第三部 波濤篇
  第一章 打ち寄せる波 
 

約十ヶ月間の休筆中、資料の蒐集、展開の構想を考えていたのだが、二〇〇三年十一月十八日付け朝日新聞朝刊の家庭欄の「日本の綿 よみがえれ」の記事に出会ったのが、第三部を書き出す端緒になった。 

 「植物の実なのに羽毛のようにふわふわで、持てばほのかに温かい綿。産業としてとうにすたれたその栽培が、様々な形でよみがえっている。

国内の在来種を守ろうとするグループもあれば、紡いで織るまでの過程を、産業おこしや子どもの体験学習に生かしているところも。それぞれの夢をのせた綿は、今年も、収穫期を迎え各地ではじけている。」 

そんな書き出しで始まる。産業用は「生産量ゼロ」であるにも拘わらず、千葉県鴨川和綿農園の田畑健さんは、日本在来の「和綿」を農薬や化学肥料を使わずに育てて綿として販売し、糸紡ぎや手織りのワークショップを開いている。  「米国やエジプトの品種と違って寒さに強く、霜が降りる季節でもきれいにはじける。繊維が短くて紡績に向かないと言われるけれど、厚手でしっかりした布になる。日本の気候風土に合う和綿の良さを伝えたい。」と田畑さんは話す。 

綿は江戸から明治にかけて、米と並ぶ大事な作物だったが明治の中ごろ以降は中国などの安価な綿が入ってきて作られなくなった。輸入が途絶えた戦時中は栽培が奨励され、田畑さんが古道具店で買った綿くり機にも「国防」「国策」と書かれたラべルが残る。 目本綿業振興会などによると現在、産業用の綿は、100%がオーストラリアや米国からの輸入。国内では昭和三十年代の半ば以降、統計上は生産量ゼロという。
 「三河木綿」の産地として知られる愛知県西尾市の小学校では全校児童が一鉢ずつ綿を育てて取り入れ、綿の種を取る作業に熱中している。 指南役の会長は、「朝は顔を洗ってタオルでふき、夜はパジャマで眠る。私らの暮らしと切っても切れない綿は昔ここに流れついた人が広めたのだよ。」と教えている。 大阪市岸和田市の郊外でもあちこちで綿の栽培を行うようになっている。「関心の広がりを感じます。」と「きしわたの会」の会長は言う。 

このように今、日本の各地で綿は復活し、見直されっつあると言ってもよい。丸村コドモ印製綿所は、製綿を本業とする事業体であり、北海道の函館市に本拠を置き、明治後半から寝具の新製品が出回り始める昭和四十五年頃迄、北海道、東北に於ける製綿業の重鎮として君臨し続けた。綿が日本人の衣食住の中で欠くべからざるものであり、生活の必需品として受け容れられていたその頃の流れに対応出来た唯一の企業であったのだ。                          創業者も、その後継者も正しく綿の真髄を極めていたとと言っても過言ではない。時代の先覚者であった。 源二郎は時として想いだす。東京、荒川沿いに咲いていた綿の花を……。

あれは大正十年七月、源二郎が、早稲田大学の専門部を卒業し、神田、三國屋の野口亥次郎に使われていた時、千住の竹村工場に出張した事があった。あの時、工場近くの川沿いの砂地一面に植えられていた綿の花を想いだす。綿は、一つの太い幹から四方に長々と枝を伸ばし、その枝の要所に白い花を咲かせていたが、よく見ると、中に、花の盛りを過ぎた薄紫の花があったのを今でも想いだす。この花が結実し、その廻りに生える毛が綿の原料になるのであった。夏草の繁る荒川沿いを歩く源二郎の脳裏に半永久的に、その綿の花が強く刻みこまれたのであった。 

 「あの頃、自分は未だ修行の身であったのだ。」  と、源二郎は思う。     その修行の途中で、函館に帰り、丸村コドモ印製綿所に復職した。その後は目を見張る出世コースの波に乗っていた。それまでの苦労した経験が活かされていたが、本人の実力のしからしめるところであった。 大正十三年六月、源二郎は、工藤とよと結婚したが、二人の間に、即、長男、昌之が、大正の終わり十五年四月には長女、恭子が夫々誕生していた。

大正から昭和へ。それは狂乱怒涛の時代の始まりで、所謂、大正デモクラシーからファシズムの時代に移り変わる時代の始まりであったのだ。その頃、源二郎は、会社では、無限責任社員で、総支配人の地位にあった。                   会社の有力幹部である飯田貞一や、鈴木繁延などの退社もあり、自ずと、製造、営業、人事などの権限を持つ、社長に代わる支配人としての地位に昇進していた。

源二郎、二十七才の時であった。 大正が改まった昭和二年一月一日付けの函館新聞紙上に於いて、「新年の詞」として、函館市長、佐藤孝三郎は次の如く述べている。

 「昭和の第二年を迎えて天地一新して人心も改まり、新帝陛下のご時冶世の弥栄えに栄えまさんことを祈り奉る。本年元旦は、大行天皇の諒闇中にあるが為に、心何となく淋しく沈みがちなる心地 ”義は君臣にして、情は父子”と宣まはれしその君父の喪中にあるからで、帝国臣民の至上であらねばならぬ。この時に、この新年に吾々は心を沈め、意を潜めて厳かに静かに大行天皇の御詔のかず々御諭しの趣きをよく考え、深く思 いばかりして質実剛健の御趣旨を奉じ、業を励み、産を興して国家の隆運に稗補せんことを志し、一年の謀は、元日にあり、ここに心を練り、志を固くして吾人の前途の方針を確立し、そして世界的知識に富ませられ新進にして英邁に亘らせらるる新帝陛下の下に叡旨を報じて大国民的態度を以って勇往邁進すべきである。市政上にありても本年は、昨年内務省港湾調査会にて確立した港湾計画の方針に従い漸次之を実現し先ず西演海岸町の漁港の着手も出来るべく東川町の護岸も許可あるべく塵芥焼却所も早々竣工する筈で図書館も開館するに至るべく、市民館建築も、既に出来ているから本年早々市民のために開放して種々市民に利用せらるるであろう。又新築の学校も万年橋、大森、旭等段々に出来て、二部教授も漸次なくなり多数児童の便宜となるを喜ぶ。その他昭和二年度の予算によりて夫々必要の授業も出来ると思う。懸案中の水電市営問題も新年早々解決せらるる筈であるが、これは、市百年の大計であり、年も改まったら市民諸君と共に各種の感情や行きがかりを水に流して純心に綺麗に、真面目に市の将来の利益を考えて善処したいと思う。終わりに市民各位の健康を祈る。」

