波濤篇

第二章 船 出 の時 

 

 昭和五年(一九三〇年)七月、函館製綿業組合内部で古綿打直し賃値下げ問題に端を発した紛争が生じた。

七月六日、突如、河村定一の組合除名広告が地元新聞三紙に掲載された。 
 

 

除 名 広 告

                             元組長 河村 定一


右ノ者本組合ヲ無視シ再三注意ゼシモ其行為
ヲ改メズ依ツテ総会ノ決議二依り之ヲ除名ス
 

昭和五年七月四日 
                                        函館製綿業組合
 

 その朝、広告を見た関係者が社長を訪ねて来たり、電話がひっきりなしに掛かった。
定一は腹の中で「やられた!」という感慨がつよかった。商売上で絶えず反目していた荻野小次郎の仕業に違いなかった。
荻野は、棒二森屋の店主であった。棒二森屋は規模から言えば、函館の商店の中でも丸井商店と並び一二を争う商店であった。その規模から言えば、棒二森屋は、コドモ印製綿所の数倍の大きさであったが、事、製綿と、その販売に掛けては、コドモ印が飛びぬけた力を有し、ずば抜けた存在であったのだ。二人はしのぎを削るライバル同士であったのかも知れない。
 前年来、古綿打直しの協定価格について、組合内で紛争が続いていたのであるが、荻野以外でも、小木小之吉、坂口善助などが、市場を占有するコドモ印製綿所の商法に絶えず批判を繰り返していたが、それは歴然たる力に対する報復の意味も含まれていたのである。然し、力の差はどうしようもない現実であった。
 これに至るまでの製綿組合内の事情は次のようなものであった。新川町、曲森印森田綿店が六月十日より七月十日まで、十周年謝恩売出しとして、福引景品付にて古綿打直し価格を組合協定価格、五十銭を二十銭として新聞広告を掲載したのに端を発していた。
 組長、河村定一は、六月二十七日、臨時総会を招集し、深刻な不景気下にあって、商工省の小売価格引き下げ、各種同業組合の改善方針に基づく値下げを確認しながら、既にその前年、一部の業者が、価格を修正していた事実もあり、当時と現在とでは諸物価に於いて相当の開きも出ているところから、打直し価格の是正を図るべきであると提案したのである。
 然し、荻野小次郎等の反対派はこれに頑強なまでに反対した。反対派は時勢の流れに目覚めていなかったのである。この時勢に暴利を得ることは無理であった。定一は反対派の説得に尽力したが、遂に意志を貫徹することが出来ず、自責の念を感じた定一は、組長を辞任し、組合を脱退し、単独にて、価格を低減し、金二十銭を以って顧客に接することを声明したのである。
 急遽、反対派は反対派だけの総会を開催し、河村定一組長の除名を決定したのであった。自ら組合を脱退したのに除名処分は不当な処置であった。源二郎自身も会社の総支配人として、この事態を苦々しく感じていた。差し当たり、社長、及び、反対派以外の組合関係者と協議し次ぎの様な反駁文を新聞紙上に掲載した。  
      


謹   告


             七月六日函館新聞、函館毎日新聞、函館日々新聞夕刊に当組合長河村定一氏を組合規約
無視云々の理由に依って組合長除名の広告を組合の名をもって為したるは一部野心家の
策動に基づくもので、当組合としては、何等関知したるものにあらず併も新任組長と称
する荻野小次郎氏は組合規約に依る一ヶ月一円の組合費も今年一月より一回も納付せず
組合規約に依る三ヶ月滞費したるものは其資格に於いて欠如したるものであるばかりか
組合道徳たる義務観念無きもの然るに此の規約無視者が主となって奇怪にも組合規約擁
護団なるものを組織し、臨時総会なる名のもとに同氏腹心二三のものと相謀り組長たら
ん野心の下に策動し組合規約を遵守したる臨時総会でもなきに自ら総会と称し席上規約
の選挙にも拠らず推薦組長として突如現れ組合の名に依って組長河村氏を除名云々と前
記三新聞に広告したるは何等かためにせんための暴挙にて併も除名処分は何れの規約に
準拠して為したものか規約中除名或は過怠金云々の規約は既に今年三月中に行われた臨
時総会に於いて削除することに決議なっているもので真に組合規約遵守し同規約を 熟知
するものの為す能はざる行為であるにも拘わらず斯くの如く野心家没常識極まる者二三
の策動に依って組合を撹乱さるるは甚だ遺憾とする処依って再び茲に組長河村氏除名云々
の広告は組合の名を利用し事態の空虚なるものを仮想して広告したものと思惟する次第ここ 
    に事情を詳記し河村組合長名誉信用のため前記三新聞の広告無根なる事を広告候也           

                            函館製綿業組合
客位
 

 


これに対し反対派は更に次の様な反駁文を掲載した。
         

 

 
 

 

謹   告

 

