、さらに飛火は先へ先へと所々に火災を起こしながらカフェー街の銀座通り、蓮来町、恵比須町の繁華街を見る見るうちにI凪めにして呪いの火焔は横なぎに全市覆うかとばかり凄惨なさまは筆舌に尽くし難い。その火足の速さに市民は家財道具などを持ち出す暇もなくて全く着の身着のままで避難したのであるが…―・」
{函館消防組頭 勝田弥吉氏の話}
これではならぬと今井部長、佐田部長の二名を先行さして青柳町の久上逸見宅前から公園の線の}番狭い処で喰い止めるようポンプを集注させましたが残念ながら火足は余りに速く猛烈で、一方一直線に演筋に延びられる風下の’住吉小学校には燃え上られる大きな堤が一度に破れたように火流が押し寄せ消防隊の苦心は言語に絶し、私はこの時、宮崎署長と次の防架線を決めるために自動車で火の延びた先々をまわって見たが其うち、相生町の東照宮のある演の方も火焔猛烈となり、一方、西別院襄の方にも火の手が上がり、風が少しも衰えぬので、ここに悲壮な決心を以って幹部に非常命令を発し、消防車、二車、三車を一隊とし、率いて進撃し火勢を東海岸に狭めて遮断せよ。若し友隊と連絡を絶たれたら独断を以って最善を尽くせよと伝え、片谷、菅原画部長を始め、之が最後の別れであると決心『シッカリ頼む』の一言を残し署長と共に蓬葉町から火防線通りと、火の海、火の子の花吹雪で、息することも目に物見る事も出来ず自分の乗るポンプを命の綱として、渦巻く火の町を駆け巡り、本部に来て各伝令の報告を受くるばかりでありました。
午後九時、全町焼失の町 曙町、寿町、蓬莱町、寶町、東川町、栄町、旭町。午後九時風向 南西、風速 二三・八米、気温 二・七度
【三・二三、読売新聞特報 】
避難民の大部分は大森濱海岸を安全地帯だと思って其の方面へと雪崩を打って密集した。しかし、この内にも火は寶町、東川町、栄町、旭町、と延焼、また延焼して火の粉は雨鼓のごとく大森演に遁げ延びた避難民の頭上に降り注いだからたまらない。逃げるにしても何分後から、後から迫る火焔に追われて押し寄せる避難民で身動きがとれぬ。前方は怒涛荒れ狂う海だ。ここに唯一の血路は全く地獄境と化して悲鳴、叫喚渦巻く中を却火はつひに背後にせまって火焔に包まれたまま黒焦げとなって焼死するもの、苫しさのあまり、無我夢中で海の中へ飛び込んでしまうもの数を知らず、父親を呼ぶ子の叫喚、赤ん坊を両手に差し上げて狂い泣く母親。その惨状は眼もあてられぬ、この世からなる修羅地獄の展開……
午後九時より午後九時半までの全町焼失の町名……東雲町
(九年五月四日、函館新聞、火流概要)
(二) 午後七時頃、火元の北方に当たる住吉神社崖上に飛火、東川町護岸の海岸線に沿い、 午後八時三十分女子高等小学校(不燃質建物)付近に達し避難民を海中に追い
込み焼溺死者を多数出した。
(三) 水天宮付近より斜線を描いて大森橋に向かった火流は避難者の北部への避難路を断ち午後九時頃、新川(川幅コ∵七米、深さ、一米内外)下流方面に最多数の焼溺者を算
した。
(四) 午後七時二十分、寶町に飛火したものは道路の方向と風向きがひとしきりしため、木造建築の櫛比せし東部方面の住宅を燃焼し午後八時五十五分に昭和橋に達した。
鉄柱の湾曲はこの方面に多い。
以上の状況に応じての火流概算は、
(一) 火元より谷地頭を経て招魂社の山手高台へ昇りたるもの、一時間、千二百米、谷地頭盆地では、二十分間に七百米を疾走。
(二) は一時間三十分に千四百米
(三) は約千百米の速度で流れ、飛火その他を合した延焼最長距離は二時間余で約四千米と推算す。
火流は山の手の曙町、寿町、相生町を経て、蓬莱町、寶町、東川町、栄町、旭町、東雲町を焼き尽くすと共に、函館港側の地蔵町、西川町、恵比須町、鶴岡町、をも焼き尽くし、風下である函館の中央部である松風町、新川町、千歳町に押し迫って来ていた。
{ コドモ印製綿所炎上 }