 市長は、昭和二年の課題として、港湾問題、函館水電問題、函館市内の施設計画などを挙げるのであるが、更に、函館商工会議所会頭の平出喜三郎は押し寄せる不況の荒波を予感してか以下の要旨を市民に訴えている。

(I) 為替の騰貴、銀の下落、支那の内乱による貿易の不振。入超による経済不振。   為替安定のための金解禁の予測

(2) 烏賊稀なる不漁による不景気の増進

(3) 対露漁業権の紛糾の問題

(4) 膃訥獣の保護条約の問題 

など函館に於ける昭和二年の課題を述べ、最後に次のように締めている。  「人生意の如くならざることは頗る多い。然し正しい希望は必ず徹る。市民の多年熱望の的であった長輪線も二年度には開通することになり、市営及び拓計の築港も遠からず着手せられるであろうし、本年は、これに対する準備対策に忙しくなるであろう。その他大小難易無数の問題が眼前に横だわっている。問題の多いのは発展の兆しである。偶には誤解もあろうし、遣り損ないもあろう。幸に昭和の来迎に乗じ新な希望を以って悠揚として国運の発展にっとめたいと思う。」以上が当面の函館市としての昭和二年の課題であった。北方漁場を抱え、それでも函館は前進を続けていたのである。

 昭和二年二月七日夜。大正天皇の御大喪が真冬の新宿御苑で行われた。  

「東京電話」 

 

「春未だ浅き二月七日、仰げば星光惨として咽ぶが如く、弦の如き寒月今しも低く西空に落ちんとす。満地の衆生寂として一語なく、寒風凄冷、天地瞑黙世の終わりも斯くやと思れるは森厳恐懼の気、切々心魂に徴す、此の間に聞ゆる陸海軍弔禮砲の響きは制し難く押さへ難き八千萬衆庶悲愁の情を圧搾せる大号泣の悲音とも覚え、神韻漂沙たる天上楽の哀曲には祖先の群霊も来たり参会して慟哭するかと思われる。松明、篝火、輦路をおぼろに照らし、前警後従の有司兵常仗黙々忱々として、浄砂を踏む間、畏し英霊を奉安せる霊轜は極まりなき軋音に咽びつつ長へに宮城を出で給ひて粛々として行く、此の時ぞ漠々たる天地間、ただ名状すべからざる大なる威厳の滂はくたるあり、物象皆沈痛なる没我の境に入れり、全国より集まれる幾十万の路傍の奉送者はかくして此間霊轜の全く見えずならせらるる迄寂然、神人冥合の聖境に在る心地しつつはらう拂えど拭えど尽きずはふり落つる涙と共に、永久の拝訣を告げ奉りぬ、此の夜新宿御苑にて葬場殿の大儀あり、天皇親しく御誄を奏し最後の御訣別を告げ給ふ。列国皇室御名代及び元首代表特使亦来り会して儀礼懇切を極む、而して八日霊柩を浅川村多摩の御陵に奉還し、陵所の御儀もいと厳かにその払暁を以って稀に見る大儀全く畢り大正天皇の英霊長へに清浄の地に鎮まることとなれり」

因みに天皇陛下の御誄は左記の通りであった。 御名敬ミテ皇考ノ神霊ニ白ス、恭シク惟ミルニ在シマスコト十有五年深仁厚澤 人心ヲ感孚シ給ヘリー朝不豫久シキニ彌リテ病?エ給ハズ基大漸ヲ傅フルニ当タリテハ遠近争ヒテ神祗ニ祷リ其大行ヲ聞クニ及ビテハ億兆考妣ヲ喪フガ如シ、嗟、予少子正二諒闇ニアリ梓宮ヲ拝シテ音容ヲ想ヒ殯宮二候シテ涕ヲ灑ク茲二大喪ノ儀ヲ行ヒ哭イテ霊柩ヲ送リマツラントス、今ニ感シ昔ヲ懐ヒ哀慕何ンゾ己マン嗚呼悲イ哉

この日、函館では夜の函館公園広場で大正天皇を送る遥拝式が行われている。

二月七日、大正天皇を長へに神の大御位にかえし奉るこの日、市内の店々では戸毎に奉悼の提灯を掲げ鯨幕を張り哀しみに打ちしおれていたが、六時頃から家々全く門を閉じ大通りは人影もまばらに掲げ出す弔旗のはためきも力無げである、この日、遥拝式場にあてられた公園広場では、広場左手に寄せ、高さ五尺の祭壇を築き葬場殿の方位に向けて榊を置き玉串案を設け、渡りには浄げなる簀薦を敷き白木の部分はすべて黒白の布を以って巻かれ祭壇下の四隅に斎竹を立て注連縄を張り祓座と広場入口には一対宛の大篝火をしつらへられてある。

参集者壱萬、尺の雪も物かは十時をやや過ぎる頃聖天坂、浅利坂、住吉学校の前通りは遥拝式に急ぐ人波引きも切らず子の手を引き、老を扶け、尺余の吹き溜りも物かは各町の青年団は、団旗を先に立て、各町有志は高張を掲げ、声をのみ息をひそめひた走りに式場に急ぐさま、けふの大行幸を送りまいらす人々の心も思はれて、涙ぐましいばかりである。十時二十分、霊轜いま葬場殿にお着の頃、この時空には薄月の影も涙にくもり、きさらぎの春まだ浅き夜風は松が枝を鳴らし、青笹をかさかさと吹きそよがせば祓座前の大篝火どっと炎をあげ先帝殿下御即位の大記念碑を赤く映し出し、これを仰ぐ人いまさらながら、あたらしい悲しみに胸を刺される、つどい寄った人々凡そ壱萬人、祭壇下には、礼服の委員、白装束の神官しめやかに居並び竹垣の前列には各町の青年団団旗を掲げて整列する、いずれも清げに装い喪の色のみ悲しげな衆庶ひとしくうなだれ、「葬場殿はどちらの方角にあたりませう」と間ひ、「あちら」と指させば改めてその方角に向ってひざまずき、おがみ奉る老婆の姿もあはれ深い。