            去る七月六日より九日に亘りて市内函館新聞、函館毎日新聞、函館日々新聞に本組合の名を盗用
             して河村氏除名は空虚であるとか新任組合長荻野小次郎氏に対し祖合は関知せぬ等と同氏の人格、
            名誉、信用を傷つけん為の広告せし者現はれ益々組合を紛擾に導く可く策動せしも斯る事実は毫も 
            無之目下組合問題の真相は河村元組長は去る七月二目開催の役員会に於いて出席者より重大視
            すべき料金に関して一般組合員と一応の相談もなく規約を無視して賃綿六割値下げを組合長の
             重責に在る身で勝手に広告し組合員を窮地に陥入れたる行為強く攻められ正当の理に落ちて組合長
            を辞任する旨の辞表を役員会に提出したり故に組合は翌三日荻野氏の交渉顛末報告会の終了後正規
            に依る定員以上の出席者(組合員五十名の内出席者三十二名)あるを以って引き続き臨時総会を開 
            き組合長の補欠選挙を行った結果相談役荻野小次郎氏が満場一致に依り組合長に当選されたものである。
            総会は更に河村氏の行為に就いて組合員に在りながら不正競争を為したる点に依り組合員たる 
            の除名処分を大多数で決議し其旨二日以上新聞紙に広告すべき決議を実行したもので欺瞞広告に
            は組合は勿論組合長荻野氏も甚だ迷惑を蒙って居るもかかる不徳漢は後日判明するものと思う 
            茲に荻野組合長の為下名は組合員一同を代表して前記三新聞の広告は無根なる事を広告致し候也 

 

 
           昭和五年七月九日公認 
                           函館製綿業組合   副組長  小木小之吉 
                                                             副組長  坂口善助 



 この紛擾に就いて製綿について詳しい関係者は次のように述べた。 
 「一部の野心家が起した問題だと思う。彼等は現下の時勢に目覚めず暴利を貪らんとしている。組合の協定値段なるものは三月の臨時総会で古綿打直し賃一メ五十銭と決めたけれど、違反者に対する罰則を廃して各自の自由競争を黙認することにもしたのである。従って、今回の違反者の森田弥吉にも何等組合として制裁していない。それどころか、丸王荻野など八店は率先して声明書を発行し、一貫目二十五銭で取引しているではないか。五十銭に拘るのは不自然だと思うよ。今回、荻野新組合長?に依って一貫目、僅か十銭低落させて四十銭として発表したが、今までのゴタゴタを一時的に糊塗し、所謂臭いものに蓋をして、たった十銭値引きして、世間を欺蝸しているのである。古綿打直し内容を解剖してみれば原価の中の賃金は十一銭、それに女工7銭、ハトロン紙ペーパー二銭三厘、動力一銭五厘、油二厘についている。
 一日の生産能力I包八十メ位で真の打直し賃一メ二十銭乃至二十五銭とするが最も正当なる料金なり。仮にIメ目二十五銭としても優に十四銭の利益あり。之を八十メ目の生産能力ありとすれば一日十二円の利益が生み出されているのだ。夫婦二人で一台の機械で一ヶ月三百円以上の利益があることになる。
 小樽、札幌の製綿業者を見れば業者三十余名にて三十銭内外をもって顧客に対している。函館の業者は五十銭と協定していながら大部分は自由競争を以って三十五銭内外の料金を以って商売しているのが現状なのだ。儲かり過ぎが組合の紛争の原因なのだ。荻野さん達はガメツ過ぎる!余り儲かり過ぎてこんなゴタゴタ」 

この関係者の発言の内容を源二郎は概ね妥当な考え方のように思った。それにしても製綿の原価計算は難しい。計算の方法によって価格をいかようにも変化させることが出来る。難しいものだ。と源二郎は思った。と同時に反対派との抗争という醜い一面を見せ付けられて、この業界の中で、必死になって生き続けることが、果たして自分自身にとってプラスになるのであろうか?という疑問も湧きあがってくるのであった。己の持つ力をおのれの事業に注ぎたい。それは時代の先端を行く事業でなければならない。思う存分自分のもたつ考え方を自由に反映させて、その事業を推進することによって己の生き甲斐を見出したい。源二郎はふとそう思った。

 この紛争は何れが真実であるのか函館市民も関心をもって凝視する事になったが、小木、坂口の両副組長の斡旋調停もあり、また河村定一、荻野小次郎双方の自省もあり、次のような覚書を交わし、七月十二日午後六時より音羽町事務所に於いて開催された臨時総会に於いて双方歩み寄りを見せ円満解決を見るに至った。     
 


古綿打直し賃

 一貫目 四十銭也

右の価格を総会の決議として決定するもの也


 この四十銭は妥協の産物で、定一としては不本意であったが、組合の分裂を回避する事の方が重要であり止もう得ないものがあった。  「創業七〇年回顧録」には次のように記載されている。 

「昭和五年(一九三〇年)函館製綿業組合において賃綿値下げ問題に端を発して紛争が生じた。紛争はこじれて遂には役員総辞職や、除名問題にまで発展し、大いに新聞紙上を賑わしたことがあったが社長は組合長として、これを円満に解決し、紛争は一先ず終息して、役員全員が現職にとどまることになったのである。」とある。
源二郎が、独立を意識し始めたのは、この時が初めてであったが、それが実現するのは七年後のことである。
 この年の二月」日、源二郎に三男、尚之が誕生したが、半年後の八月一日、生育未熟により他界した。年子であった。 