コドモ印製綿所工場が炎上したのは、昭和九年三月二十一日午後九時半から午後十時にかけてである。 風向は、南西から西南西に変わり、風速二三・五米、気温二・四度が其の時の気象状況であった。其の頃、東川町、栄町、旭町より大森演(東川護岸埋立地付近)に避難した住民に焼死者と溺死者が多数生じていた。発火元の住吉沿岸にも同様の死者が、又、新蔵前の小公園には火流に巻き込まれた数十人の死者が重なり合う様に倒れていた。コドモ印製綿所付近の住民には、既に、地元青年団、函館消防組の見廻者により砂山方面や、五稜郭方面への避難命令が発せられていた。源二郎と中居由太郎は重要帳簿や財務関係の書類を煉瓦倉庫に運び、当面の現金残高を河村定一にひきわたし八時過ぎ、吹きつのる風をさえぎながら自転車に乗って家路を急いだ。それから間もなく猛烈な勢いで火流は松風町を襲い次に工場の存立する千歳町に押し寄せたのである。巨大な火の波と言って過言でない。そんな火の波が、明治四十五年に建設し、その後二十五年の歴史を経た工場三棟、事務所、住宅などに餓狼の如く襲ったのである。
火の波に取り囲まれて建物はあっ気なく炎え上がった。真赤な炎が竜巻の様に舞い上がつた。建物は火の波に取り囲まれあっけなく燃え上がった。燃え尽きる迄長い時間を必要とはしなかった。燃え尽きる迄、瞬間的な夢を見ているようだった。吹きすさぶ風の音と燃え上がるバリバリと唸る音が一層、火の海を大きなものにしていた。
苦しみと汗で築き上げたコドモ印製綿所の命が燃え尽きたのである。
工場の周囲は悲鳴と怒号を繰り返しながら逃げ惑う避難民で一杯であった。火流は千歳町一帯を襲った後、新川を越え堀川町、砂山方面にその勢いを伸ばして行った。大森橋は避難民の荷物に飛火して焼け落ちた。高森橋、新川橋は、木造で相当長期間、保全して居なかった為、倒壊した。其の為に東方よりの避難者は満潮時の新川に転落し、溺死、凍死した。更に、渡れない橋の近くに殺到した避難民は退路を遮断され、火流に迫られて焼死した。そんな地獄図絵がコドモ印製綿所の直ぐ側の、大森演と新川で繰り広げられていたのであった。これらが起こる以前に帰路の道を急いだ源二郎と中居は賢明であり、幸運であったと言わざるを得ない。しかも、責任の殆どを果たした後に:…
{函館消防組頭 勝田弥吉氏の話}
ずぶ濡れの刺子。シャツまでずぶ濡れとなり空腹と寒気で、手は凍えて、感じなく、よろめく足を踏みしめて妻子のことも顧みる暇なし活動する消防を大声叱咤して、シッカリフンバレと、左へ右へと前進、後ろへと一寸の暇もなく奮戦を重ね、午後十時頃から風は西南西に変わり始め、十一時には西に変わっだのに力を得て土気を鼓舞し廿間坂上下のの通りを豊川町魚市場付近。停車場前と高砂町、麦倉医院付近。新川町千代見園付近。堀川町電車線路に、それぞれ消防隊全部を集め、更に死力を尽くして防戦せしめました。
午後十一時 風向西 十七・二 気温一・九度
風力は少し衰えたが、既に恵比須町、西川町、大森町、千歳町、は全焼していた。
午後十二時 風向 西 風速 十六・五 気温 一・四度
高盛町、宇賀浦町、砂山町、汐止町全焼
高盛町、砂山町の住宅群は十二時迄の間に全焼した。砂山自体は其の時、積雪はなかったが、砂は固く凍り、滑り台の状態で、避難民が、僅か二十数米の砂山を登り越えることが出来ず、大森小学校方面より、速度を増し襲来した火流に追い着かれ、巻き込まれて多数焼死した。
幸い登り切り、火流から逃れることが出来た一部の避難者は高森海岸路線を逃げ、湯の川通りに出、湯の川、根崎に潮の如く流れ込んで来た。 この夜、湯の川を越え、亀尾村方面に迄、雨のように火の粉が吹き散り村人は挙げて火の粉防ぎと避難者の救済に全力を注いだ。
其の頃、西部方面からの一部の避難者は函館停車場の付近に避難、殺到していた。火流の直接の影響を受けぬ、函館港側の真砂町、鶴岡町(一部)若松町、万代町は危険地帯の 58 中でも安全地帯に属し、函館停車場と函館桟橋、緊急の場合、避難所としては適切な場所であった。