  高橋委員長遥拝詞を棒読す

十一時十分前、四人の神官、委員長代理高橋副委員長手水の儀を行ひて祭壇に昇り、これより御大喪儀遥拝式を行いますと挙式の挨拶をすれば胸を撃たれる思ひがする。萩田弥宣、厳かに修祓を行へば副委員長遥拝詞を棒読 

                                       巻も畏き先の天皇命の大神霊の大御前に謹み敬ひ惶み惶みも遥かに拝み奉らくと白す

 

 

 

奉書は夜目にもしるく打ち顛ひその声瓢々と風に紛れる低調の喇叭一声、副委員長玉串を捧げて拝禮すれば参集の諸員一同一斉に首を垂れ英霊長しえに安かれとおろかみまつる、この時喇叭(哀の極)、遠く千代が岱の野に閃光し弔砲第一砲駆逐艦洋風峰風で打つ海軍弔砲忽ち遠く近く寺院の鐘高く低く一斉に吹きならす港内碇泊汽船の曼緩汽参集の人々一人として頭をあぐるなく流沸嗚咽の声閑寂たる天地の間名状すべからざる厳粛の気に満たされる、この間三分間首垂るる衆庶は払へども猶ほふり落つる涙と共に永久の拝訣を告げ十一時三十分式を終われど猶去りもやらず凝立合掌していたもの数多くあった。

 

源二郎の古いメモにこの時の事が簡単に記されてある。

 

その葬送式に源二郎も、その配下の青年社員数名と参列していた。夕方、寮に住む社員に声を掛け、雪の東雲通りを歩いて公園に駆けつけたのである。皇室えの崇拝心は、河村定一や、その他の幹部と較ぶべくもなく強いものがあった。崇拝心が何時育てられたものか。源二郎の先祖の「勤皇の心」に帰依したものであったのかもしれない。   
日本は天皇の国。天皇の存在が国民の存在そのものであった。   凍れる夜空に寒月があった。
弔意を現す約一万人の参列者は会場に溢れていたが、閑寂として、神官の誄詞を読む声のみが厳粛に響きわたっていた。源二郎は社員に囲まれ、共々に立ち尽くしていた。篭火が音を立てて燃えている。
「大正がこのように終わって行く。昭和という時代はどんな時代になるのか?」それにしても、 
天皇陛下は真に神なのであろうか?」
目本の元首として天皇を源二郎は崇拝してきたのは事実であった。
明治維新後の波瀾の多かった時代を乗り越え世界の一流国としてのし上がって来た日本。その時代を統治し、発展させて来だのは元首である天皇の偉大な力によるものであったとは思うのだが・…  

「今、ここに集まっている市民の全ては、それ故に天皇は神なりと思いながら崇拝の虜 なっているように思えてくるのだったが、それらの矛盾の思いを無理にかき消して、全ての式順が終った後、部下の社員共々に榊を手にし祭壇の前に出、礼拝したのである。 帰路、源二郎達は、公園の裏通りを歩き、招魂社の前に出た。坂の上から真冬の夜の港と町々の灯りが見えた。風もなく静まり返っている夜であった。

 昭和二年。この年から日本の政治は大きな渦に巻き込まれて行く。  昭和になって、僅か三月たらずの昭和二年(一九二七年)三月十五日、未曾有の金融恐慌が勃発した。その前兆は、既に大正の末期から始まっていたのであるが・…

 わが国が第一次世界大戦により、世界の大国の仲間入りを果たし、経済大国に成り上がったことが逆に経済の危機を生み出す結果となった。戦争中、世界中、物資不足になり、日本は輸出ブームに沸いた。明治維新以来、日本は慢性的な輸入超過に悩んでいたが、初て黒字国になり、金準備を果たし、日銀の財政も膨張しバブルが訪れ、株価が一ヶ月に五十%も上昇したのである。この時点に於いて財政の緊縮を図るべきであったが、当事の原内閣は逆に軍事政策に資金を投下したのである。だが、終戦と共に、バブルが弾ける。悪い事に大正十二年九月、関東大震災が発生。被災地の企業が振り出した手形とそれ以外の不渡り手形も加わり、巨額の「震災手形」と呼ばれる不良手形が累積したのである。「震災手形」は震災という天災を契機に発生したものとはいえ、その実、大戦以来の放漫経営を重ねてきた企業の失態の産物もあった。それらも加わり不良債権になったのである。不良債権は当事の銀行の経営を揺るがした。銀行の経営の悪さが噂になると人々は自分の資産を守るために預金の引き出しに走った。取り付けである。取り付けが起きる度に政府や日銀は救済資金を供給して銀行を助けたが、金融不安はずるずると続き、遂に、昭和二年(一九二七年)三月十四日、ピークが訪れたのである。時の大蔵大臣、片岡直温かその日の国会で、不用意に、特定の銀行名(東京渡辺銀行)を出し、「・・・現に今日、正午ごろにおいて渡辺銀行がとうとう破綻をいたしました」と発言したのが契機となり、人々は慌てて、その銀行に走った。渡辺銀行はまだ破綻していなかったのだが、取り付けの結果本当に倒産してしまったのである。
最も倒産の素地は充分にあったのだが・・・・取り付けは連鎖反応を起こし、銀行は現金不足となり日銀に助けを求めた。日銀は急進、紙幣を刷ったが間に合わず、裏が白紙の紙幣で間に合わせる始末であった。いわゆる裏白紙幣である。