                                                               蚊帳について

 ここで蚊帳の取扱いに就いて記しておく。
丸村コドモ印製綿所が蚊帳の加工製造並びに販売事業に本格的に進出するのは大正十二年 の事である。以後、蚊帳はコドモ印製綿所の製綿に次ぐ重要な取扱商品になった。大正十年河村定一が関係各地の工場視察を行い、新情報を人手し、その一端として、蚊帳の導入に着目したのがその端緒となった。この時の視察工場の中に次の工場があった。
                          滋賀県瀬田村 芝林蚊帳株式会社  
                              奈良県奈良市 勝村蚊帳工場
この時に蚊帳が日常生活の必需品であることを認識し、この時から導入を着々準備し、大正十二年(一九二三年)、蚊帳職人を越前武生町より招致して仕立方法を修得し、初めて蚊帳の仕立に着手したのである。仕立が非常に丁寧であったために、予想以上に評判が良かった。一馬力の動力でミシン二台を増設し、大体年間、三〇〇〇帳以上の蚊帳を製造した。毎年の気候、温度等により販売量も年によっての消長はあったが、大体殆ど売り尽くす状態が続き店全体の売上に大きく貢献して行くのである。この頃、道内では蚊帳は全家庭に浸透せず未来商品であった。
 この蚊帳生地仕入の主な部分を担当したのが源二郎であった。源二郎は滋賀、奈良を含む北陸、近畿、名古屋方面に生地仕入のために度々出張することにより、先端的業界の実情に接することになった。
 麻糸で出来た蚊帳生地を織るには湿気が十分でないと縦糸が切れやすいため、琵琶湖の湿気が得られる近江の地は蚊帳を織るのに適し生産が根付いた。そして麻の素材が蚊帳を付加価値の高いものに替え蚊帳の需要を喚越していたのである。
 
                                                  麻蚊帳の特徴  

  一、 通気性に富み細菌の発生を防ぎ衛生的である。
 二、 熱伝導率が大きいため水分の発散や吸湿が速く爽やかな涼感を与える。汗ばんでも肌にべとつかず乾きも早い。
 三、 耐水性に優れ水に濡れると強度が六拾%アップする。
  四、 シヤリ感やしなやかさがある。
  五、 混紡性に優れ相手の繊維と融合し新たな風合いが生まれる。

 京都西川が寛永年間(一六二〇年代)、西川二代目、甚五郎が蚊帳の生地を萌黄色に染め、紅布の縁を着けたデザインの「近江蚊帳」を販売したのが蚊帳の基本的デザインの出発になった事も初めて源二郎は知った。西川家は近江の八幡で十七軒の束ねた講(現在風に言えば蚊帳商工組合)を結成、同じ近江の長浜でも「浜蚊帳」の生産が始められ、近江は蚊帳の一大産地になり蚊帳は、日本人の生活に行き渡って行った。蚊帳は蒲団の歴史より何倍も長い歴史を背負っていたのである。源二郎にとって、その西川が行っている関西独特な販売方法も参考になるものがあった。蒲団購買会制度の由縁でもあった。

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 この出張時、源二郎は時々名古屋や岡崎の製綿業者を訪ねる事があった。特に、岡崎の大塚製綿機製作所などでは、最先端の製綿機械の製造過程を見ることが出来、参考にすべき事が多大であった。蒲団カバーの縫製のためのミシンについても話題になり、名古屋市の熱田区で、ミシンの修理と部品の製造を専業とする安井ミシン商会の存在を初めて知ったのである。安井ミシン商会はこの時(一九三〇年)、まだ家庭用ミシンの製造に迄は至っていなかった。その前身である水圧機、カンヌイミシン、シャトルフック(ミシン中1 )の試作段階の過渡期にあった。
 源二郎が、安井ミシン商会と初めて接する事になるのはその二年後、昭和七年の終わりの頃になる。
 この頃、函館では、シンガーミシン函館営業所のミシン貸し出し提供により、市の社会課主催でミシンを使用しての裁縫の無料講習会がしばしば開催されていた。ミシン裁縫の技術修得後、市が開設する予定の授産場に於いて勤務する要員を養成するのがこの講習の目的で、大妻技芸学校の教師が指導に当たっていた。講習科目はI、機械使用法、二製図及び裁断法、三、仕上げ裁縫で、仕上げするものは、初めは、割烹着、エプロン、女児簡単服、女児帽子、などの仕上げ易いもの。次に少し進んで、下着類、ホワイトシャツ、ズボン下、ソフトカラー、エプロンドレス、男子学生服などであった。受講者は比較的生活に余裕のある中流家庭以上の教養ある婦人達が主であり年齢も十七歳から五十七歳位の多岐にわたっていた。
 源二郎は一度、この講習会を覗いてみた事があった。製綿所でもミシンは使っていたが、工業用の物であり、家庭用ミシンの良さと将来性を知りたいと思っていたのだが、実際、その実技の場所を見て、その充実した雰囲気とミシンから伝わる熱気に心底驚いたのであった。従来の手作りの裁縫にミシンという革命的な機器が加わり、裁縫の技術が急速に進化している事を源二郎は肌で感じたのであった。 源二郎は、何れ自身がこの機器を取り扱うであろうかすかな予感を覚えながら安井ミシン商会を頭の隅に刻みこんでいた。