避難者は桟橋、停車場構内、停車場広場にギッシリと詰まっている。寒さのため乳呑児を抱えて震えて母親。病人を背負って途方に暮れている人。手足や頭を負傷し血の疹んだ包帯をしている人。四散した家族を探し歩く人など。それぞれが悲しみの状態である暗闇の中の、それぞれの悲しみと疲れの上に突風が吹き付け、粉雪が容赦なく吹き付けてくる。
三月二十二日、午前一時
風向 西、風速 十四・八、 気温〇・六度
この時まで一部焼失した町名
末広町、船場町、豊川町、鶴岡町、堀川町、中島町、千代ヶ岱町、金堀町、高砂町、 新川町、人見町、汐見町、音羽町、東浜町、
午前二時
風向 西、風速 十四・六 気温〇・六度
この時まで一部焼失した町
時任町、的場町
午前四時
風向 西 風速 九・六米 気温 一・〇度
午前三時から四時にかけて、風速は次第に弱まって来る。しかし、堀川町、中島町、金堀町、的場町、はまだ燃え続けている。消防組はその辺に非常線を敷き類焼を防ぐため、最後の力を振り絞って必死の消火態勢である。
西部は二十間坂に非常線を敷き、風向きも変わり、どうやら、会所町、富岡町方面への類焼は食い止めた模様である。
「函館消防組頭 勝田弥吉氏の話」
廿間坂は、朝の六時過ぎまでかかり、漸く延焼も止まりましたが、然し、この時は既に二万数千の家は焼け、二千余の人が惨死し、まことに世にも稀なる無残な結果を残したので 98 あります。今井部長の率いる一隊は生死不明でしたが、公園、噴水、貯水池を敢えて住吉学校方面に防禦公園に避難せる人命救助に勤め、火に包囲せられ打撲、その他火傷、目なども傷めたけれど無事なる顔を見た時、嬉し泣きと勇気が百倍加わり音羽町を中心として西部は廿間坂方面、東部は、千代ヶ岱方面と連絡を取ることが出来ました。 私どもは、今まで十米から二十五米位までの風に対する実戦の経験と計画、設備の点に於いて確信を以って居りましたが、この度のような気狂い風には全く思うさま蹂躙せられて如何に力をつくしても効果が無かったのであります。或当市の元老が言われたように人間がこれまで考えた以上の災害に遭っては人の力は弱いものだと言われましたが、尤ものことと思われました。
午前五時 風向 西 風速 十一二米 気温 一・五度
午前六時 風向 西 風速 十一・三米 気温 一・七度
{函館女子小学校 菊池ノ井の作文}
三月二十一日の大火も、最早、再び燃え上がる気力もないが如くに止んで、翌朝の太陽は、昨夜の大火を忘れた如くけろりとした顔で東の空から出て来た。まだ昨夜の大火に未練あるかのように焼け跡にぱちぱちと焼け残りの木が燃え上がっている。泣きわめいている子供。青い顔をしている人々。重い荷物を背負うて彷徨している者。もはや彼等は魂が抜けた狂人の如くである………。
(吹雪く夜さまよう十万人)
「三・二三 読売新聞」
二十二日午後六時記者をはじめ多数の救援隊を満載した青函連絡船松前丸は函館桟橋に繋船された。欠航後一昼夜、十五万罹災民が待ちに待った内地よりの救援第一船だ、見れば桟橋から函館駅構内、駅前広場へかけてギッシリ詰まった避難民の群れ、群、群、その数は万余だ。いずれも内地に避難すべく連絡船の入港を待っていたのだ。
船の人々が降りない先にこれらの人々は昇降口目掛けてドット殺到しわれ先にと街く様は悲壮の限りである。記者はやっとこれらの人々を押し分けて函館の地を踏んだ。
時折、粉雪が思い出した様に吹き付けて罹災民の上に容赦もなく降り注ぐ惨状は実に言語に絶している。
焼跡に踏み込んで前後左右を見渡すと、ただ一望大焼野ケ原と化し遮るものはなにもない。そして余燼はまだ蒙蒙と立ち込めて噎せる煙と熱気で近寄れない所もある。
其の中を四散した家族を探し歩く人。灰を掘り返す人、焼けたトタンを集めて俄か造りの掘立小屋を造る人等。電車は立ち往生のまま焼かれ、自動車やトラックもその残骸を至る所に曝している。
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函館の大火について 寺田寅彦 岩波文庫 寺田寅彦随筆集 第四巻より |
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