こうして口火をきった金融恐慌は三月末には一応鎮静するかにみえた。然し、四月の初め鈴木商店の破産が明確となり、それに関連して台湾銀行の危機が暴露されるにおよんで急に恐慌の勢いを強めることとなった。台湾銀行の休業(四月十八日) から動揺をはじめた銀行界は四月十七日に若槻内閣が倒れ、四月二十日に田中義一内閣が成立したあと、二十一日に全国的な大規模なパニックに襲われた。この日には、華族の銀行として、当時、五大銀行の一つに数えられていた十五銀行までも倒産した。そして、田中内閣は遂に二十二日、三週間の支払猶予令(モラトリアム)を公布するにいたるのである。これによって恐慌は漸く鎮静に向うのであるが、昭和二年一月から五月までに休業をした銀行は三十七 におよんだ。そのうち九行は、その後なんとか立ち直って開業をしたが、他は破産して 姿を没してしまったのである。それは日本の銀行史上、未曾有の大混乱だったと言えよ うが、昭和がこういう混乱で蓋を開けたことは、まことに象徴的であった。だが、恐慌はそれだけでは収まらなかった。 この時、函館は如何なる状況であったか。

 

昭和二年三月二十三日付けの函館新聞には次のように日銀函館支店の営業主任談が報じられている。
 
”中央の財界不安は
     函館に波及せぬ“
 
「先頃より東京の財界大分動揺し、東京渡辺、中井の両銀行の休業に続き、本日又々二、三の銀行も店を閉じたる模様であるが、之に対しては日本銀行と主なる市中銀行が協力其安定策を構じていることでもあり、且は財界不安の一因たる震災手形も解決の曙光見えたることとて間もなく平静に帰することと思われる。当地方の銀行と言えば主に本道のもの又は、東京方面のものも皆安全なものばかりで心配の起るやうなものもなく従って東京の波動が当地へおよぷなどは考へられざるも十分自重せられ濫りに流言悲話に惑わされて軽挙せらるることなきよう此際特に希望する次第である。」と述べ、金融界の激動に大きく巻き込まれぬよう警告を発している。とすれば、函館は平安を保っていたのかもしれない。
然し、市長の年頭の詞にある如く、函館といえども好況の中にあったのではなく、日本の未曾有の金融恐慌に併行して、この時、北海道の農漁村は激しい凶作、凶漁に見舞われて疲弊しっつあった。昭和二年から昭和五年にかけて農産物、漁獲高は次第に落ち込んで行く。更に、大正期から頻発する中国に於ける日貨排斥により、昆布、海産、貝柱、乾酪(するめ)、など、中国向輸出品の商いは不安定にならざるを得なかった。又、金融恐慌のもとで進行する農業恐慌により、農産物、農産加工品が大暴落し、これに伴い重要な管外移出物であった魚肥の価格が急落するなど、函館に居住する海産物取扱関係商人の経営を圧迫して行くことになる。 

 即ち、「戦時好況の反動的不況は、世界的に経済界を悪化に導き、産業界は頗る疲弊して行くことにより、函館に於ける海産物も販路に相場に二つながら急激な不振を招くに至った。一時は秋風落莫の感を抱かせる位であったが独り海産物に止まるものではなく、一般物価も同一の状態を呈し所謂不景気が産業界を撹乱するに至った。茲に於いて全ての事業家は業務の緊縮を図り、経費の節減に意を注ぐに至ったので、食料品の海産物は、とりわけこの不況の影響は甚大なものとなったのである。斯く好況が金武か槿花一朝の不振を見たのであるから、これを観るに楽悲交々と云う始末で全く混沌たるものであった」と、事業家が不況の中で業務の緊縮、経費の節減をはかった結果、食料品である海産物は、特に深刻な影響を受けたとしている。 また、この不況により函館に於ける失業者も急増していた。特に下層階級の労働者に、その影響は深刻であった。昭和二年五月二十八日付の函館新聞には次のように記されている。

       「夥しい失業者だ 

             知識階級は四五百 

               労働者も稼ぎない 

                 婦人の求職者一日三四名

 

海の宝庫、本道の寶、錬漁も終期に近づいたので大森濱の粕焚きもなくなったので粕干すの労働稼ぎも少なくなった。鱈や鮫の漁期も終えたので蒲鉾屋の方も、閑散季にに入った。労働稼の第一の打撃は支那の動乱で、刻み昆布其他の輸出が杜絶したので市内十数箇所の昆布製造工場も大方閉鎖しているので職業紹介所から廻ってゆく工場稼ぎはハタと絶えてしまい仕向け先に一寸困っていると昨今求職者が一日平均三十名以上四十名位申し込んで来るが、相変わらず労働稼を厭ふ傾向があり、弁当持の通勤を望むものが多いので向け口に困っているが筋肉労働者にした所で、この頃のように雨が多くては飯場に寝ころんでる日が多く親方からは頭を跳ねられ、煙草銭、風呂銭、草鞍銭と差引かれては、手に残るどころか借越が多くなるばかり。注文の多いのは何時もながら小店員女中で、毎日申込み殺到しているが、拘束を受ける住込みなら真平ご免となり人がなく婦人も毎日三、四人ずつ事務などを希望してくるが、是又向け口がなく知識階級の求職者なら昨今市内に四、五百人はウヨウヨして毎日職を漁ってるが、思わしい口がないので何れも困っていると職業紹介所の祐村所長は語っている。」

この時、昭和二年から満州事変の起こる昭和六年まで、政治も経済も波瀾の時代と なるが、その間、丸村コドモ印製綿所はいかなる道を歩んだか。昭和二年(一九二七年)の金融恐慌時、前半期は原綿の高騰もあり営業成績は極めて順調であり、不況とは思われない利益を上げた。当時、中央の不況は直接この会社まで押し寄せてきてはいなかったのである。昭和二年二月二十日には、左記の如く資本金の増資まで行っている。社業は隆盛を極めていた。  

                    株式合資会社丸村コドモ印製綿所資本増加

                    一、 増加シタル株金ノ総額 金三十万円

                    一、 株金増加決議ノ年月日  昭和二年二月二十二日

                    一、各新株二付払込ミタル株金額  金十二円五十銭 

この時資本金の総額は、五十万円となったが、巨費を投じることにより、工場機械設備の充実化を図ったのである。 「工業は、人力より機械力に向って進歩しつつある。」という社長、河村定一の考え方が社に浸透し、源二郎も同じ考えかたであった。また、この頃、販売見習社員を次のように募集している。 