 昭和五年後半、日本の政治にも経済にも一向に明るい陽が射さず、政治も経済も一層惨憺たる時代に突入して行くのである。 
そんな状態の中で浜口雄幸首相は右翼青年に狙撃され重傷を負うことになった。昭和五年(一九三〇年)十一月十四目午前九時、岡山県下で行われていた陸軍大演習を陪観するため、東京駅のプラットホームに昇って来た時、突然、一発の銃声が響き、浜口首 相は腹部を押さえ蹲ってしまった。浜口は、直ちに駅長室に担ぎこまれ応急手当の後東大病院に送られ手術を受けた。銃弾が臍の下から右下に入り骨盤に留まっていたので命はとりとめた。この手術の後、元気を取り戻した浜口は「男子の本懐」と言う有名な言葉を残したと言われて居る。
 犯人は長崎県出身の愛国社社員の佐郷屋留雄という二十三歳の青年であった。ロンドン軍縮条約に反対する右翼の計画的犯行であったが、未曾有の不景気がこの反抗を生む社会的背景となっていたことも否定出来ない。党首遭難の不慮の事態に直面して、民政党は外相の幣原喜重郎を首相代理に当て、この難局を切り抜けようとしたが、重大な時期に総理大臣の責任ある答弁を聞けぬ事は納得出来ない。民政党は籍の無い官僚出身の幣原を首相代理に据える政党政治の本義に叛くとして政府を攻め立てた。 昭和六年三月十日から浜口首相は、傷病の身を押して登院したが、再び健康が悪化し、四月四日再入院となり、ここに至って浜口は、民政党総裁を辞任し、若槻礼次郎がその後を継ぎ総裁となり四月十四日、第二次若槻内閣が成立したのである。 結局、前首相浜口雄幸の病状はますます悪化し、昭和六年八月二十六日に没した。その後、次々と起こる右翼テロの最初の犠牲者になった。

 若槻内閣は、行政、財政、税制に関する三つの準備委員会を設置し、大胆な行政改革に乗り出した。官吏の減俸問題と、恩給法改正案、拓務省の廃止など大きな改革案であったが何れも強硬な反対にあい、大した成果を上げず終わってしまう。引き続き大蔵大臣は井上準之助で金本位を維持しようと最後の力を振り絞ったが一向に景気は回復せず不況は一層深刻化して行った。
 昭和六年十一月十目、政友会は即時、金輸出禁止を断行すべきであると決議した。民政党内にも次第に亀裂が生じて来た。政変に向かって事態は急転回していたのである。結局、第二次若槻内閣にとどめをさしたのは井上の財政政策に反対する安達謙蔵内相一派の協力内閣運動であった。安達等は政友会との連立内閣を作り、この非常事態に対処しようとしたのである。しかしその背後にはドル買い筋が暗躍していたと言われる。ドル買い筋が思惑通り利益をあげるためには若槻内閣を倒して金輸出再禁止をさせる必要があったのである。 
昭和六年(一九三一年)十二月十一目、若槻内閣は閣内不統一によって総辞職に追い込まれた。二日後の十三日、政友会総裁犬養毅が後継首相に押され、同内閣の大蔵大臣、高橋是清により即日、金輸出再禁止を付議決定する事となった。井上準之助の金解禁政策は二年足らずで死命を制されたことになる。
 若槻内閣在任中、政治面で特筆すべき事は昭和六年九月十八日の満州事変の勃発である。
昭和七年元旦、内閣総理大臣犬養毅は、以下の所信を表明した。

                    国民総動員奮起を望む

 ここに昭和七年の新春を迎うるに当り謹んで聖寿の万歳を祝し奉り、併せて七千万国民諸君に賀意を表すると同時になほ、この機会においていささか所信の一端を述べ、国民諸君の御賛同を得たいと思う。先ず、第一に御覚悟を願ければならぬ事は日支係争間題であって、これは、この機会において是非とも解決せねばならぬ。日本は何故にロシアと戦ったか。何故に同胞十万の死を犠牲にして二十億の巨費を抛って惜しまなかったか。これ全く東洋永遠の平和を確保し延いては世界人類の文化に貢献する所あらんとする崇高なる信念に基づくものである。幸いに当時の支那の政治家も日本の真意を理解し、幾多の条約が双方の善意の下に締結せられ爾来、満蒙の地は日に日に開発せられ、日露戦争前わずかに五百万であった同地方の人口は四分の一世紀後の今日においては既に三千万を突破するの盛況を呈するに至った。これ一面、わが日本民族の努力のたまものと云わねばならぬ。しかも日本はこれに満足するものではない。更にますます進んで及ぶ限りの資力心力を傾注し人類文化建設のため満州開発に努力を続けつつあるに対し、近年支那政治家は彼等の先輩と共に日本の真意を解せず盛んに多衆を煽動し、排日運動を行ひ条約を無視し、或いは廃棄せんと企つるに至った。斯の如く彼等の態度は世界人類に対する背徳である。殊に我が日本民族にとりては実に生命に対する脅威である。故に昭和三年五月、時の政府、田中内閣は満州の治安に関して声明書を発表し、同地方の治安を紊りこれを紊らんとするが如き事態の発生は帝国政府の極力阻止せんとする旨を力説し、これを支那政府に交付した。然るに今回の事変の勃発を与儀なくせしむるに至ったのはまことに遺憾千万である。若しこの機会において日支係争問題の一切を解決しなければ東亜の地は永久に不安に閉ざされ我が民族は遂に大陸から退却するの余儀なき運命に陥ちいるかもしれぬ。これは断じて忍ぶべきことではない。我々は如何なる困難をも突破し、断乎として根本的解決に向かって進む覚悟を持たねばならぬ。
 次に経済間題についても政府は既に与党の政務調査会において決定したところもあって大体の対策方針は立っているが、尚、当面の問題については折角当局において研究し、着々実行して誤りなきを期している。終わりにのぞみ国民諸君は年の改むる世ともに更に心を新たにし国家のために尽瘁せられん事を切望に堪えぬ。
 満州事変の発端は公式には中国兵の満鉄(柳条溝)爆破にあった事になっていた。しかし、これは板垣征四郎、石原莞爾を中心とする関東軍の謀略による戦争勃発であった。関東軍は十一月にはチチハルに進出し、十一月二十七日には張学良の拠点である錦州を爆撃しこれを占領していた。若槻内閣の退陣はこのように関東軍によって満州戦線が拡大している時であった。 
この昭和六年二月十一日、
源二郎に次女、洋子が誕生している。
この事については後述する。同じ昭和六年九月十五日、新川町東部は千歳町と改称され、丸村コドモ印製綿所の本店所在地は、千歳町十二番地に変更されている。