                                 販売見習社員募集

                                 ・本年高等小学校を卒業する者

                                 ・月給二十円を支給す

                                 ・希望者は学業成績簿携帯本人来談せられたし  

                                    新川町    

                                    株式合資会社丸村Jドモ印製綿所                 

                                        電話 一三九四番  

                                        昭和二年三月二十三日

 

丸村コドモ印製綿所は当時、函館の業界の中で優良の企業であった。営業成績も上位にランクされていた。社員数二百人を超えていた。社員数においても函館の製造工業の中で上位に位置していた。   
しかし、商品の販売に当たって、市場の独占は当然ながら困難になりつつあった。本州方面が不況のため、中央の業者は次第に北海道に販路を求め、販路の食い荒らしが行われ始めていた。これらは侮り難い勢力を持っていた。販売戦争が始まっていたのである。群雄割拠の戦国時代の様相を呈していた。また、函館市場では、百貸店の攻勢が頓に激しく奮い老舗といえども安泰ではなかった。 

丸村コドモ印製綿所は否応なしに時代に適合した営業政策で、これに立ち向かわねばならなくなり、この年から新しい営業企画が次々と打ち出されて行く。同時に営業社員の体質を向上させ、販売競争に打ち勝つ力を持った人材を多数造り出し、営業の安定を図ること。会社創業の精神を身につけた将来の社を背負って行く人材の育成を図ることが会社に課せられた急務の目標となった。これは、社長、河村定一と総支配人、西村源二郎の暗黙の了解事項であったのだ。人集めは源二郎の主たる任務であった。 この時の募集に応じて来た人物の中に、源二郎と終生、親交を結ぶ中居由太郎がいた。同じく昭和三年に入社した石橋武太郎がいた。ここに当時を回想した中居由太郎のエッセーがある。

「昭和二年春、高等小学校を卒業と同時に「丸村コドモわた会社」に就職のため訪問しま した。それが西村支配人と会った最初です。「丸村コドモわた会社」は、当時、函館の優 良事業所で、成績もトップクラスの会社でした。私のような家庭事情の良くない者がよく採用されたものと思う。    私の家庭状況は、母が小学校五年、父が高等科二年(現在の中学校二年)の時に亡くな り、妹二人を抱えて途方にくれていた。不幸は重なるもので、両親の建てた新しい家が 隣家の火元で全焼して裸同然となった。私の身元保証人は、小学校の校長先生と担任の 先生で、第二回目の河村社長、西村支配人の面接で採用が決定した。  入社後、支配人の下で、徹底的に厳しい影響を受けた。例えば縄を購入するにしても数 軒の店へ電話で交渉し値切って、叩いて、少しでも安い店から購入しているのに子供心 にも驚いた。当時、支配人は事務所の隣室が住居でしたが……」

と中居由太郎は書く。「家庭事情の良くない者がよく採用されたものと思う」とあるが、源二郎の目には将来性のある人物と映っていたのかもしれない。当時の写真に、紺絣の和服を着た由太郎少年が写っているが、生真面目で意志堅固な少年がそこに在る。源二郎自身は己の生い立ちから少年時代の苦境の時を経て、貧苦な者、苦境にある者を深い慈しみをもって見つめる愛深き指導者に成長していたのである。

中居由太郎は、その後、河村蒲団店札幌支店長に就任し源二郎の期待に応える。

 石橋武太郎は昭和三年に入社するが、この人物も終生、源二郎と親交を結ぶ。本人は大正十二年に入社し河村蒲団店札幌支店長として勤務した石橋三郎の子息であった。源二郎の人集めは縁故によるものが多かった。この傾向は源二郎自身が事業を起してからも変わらなかった。武太郎は次のように記している。                            「私が十五歳、翁が二十八歳の時が最初の出会いでした。翁は当時、コドモ綿合資会社総支配人として、活躍して居られました。私も入社後満五年間、翁に直接徹底した指導教育を受けました。『勤倹貯蓄』、勤務時間は十二時間、更に残業が一時間乃至二時間、定休日は月一回だけ。初任給二十三銭。小遣いとして月三円、残り二十円は『社内貯金』。   賞与は、五年間『社内貯蓄』。但し、中途退職の場合は没収。然し五年勤続した場合は、会社の株二十五株(全額払込二百五十円)を贈与される。

当時の物価は入浴料五銭、理髪五十銭、喫茶店のコーヒー、十五銭でした。二十一歳の時、若気のあやまちで悪友に誘われて社内貯金百円を引き出し、カフェー遊びをしてキツイお目玉を頂戴したことがあった。 そんなこともあったが、満五年で、社内貯金、二百五十円、株式、二百五十円を手にしました。その頃は、貯金を持っている人は珍しかった時代なのでこれは大変な金額でした。これは翁の強引とも思える将来を見越した最高の生活設計指導の賜物でした。 

 『敏速、積極』・・モタモタするのが大嫌いで仕事は迅速果敢で、商機を逸することなく、適時適策をとり、会社の発展に寄与し、その積極性で時代の先取りをする姿勢は、私共社員の模範として常に敬服したものでした。 

 『義に堅く、情に厚い』 私が召集で従軍し満州に居った頃(昭和十八年〜二十年)母、妻、子供の留守宅に何回も訪ねてこられて、優しい励ましの言葉と、子どもへの小遣いを下さったのです。私共家族の一生の思い出となっています。……」 

昭和二年の販売見習社員から大きく横道に逸れたが、源二郎の人物像を知らせるため、敢えてここに記すことにした。石橋武太郎は入社後、成長し函館河村蒲団店の支店長に就任する。     其の他、河内伝太郎(昭和三年)、丸山喜代治(昭和三年)池田卓二(昭和四年)、青木正曹(昭和四年)磯川清(昭和七年)など、その後の丸村コドモ印製綿所の礎となった人物は全て源二郎が入社させ指導した人物であった。源二郎がいかに人心を掌握することの巧みな指導者であったかが判るのである。  