そして、昭和七年という激動の時代を迎える。 

この年の初め、函館の財界人である函館海産商同業組合長の斎藤栄三郎は次のように新年の挨拶を述べている。

                                   旭日昇天の意気で真価を発揮 
                                                         貿易戦線準備成る
 

昭和七年の新春を迎ふるに方り過ぐる}年を雇みる時転た世の多事多難を思はしめるものがある、諸物価は益々低落して一般の人気は極度に沈滞し所謂不景気に裡に終始した、この打開策として世を挙げて緊縮節約方針で進み産業の合理化が叫ばれたが容易に好転の機会を得るに至らず退嬰気分のみ濃厚になった。

この一般不況は我が函館海産市場にも悪影響を責し対内的には需要市場の購買力を減殺して一般物価の激落に伴う市価低下を招来し一方海外市場の中堅たる中華民国排日貸が恒例に依り行はれたると更に満鉄線路の破壊に端を発して関東軍の出動を見て戦時状態を現出した為海産物の輸出杜絶するに至り函館海産商の蒙った打撃は実に甚大なものであった。 斯の如き経済的受難に際し我が市場業者は幾多の難局に当面したが、これが打開に就ては販路の拡張にその途を選むより外なくこれに向かって邁進する必要を痛感するのである。 十二月に至って突如政界に大波紋を生じ民政党内閣に代って政友会が天下を取り直ちに中心問題たりし金輸出再禁止が実施され諸株は急騰する物価も強含みとなり各市場を通じて人気立つに至った、果たして現政府の政策宜しきを得て財界方面の活気を責し景気の挽 回を得るかは疑問とする所であるが現在の各社界は購買力が殆ど皆無の状態にあるを以ってこの恢復見るに至らざれば実際上の景気を見ることは困難と思われる。

 昭和六年は斯くしてして去り今や万物更新の新年を迎ふるに至ったが旭日昇天の意気で我等は緊憚一番積極的活躍を期さればならぬ。即ち我が函館は海産貿易市場として上屋も設備され当に貿易戦線に立つの準備が出来たものである。 北海道は勿論樺太、択捉、北千島、北洋の大漁場を擁したる函館は漁業策源地たる地歩を益々固め一方世界に商権を拡張して函館の真価を発揮すべきであろう。

 株式合資会社、丸村コドモ印製綿所は、次のような体制で昭和七年の新年を迎えた。

                                         謹 賀 新 年      

                                                  昭和七年一月元旦

                株式合資会社 丸村コドモ印製綿所

                   代 表 社 員      河村 定一
                                               支  配  人          西村 源二郎 
                                                                                         橋本 藤英
                                                                                          高木 省一郎
                                                                                          輪島 忠義
                                                                                          北川 令二
                                                                                           明石 正人
                                                                                          川口谷 政勝
                                                                                          外一同
 



                 鶴岡町支店          河村布団店
                   支 店 長           紀太 維修
                                     小島 哲四郎
                                    原田 才市
                                   石橋 三郎
                                   中寺 清
                                     澤田 秀雄
                                  外一同 
 
                小樽支店     河村布団店  
                   支 店 長            植村  太吉
                                      西谷  雄三
                                      山崎  長成
                                     山本  與六
                                     宇田  重弘
                                       佐々木 一郎 
                                      外一同 

                 上磯出張所
                   主 任                澤田 和一郎
                                       外一同 

    コドモ綿製綿所のPR紙として昭和二年に発行され、この年三六号として発行された「ベビー新聞」には以上のように役員名が載せられ、会社近況を次のように伝えている。          

                                                                                          堅実に発展するコドモ印製綿所 

「株式合資会社と云えば余り聞かぬ名であるが株式会社と異なり無限責任を負ぶ処にこの会社の特色がある。コドモ印の商号は同会社の代表的商標の名を取ったものである。 同社の前身は個人河村織右衛門商店である、大正十一年同氏個人事業全部を挙げて資本金十五萬円を以って組織し大正十四年に二十萬円更に昭和二年には五十萬円と逐次増資を行ひ現在に至って居るが其発展振りは破竹の勢いである

同社代表無限社員には織右衛門嫡子河村定一氏が就任し、業務執行社員には河村綾子、紀太惟修、西村源二郎の三氏が就任している。
外に今は隠退して相談役になって居るが河村織右衛門氏がある同社今日の基礎を造ったのは一に氏の力である。

                                同社製品コドモ綿は

 名実共に北日木綿業界の王座を占めて居る。同社の誇りとする機械製作部は織右衛門氏の創設になり十五有余年の研鑽を重ねた結果最も理想的な製麺機の製作をなして居る、コドモ綿の名声を為せる所以も又ここにあるのである。

                                歴史の古い布團製造

 二十五有余年の昔より幾多の経験を得て今日に及んでいるが遥々帝都より職人を招聘して技術の改良発達に精進して居るが仕立の優秀なる事既に定評がある。
本道唯一の蚊帳製造 
大正十一年の創設になり製綿事業の閑散期を利用して低廉に製造するのと本道向に特殊な仕立をなすので断然好評である。年々産額は増加してコドモ印蚊帳の名声は道内至らぬ処はない。

                              愈々堅実味を加へる代理店業

 函館市内千歳町と高盛町に跨る広汎なる宅地四萬数千坪は横濱土地株式会社の所有であるが同所の土地管理権一切は河村定一氏の名義で数年前より会社が取り扱って居る。外に生命保険では常盤生命保険会社、徴兵保険では日本徴兵株式会社、火災保険では新日本火災保険会社の代理店をなして居り取扱高は百萬円を突破している。

                                 デパートに対抗して函館河村布團店 

百貨店全盛を謳歌する函館市内に、綿、布團、蚊帳、毛布、モスリン類の寝具専門店として踏み止まり年々発展拡大しつつあるのは一つの奇蹟である、同店は元河村織右衛門氏の個人営業であったのをコドモ印製麺所設立と同時に合併して同社支店としたものである。最近はサービス用に自動車を購入し顧客の便利を計っている。支店長は設立以来織右衛門氏の愛婿紀太惟修氏で、同氏一流の商策と堅実方針は愈々専門店としての使命を全ふするものと思ふ。
 

                                 断然!樽都の覇王、小樽河村布團店


 小樽第一の盛り場と云えば稲穂町大通りであろう。その通りの中央に専門店としての同店がある。大正十二年の開店であるが、場所が良いのと機敏の商策は断然同業を圧して第一位を占めて居る。 卸売としても本道商業の中心地だけに近年目覚しき発展を遂げて居る。又、同市枢要の地に分工場設置の計画がなって敷地四千余坪買収は既に行われ近く起工の運びになって居るから之が竣工の暁には同店販路に又一段の活躍が期待されて居る。
 

                                 前途洋々たり上磯丸村河村石灰工場


 近来農村の開発と共に、土壌改良や肥料用として、石灰の消費量は著しく増加している。早くからこれに着眼したのが河村織右衛門氏である。大正九年に渡島国上磯町に石灰工場を建設するや、事業に熱心なる同氏は其の製造法に日夜苦心研究の結果出来上がったのが現在の専売特許、河村式石灰混合機である。同機は原石より俵詰に至るまで、総て自動機械に依るものであって、製造費の低下と製品の統一が出来て一躍上磯石灰の名声を博し本道東北に堅固たる地盤を造るに至ったのである。 同工場は大正十三年以来丸村コドモ印製綿所に合併して愈々内容の充実を計り、今や隆々として発展の途上にある。 

     
                                   函館海産乾燥工場


 漁業の策源地函館に久しく待望されて幾度か蹉跌し経営者を変えたが何時も失敗に終わっていた。偶々河村定一氏の手に移るに及んで銘刀の冴えを見せる氏の手腕機械設備を始め、営業の刷新を計り以って忽ち好成績を挙げ前途有望の事業と目されるに至った。 同工場生産の鰮錬粕は天然乾燥に較べて窒素含有量遥かに多き為に一躍機械乾燥の名を高めるに至った。目下鰮粕の製造に昼夜兼行忙殺せられて居るが、注文は既に三月中旬まで引き受けている盛況である。同工場は今後製造能力の拡張を計り木材、塗物等の乾燥をも為す計画なれば前途有望なる新事業である。

 以上が昭和七年一月一日付のベビー新聞の主な内容である。源二郎独立後の昭和二十二年四月十五日に発刊した日本ミシン会社機関紙、「太洋」は、この新聞の経験が活かされているように思われる。そして、この昭和二十二年には、既に社歌の「太洋の歌」が作詩されていた。 40 昭和七年河村コドモ印製綿所はベビー新聞に予告掲載していたように小樽市砂留町に小樽工場を建設した。既に土地の買収は終わっていた。約四千坪(コニ、五〇〇米)の広さであり、市と再三、再四折衝し、漸く、この年に建設が許可されたのである。建築請負人は金子組で建物の立派さに比較して請負金額が低廉であったことも本建築の特色であった。建物は仕上工場他七棟、付属建物十八ケ所の堂々とした建物であり、本社工場より回送移設した機械は、明電舎十馬力モーター他二十一台であり、設置後、一ヶ月後直ちに稼動を開始したのである。 小樽に分工場をこの時期に建設した事によって、この後昭和九年に発生する函館大火時に本社工場が全焼した時に、この小樽工場によって本社工場生産分をカバーし、建設の効果を倍増するのである。同時に企業の分散が、非常時、その危険を減少させるという貴重な教訓を得るのである。