「人を集めるには、会社に魅力がなければならない。魅力のない会社に人は寄らない。あの会社は、あの社長は、信ずるに足る会社。信ずるにたる社長と思われなければ人は集まらない。給料も、設備も魅力がなければ:…そのためには人を粗末に扱ってはならない。」とその社員募集の時、側に居た幹部の一人に源二郎は言った。極めて常識的な言葉で あったが常識が常識で通らないのがその頃の業界でもあったのだ。 その頃の函館市新川町は函館の工業地帯になっていた。函館船網船具株式会社新川工場、函館水電株式会社車両工所、四方製材所、越田製材所、小森商店醸造所。大阪屋製菓工所、山口鉄工所、林鉄工所、木島製網工場、などがあり、又、近くの新川町には、森田製綿所もあった。函館には、外に千代ケ岱に函館製綿株式会社工場、東雲町に小木製綿所もあり、丸村コドモ印製綿所の独占であった製綿事業に競争相手が進出して来ていて業界が変化しつつあった。然し、そんな中にあって、丸村コドモ印製綿所は同業の中でも、又、函館全体の業界に於いても高所得業者であり、会社規模に於いても二十傑以内に入っていた。当然、市内の小、中学校に於いても評価の高い位置にあり、それなりに人集めに苦労はしなくても才能ある子弟を集めることが出来たが、それに留まることなく会社改善を怠ることはなかった。 

                              昭和三年の店歴を記す

 昭和三年の年末、その年の丸村コドモ印製綿所の事業概略を店歴として、源二郎が初めて執筆した。 

昭和四十四年三月に発行した河村織右工門、コドモわた株式会社「創業70年回顧録」は、創業より現在まで、記録し続けて来た、この店歴が基本資料となっている。 筆者は、この稿を書くにあたって現在の本社所在地、東京都世田谷区桜新町の社屋に於いてこの店歴に接する事が出来だのだが、幾星霜、時の流れを経て、尚且、社史として存在するこの店歴に、心からの感銘を受けた事を忘れない。明治から平成に至るまでの社の重点的な事業内容が年度別に全て記録され、保管されていたのだった。私はつぶさにそれを確認したのだが、毛筆で書かれた昭和三年の店歴を見た時、重い衝撃を受けたのである。その筆跡は正し
昭和3年の源二郎
昭和3年の源二郎 前列左から四人目  後列左端が中井由太郎
く源二郎自身の筆跡で、その後、西村康之氏と共々、その稿の筆跡を照合鑑定した結果、源二郎自身によって書かれたものであることを確認することが出来たのであった。毛筆で書かれたその記録は長文であったが一宇一句に至る迄、間違いや、修正のない見事なものであった。源二郎の研ぎ澄まされた頭脳の優秀さを思い知らされたのであった。

 この昭和三年、源二郎は総支配人の地位にあり、その観点から概況を記していたのだった。恐らく代々の最高責任者が、その担当者であったと推察される。その一部をここに記すことにする。  

                                店歴

・・前半期は悪く総額三億三千余万円の入超となって対米為替は遂に四十四弗台となった。

十月に入りて東西銀行家の金解禁即行決議に端を発して果然!株式界の惨落となり事業界も又恐怖人気漆るに至った。綿業界にも波乱斟からず五月より台頭せる相場は、新綿出廻りと共に低落歩調に変じ僅かに為替安に遮へられて十月以後碇りであった。製品は終始製産過剰に悩まされ競争劇甚を極め、各製綿屋共に景品付又は特価販売等で、販路拡張に余念が無かった。此の虎視耽々中に在りて本店業績を見るに前半期は競争の渦中に投じ福引景品付や元価販売に苦闘を続けて漸く在庫品を一掃した。九月以後は一時に需要激増して非常の好況を呈し漸く頽勢挽回し昨年を凌駕する成績を挙げた。 鶴岡町支店、上磯石灰部又前年同様相当成績を挙げたが小樽支店は依然利益の計上は至難であろう。蓋し新陣容を整え一意小売に全力傾注して居るから軈て挽回する時も遠からぬ事であろう。 

  一、 資本金及び金融   

   ニ、 仕入及び視察

 

仕入ハ従来通リ天津ハ毎船買入テ居ッタガ新綿出廻期ニ思ワヌ低落ガ有テ多数在庫品ヲ擁シテ居ッタ関係デ之レガ切抜ケニ尠カラヌ苦心ヲシタ、落綿ハーケ月ノ在庫ヲ標準トシテ居ッタガ六月、八月、十月、等ニハ六十日間又ハ九十日間分ノ大量買入ヲナシ幸運ニモー度モ値下リニ遭遇セズ相当利益ヲ上ゲタ。綿布類ハ回転率ニ留意シテ入用買一方ニテ大量仕入ハー度モシナカッタ。鶴岡町支店。小樽支店ハ、入用品丈ケ小口ニ仕入ノ方針トナシ在庫品ハーケ月乃至ニケ月ヲ限度トシテ商品経済ヲ計リ結果殆ド失敗ハナカッタ。
視察! 一 月十五日ヨリー月二十六日マデ西村社員ハ北陸、近畿、名古屋等へ蚊帳生地買入ノ為メ出張ス買入品ノ主ナルモノ左ノ通り
         蚊帳生地 三千六百張分 子供蚊帳五十五箱
代表社員ハ九月十八日出発東京、名古屋、大阪方面ニテ製綿機ノ視察ヲナシテ帰途東京ニテ眼科治療ヲナシテ十一月十日帰店ス 
 
ー、  プラット会社製スカッチャー(ポーキユパイン付)    壱台     
二、 ドブソン会社製ローラーカード                壱台    
三、  和製トップグラインダー                    壱台
 
 三、 機械ノ増設及改良
 
昨年ノ機械ハ買入レタノミ又ハ据付タ計リデ実際ノ研究ハ本年度ニ於テ完成シタノデアル、今、其大様ヲ記セバ・・ 

        一、スカッチヤー・・・本機ノ使用ニ依リテ綿質ヲ軟クシ嵩低ニナル事ヲ発見シ之レガ改良ニ苦心ヲ重ネピーター回転ノ減少。喰込ロールノ間隙。
      カレンダーローラーノ軽減。ラップ厚サノ調節。カード喰込ロールノ回転増加等ニ依リ少々弊害ヲ除ク事二成功シタ 
       二、フラットカード十一号、九号、八号ハ、ローラー盤ニテ仕上ノ上据付完成シタ・・     