                               西村邸建設−創業の始まり


 一方、昭和七年の三月、源二郎は、五稜郭の土地に自宅の新築を決断している。前年、本社工場敷地内の社宅より借家ではあったが中島町に新居を構え移転したのは、自宅新築を前提とした行動であった。既に長男、昌之、長女恭子は小学校に入学していた。更に昭和五年、三男尚之が出生したが半年後、死亡していた。
然し、昭和六年二月には次女、洋子が誕生し家族は五人となり、狭い借家生活にも限度があった。 ところで、日本全体、北海道も、函館も昭和七年は、不況のどん底で、家を新築する余裕のある家は殆ど皆無の時代であった。然し、伴侶、とよは、建築資金の事などを考えながら多少の不安を感じながらも源二郎を信じていた。いや、信じざるを得なかったのである。 源二郎はそれまで家の理想型を時々口にすることがあり、部屋の間数、応接間、子供部屋、台所の広さなどを食事の時などに、目を輝かして、とよに語るのであったが、とよにとっては、それまでの質素な社宅、借家の生活を考えれば夢のような話であった。 
源二郎は、自分の利害がどうだとか、自分の立場がどうこうとか、自分の評判、声価といったものを中心に考えていると中々物事は決められない。要は決断なのだ。万一失敗したとしても、それはそれでよい。其の時は其の時で又ゴツゴツやろう。今、自分にとっての必要な事は家を建てることなのだ!」
 と、源二郎はそのように言い、そのように決断したのだが、既に会社の代表社員として
五稜郭間取図  
五稜郭間取図
会社の大株主であり、それを別にしても家を造る資金は充分蓄えていた。
 建築は、雪が解けた三月に始まった。木造瓦葺の建物で、函館市五稜郭十三番地に所在する土地(借地)、面積一三六坪二合五勺(四五〇、二八平方米)の三分の二を使用した建物で、後の三分の一は、昭和二年に源二郎と、とよが結婚を機に、記念樹として植えた欅の樹がすくすくと樹枝を伸ばしている庭としたのである。 

この家は現存していないが三男、康之氏が想起して書いて頂いた図面によれば、階下は四室、(八畳、二室、4畳半一室、応接間一室)、その他、食堂、台所、浴室など、二階は十畳、二室で当時としては中流の住宅であったと思われる。 施工主は製綿所に出入りしていた吉川工務店に請負わせ、源二郎独立後も引き続きその他の工事を請負わせている。 建物は約五ヶ月を費やし、昭和七年八月の半ばに完工した。
源二郎三十二歳の夏のことである。
源二郎邸とケヤキ  
源二郎邸とケヤキ
この家の正式な記録は残存していない。然し、筆者は、終戦直後、疎開と称して一ヶ月ほど、この家にお世話になった事がある。そして、思い起こせば、西村康之氏の想起した図面と全く同じである事に驚く。氏の記憶力の良さに感嘆するのである。又、隣家の広岡家の子息と筆者は学友であり、最近も長野の会で出会って居る。 
この家について、長男の西村昌之氏(故人)は「回想 創業五十年」の中で僅かに回想するのである。 
 「・・自宅は五稜郭の閑静な住宅地で幕軍終焉の地で、松並木が近くにありました。毎日眺めていた訳で二階の、勉強机の前の窓から、毎日渡島連山と共に五稜郭を眺めて育った訳です………。」と書いている。 
ただ、家の近くには、五稜型の建物の史跡館があり昭和の始めから経営していた。松田昇氏が経営者で、氏がそこに住んでいた。五稜郭戦争のパノラマ館であり、色々なエピソードを残している。近くには他に、函館の有名人である外山平治氏も住み、五稜郭そのものの近くには、函館商業学校、函館慈恵院養育部などが所在していたが、当時、五稜郭町の開発はまだ遅れ、町並みは疎らであった。
 函館史蹟館は終戦後、源二郎により買収され、独立後の本社となり深く関連する。外山平治氏も会社の存在に関連してくる。

小樽工場と西村源二郎邸が建設された昭和七年当初から昭和八年三月迄、内外の政情と経済状態は、犬養毅内閣総理大臣の年頭の辞に示されたように緊迫の度を増していた。昭和六年九月十八日勃発した満州事変は更に戦線を拡大して行っていた。この後、日本の満州国の承認を経て日経事変―太平洋戦争へと発展し、運命の十五年戦争となるのである。
 一方、経済状態は、犬養内閣の成立によって蔵相が井上準之助より再び高橋是清となり、即日、金輸出再禁止を実行し、金本位制から離脱することになった。
高橋是清は七年一月の議会で財政演説をし、金輸出禁止解除政策を採った濱口内閣措置を批判しつつ次のように述べた。 

「・・・しかるにその後の実情は前内閣の予測に反し、財界の不況は益々深刻となり、物価は低落して止まるところを知らず、産業の不振は極度に達し、社会思想上憂うべき現象を呈し租税公課の負担は実質上益々重きを致し殊に正貨の流出は前内閣の声明を裏切って甚だしき巨額に上り、ために金融は逼迫し経済界の極端なる不振不況は延いて国家及び地方財政の窮乏となった。そこで現内閣はこれら各般の情勢に鑑み、組織後直ちに再禁止を断行したのであります。我々はこれを以って時局国救の第一歩と信じたるのみならず当時の我国の実情は当局の好むと好まざるとに拘わらず到底金本位を維持し難き情勢にあった。」と述べた。 高橋は一口で言えば先ず金本位制を離脱して通貨を国家権力のもとに管理、外に対しては低為替=平価切下げによる輸出促進を。内に対してはインフレ的手段(公債発行政策)による追加購買力の放出と、それを挺子とし