六、蒲団、座蒲団
 
・・製品ハ勿論ノ事別誂注文等モ相当地盤ガ出来テ居ル本年ノ製造高ハ左ノ通リデ数ニ於イテ大分劣ツテ居ルノハ心細イ感ジガスル。・・小樽支店ハ暫時地盤ヲ礎キ既製品トシテモ相当増加ヲ示シテ居ル開設以来ノ製造高左ノ通リデアル……
 
七 蚊帳

気候少シ遅レ勝デ有ッタガ小売店ノ予約多ク製造数量ハ増加ヲ示シテ居ル特ニ最盛期ニハ追加注文ヲ最モ迅速ニ発送スル為メ本道ニ於ケル製造ノ便利ナルヲ認識セラルルニ至タッタ
又特製蚊帳トシテ角マチ入。裾縁付。縁心ヲ布人ニスル等幾多ノ実質向ノ考案ヲ施シテ販売部デ売ル事ニシタ。小売部デハ別誂寸法蚊帳ノ注文ヲ取ル様宣伝シテ暫時直接製造ノ好果ヲ忍メラルルニ至ッタ……
以上ヨリ見テ年々増加ヲ示シテ居ルノハ心強イ。只鶴岡町支店ノ減少ノ傾キアルハ遺憾トスル処デアル。

八 綿布

本年ハ回転率ニ考慮ヲ払イ常ニ在庫品ヲ平均スル事ニ努メシヲ以テ大量仕入ヲ避ケ小口買付ヲナセリ従テ資本ヲ要セズ利廻ハ佳良ナリシモ売上ノ減少ハ免レナカッタ。青梅夜具縞仕入先ハ従来東京青梅、半々ナリシモ本年ハ青梅○平岡ヲ主トセリ、三巾裏ハ丸紅ガ最モ多カッタ蒲団袋ハ宣伝ノ結果売行良好デ本年ハ赤玉ヲ中止シテ白玉蒲団袋ヲ主トシテ取リ扱ッタ。真綿モ昨年来特ニ努カノ結果暫時数ヲ増シテイル。本年ヨリアサヒ高丈ヲ樺太方面ニ販売スル事ニナリ〈田外山ノ手ヲ経テ仕入夕。
本年度綿布仕入総額三万九千余円(利益不明デアル)
綿布類販路ハ市内地方共二三流呉服店又ハ蒲団屋等ガ主デ売先モ稍、一定スル様ニナッタ。明年ハ更ニ奮闘スル積モリデアル。

九  販売方法ト広告

本年度ハ、大々的売上増加ノ意気込デ総額壱千円余ノ景品付特売ヲ催シタ。判綿二個又ハ夜具綿四個ヲ以テーロトシテ総数五百ロニ対シテ抽籤ヲ以テ景品ヲ配付スル事ニシタ、開始が二月一日デ締切ハ八月デアッタコンナ長期間ヲ要スル積モリデナカッタガ経験ナキ結果デ梢々不人気ヲ招キ此特売失敗ノ態デアル。尚九月ニハ夜具綿弐個ニ対シテ判綿元価提供ヲ標榜シテ大イニ売込ンダ其為ニ十月ニハ判綿手持品ヲー掃シタ夫レ以後ハ注文幅湊ノ状態ニナッタ
鶴岡町支店大体前年通リナルモ市内卸売ニテ本店卜衝突スル処ハ管轄ヲ定メテ売込ム事ニシ卸売トシテハ余り市中廻リヲシナイ事ニシタ。八月ニハ例年ノ宝学校ノ住宅家具展覧会ニ売店ヲ出シ好成績ヲ収メタ 
其ノ売上金高千七百四拾円余(拾五日間)
小樽支店ハ前年同様小売ニ全力ヲ注ギ傍ラ卸ニハ製綿、蒲団、蚊帳、綿布、綿布等ニ努力スル事ニシタ、八月ニハ稲穂学校展覧会、札幌巡回展覧会等ニ蚊帳、製綿ノ出品ヲシテ小売ノ宣伝ニ努メタ上磯石灰部ハ売込ハ本店管轄デアッタガ良ク農村、農会、左官屋等ニモ売込ムコトニ勉メタ。
販売能率・・夫レハ売上高ノミヲ示スモノデナク利益ノ伴フべキ事勿論デアル・・従来ノ制度デハ・・販売員ハ兎角売上金高ヲ増ス為メニ廉売ノ弊ニ陥り易イ。・・・本店ハ全区域ヲ四区ニ別ケ各区二名宛ノ販売員ヲ配置シテ各区域毎二純利益金が判然区別セラルル帳簿組織トシタ、一名ハ交替ニ在店シテ発送又ハ通信ノ事務ヲ司ル事ニシテ得意先トノ円滑ヲ計ル事ニシタ
最初ノ成績ハ各区共二相当意気込ミタレ共中途配属員ノ更迭等有ツテー頓挫ノ感ガアッタ此制度ノ成績ヲ挙ゲンニハ配属員ノ素質ハ勿論ノ事乍ラ給料制度ニモ相当改革ヲ加へ幾分ニテモ純益歩合制度ヲ加味セザレバ初期ノ目的ハ達シ難キモノト思ワル。
 

広告! 五、六月蚊帳時期ニハ北海タイムス、小樽新聞二蚊帳製造ノ宣伝広告ヲ大々的ニ数回掲載シタ。
コドモ綿報は、毎月発刊シテ商品ノ宣伝ヤ相場ヲー般得意先ニ報告シタ発行部数約八百部デアル
鶴岡町支店ハ毎月ノ売出広告ヲ三新聞ニ掲載シタ外浴場ヤ電車内広告ヲ数回シタ其他「カタログ」ヲ市内顧客ニ頒布シタ、市内全部ノ理髪店ニ名前入ノ寒暖計ヲ配布シテ配布シテ各々店内ニ掲示シタ
 