河村ふとん店新年会 昭和7年  
河村ふとん店新年会

た価格の釣り上げをはかり、これによって景気を回復させるというものであった。インフレ的手段とは言いながら通貨膨張に比して物価上昇が概して下回っていたのは当時、生産施設や労働力に大きな余裕があったことによる。失業者の推積によって労賃の上昇が相対的に遅れていたことが有効に利用されたのである。 このように老蔵相の巧妙な対策によって恐慌を確かに押さえることが出来た。他の国がまだ不況に喘いでいたとき、日本経済はともかくも目覚しい立ち直りを見せたのである。 しかし、この立ち上がりは二つの大きな落とし穴に直面することになる。その第一は日本が低為替を利用して、輸出を増大させたことはソーシャルーダンピングであり、国際的緊張を高め脅威を与える結果ともなり世界大戦への道への一つの要因となった。第二は軍事費の際限もない膨張であった。 高橋是清は勿論、軍備は不生産な消費であり、軍事費がある限度以上に大きくなればインフレを来たし経済を破壊することになるのは充分承知していた。高橋はこの限度をほぼ年々の公債発行高を八億円程度に押さえるという形で考え、こういうインフレ的な財政運営をいつまでも続けず税収が増えてくれれば健全財政に戻すべきだと考えていた。しかし 迫り来るファシズムの波は、その政策を許さなかったのである。 一方、右翼と軍部革新派の台頭は次々とクーデター、テロを引き起こして行く。ここでは、クーデターにより政権を奪い、日本の国家改造を果たすことを目的とし、軍部若手と民間右翼が主流をなしこの時代、次々と事件を引き起こして行く。    

 「一」 三月事件                                                                           昭和六年二月末、桜会(橋本欣五郎を中心とした参謀本部、陸大出の若手)が計画。議事堂を包囲。内閣を倒し大命を軍部の宇垣一成に降下させる目的。この計画は未遂に終わる。 

 「二」 十月事件                                                                        錦旗革命 昭和六年十月十六目、橋本欣五郎、長勇、田中弥等の桜会が中心。首相官邸、警視庁、陸軍省、参謀本部を襲撃し、荒木貞夫に大命を降下させる目的。十月十七日発覚。検挙されたが、これが契機となり、閣内不統一もあり若槻内閣が総辞職した。     

【三】 血盟団事件                                                                                                               日蓮宗の僧侶、井上日召とその団員が主。井上は仏門にて就業した結果、日本精神に基づく国家改造の信念に到達したと言われている。井上は、昭和三年暮に護国堂を開き青年を教育し血盟団を組織した。そして、国家改造の一番手っ取り早い方法は支配階級の指導者を暗殺し、テロを実行することだと考えるようになりその計画を練っていた。このとき、暗殺リストにのったのは犬養毅、若槻礼二郎、井上準之助、池田成彬など十三名の重臣、政界、財界の大物であった。この計画の最初の犠牲者が前蔵相の井上準之助である。

 昭和七年二月九日午後八時、犬養内閣の行った解散で選挙運動の最中であった。井上準之助は民政党の公認候補、駒井重冶の応援のため東京市本郷追分の駒本小学校に赴き同校裏門に自動車を乗り付け下車した刹那、群集の中から、本籍茨城県那珂郡に住む、小沼正が躍り出てピストルで井上を狙撃した。弾丸は井上の右胸部に命中し井上はその場に昏倒した。そして、十五分後の午後八時十六分に絶命した。小沼は犯行の動機を「米や野菜が下落して、農民の生活が非常に窮乏しているのを感じ、憤慨してである。」と答えた。 更に一ヶ月後の三月五日、今度は三井の総帥、団琢磨がやはり、ピストルで撃たれ殺害された。午前十一時半頃、三越横の三井本館の玄関に入ろうとした時であった。犯人は菱沼五郎であった。この事件は警視庁が躍起となって右翼の大物を調べ、中心人物が海軍の藤井斎であることを突き止めると共に井上日召は自首し、他の一味も次々と逮捕され事件は落着した。    

[四〕 五・一五事件                                                                                                             血盟事件は井上日召を中心とした宗教派である民間右翼の引き起こした事件であったがこれに加わらなかった海軍側の連中が残っていた。海軍の古賀清志、中村義雄などであっ た。 彼等は陸軍の安藤輝三中尉、村中孝次中尉、相渾三郎少佐等将校に呼び掛け一人一殺方式のテロを行わず集団によるテロを実行したのである。将校等が散布した檄文を読むと政党が党利党略に走り、財閥が民衆を搾取し、農民や労働者階級が非常に苦しい生活を強いられていると指摘。                                                              「天皇の御名に於いて君側の奸を屠れ。国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!(中略)奸賊、特権階級を抹殺せよ。」と強調し、元老、重臣、政党、財閥といった悪を「破壊」するよう主張した。 彼等は昭和七年五月十五日、日曜日夕方、首相官邸などを襲撃、犬養毅首相を殺害。警視庁や変電所、牧野内大臣邸などでは大きな被害は出なかったが、社会への影響は大きく、犬養首相の死は政党内閣の終焉を招いたのである。犬養首相がピストルを突きつけられながらも、「話せばわかる」と言った言葉は特に有名である。 この事件後、尚、二、三のテロ事件が発生し昭和十一年の二・二六事件へと発展し、軍部を中心としたファシズムの道に突き進んで行く。 昭和七年五月二十六日、犬養内閣総辞職。昭和七年五月二十六日、元朝鮮総督、枢密顧問官の斎藤実が組閣し挙国一致内閣が成立する。満州政策に放任主義を取った斎藤内閣は、その四ヶ月後の昭和七年九月十五日、日満議定書により、満州国を公式に承認する。イギリスやアメリカは何とか承認を食い止めようと日本に働きかけたが無駄であった。 そして、昭和八年三月二十八日、日本は国際連盟を脱退するのである。
 

 


 

 

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