二十  株主及出資者

本年度二於ケル株主出資者ハ左ノ通リデアル     

      河村定一               一六一、五五四、四一                   原田才市          五六七、一〇

      河村俊子              一〇、〇〇〇、〇〇                    沢田和一郎         五六七、一〇  

      紀太惟修             一七、〇四八、八三                   中寺 清           四一八、〇〇

  西村源二郎                一七、〇四八、八三                    小笠原 稔         三一八、〇〇

  河村 定勝       七五、〇〇〇、〇〇                                 小杉 吉蔵           四一八、〇〇

  河村 定一        三、 一〇〇、〇〇                  石橋 三郎          四一八、〇〇

  西谷 雄三         一、一九三、四一                  山崎 長成          四一八、〇〇 

  佐藤 徳順                              七二三、四七                   黒田 富吉          四一八、〇〇   

  高本省一郎                            五一一、四七                   宇田 重弘          三〇〇、00

  外崎 金蔵           六一〇、〇〇                   薮田 孝作          一五〇、00  

  山本 與六           五九一、二七                   沢田 秀雄          一五〇、00  

  輪島 忠義            五六七、一〇      

 

二十一  家庭 

 本年は、釈尼超謐(亡母キミ) 一七回忌卜釈尼妙謐(亡妻スエ)ノ七回忌ニ当ツテ居ルノデ三月弐拾九日盛大ニ法要ヲ営ンダ。当日ハ越前ヨリ木下金作氏、札幌ヨリ木下万次郎氏来函シ其他親戚知己弐拾余名参列セラレタ。

 十月ニハ定一氏夫妻が商用ヲ兼ネテ東京、関西方面二旅行セラレタ。店員中勤続者ニ左ノ如ク功労株ヲ贈呈シタ薮田孝作三株、山崎長成弐株、石橋三郎弐株、宇田重弘六株………………。

源二郎の記した昭和三年の店歴の主だったものを茲に載せた。

若槻内閣に代わって登場したのが田中義一内閣で、以後、昭和四年七月二日、浜口内閣に代わるまで、日本を率いて行くことになるのだが、特異な内政、外交を展開したことは、その後の日本の歴史に大きなマイナスをもたらすことになった。
田中内閣は金融恐慌の後始末を終えたあと、積極的に財政の膨張を図って景気を刺激する政策をとりはじめた。その中心をなしたのは中国出兵を挺子とした陸軍経費増大であったが、その他、震災復興事業の促進、農村救済費の放出、植民地経営の積極化なども重要な施策となっていた。政府は、こういう膨張する経費を租税によって賄うよりは主として公債発行と国庫剰余金の取り崩しによって賄った。それだけにインフレの気配が一層強まることになったが、こうした積極政策が景気のたてなおしに多少の役割を果たしたことは事実である。昭和三年には金融恐慌後の不況が多少とも緩み、生産も物価もやや上向く気配を見せはじめたが、それは決して日本経済の体質を強めるものではなく、寧ろ事態を悪化させて行く。 中国問題では一層軍部の力が増大して行く。
 この頃中国では民族革命が強力に進められつつあり南京政府による全国統一の事業が急展開していた。それと共に中国では、多年侵略を続けて来たイギリスや、日本に対する反発が激しくなり商品のボイコット、居留民に対する圧迫などが次第に強まった。特に満州に大きな支配力を持つと共に、対華二十一ケ条の要求で、露骨に中国侵略の意図を見せた日本に対しては民族運動の鉾先が最も強く向けられるのは当然のことであった。従って田中内閣は、若槻内閣とは逆に中国問題に対しては積極策をとった。南京政府の北伐に備えての第一次山東出兵。東方会議による「対支政策綱領」の決定。第二次山東出兵による済南事件の発生など……。田中内閣の積極外交と言うのは中国へ武力進出して日本の権益 t3 を拡大し、満蒙を中国からもぎとって、日本の支配下に置くばかりでなく中国本土にまで日本の支配力を広げようとする侵略主義に立ったものであった。この暴走の結果が張作霖爆殺事件に発展するのである。
内政における田中内閣の特記すべき政策は、社会主義運動に対する弾圧であった。昭和三年三月十五日には、治安維持法を本格的に適用し、全国こハ○○人に及ぶ社会主義者の大検挙を行った。しかも、この検挙者に対しては慄然とするような残虐な拷問が繰り返され日本の特高警察の悪名を世界に轟かせた。 
以上の事を考えるとき、田中内閣こそ昭和の暗黒史の第一幕を形成した筆頭内閣であり、日本の歴史に大きなマイナスを負わせた内閣であったと言える。昭和四年六月二十八日天皇の不信任により、田中内閣は遂に総辞職をし、田中は、辞職の二ヶ月後、狭心症により急死する。

昭和四年五月十七日、函館商工会議所で第二回北海道製綿業組合聯合会が開催された。大正十五年、河村定一は函館製綿業組合の組合長に就任していたのだが、その後、組織化された北海道製綿組合聯合会の会長にも就任し北海道の製綿業界をリードする立場に昇り詰めていた。北海道工場協会の調査団に加わり道外の優良工場などを視察したり製造機械の刷新的導入を実行したり、活発に行動していた。 
そして、その時の北海道製綿業組合聯合会は、定一にとって、その年の七月に結成された全国製綿業組合組織の発起人となる端緒となったのである。 そのひと月前、源二郎は、社長室に呼ばれ、定一から。 
「全道聯合会が、五月十七日に開催される事に決まったので、大会準備と事務局の責任者となり、会の運営を宜しく頼む」
と命じられた。社長、定一を補佐する役目を直接命じられた。その頃、補佐する役員の中には、紀太惟修や、沢田和一郎なども居たのであるが、その中でも、源二郎が適任である事を定一は見抜いていたのだった。そして、この機会に参画することによって源二郎は、「コドモ綿製綿所に西村源二郎在り」を全道の関係者に認知させる結果になったのである。
 
第二回北海道製綿業組合聯合会は、十七日、午後二時半より商工会議所講堂にて開催された。出席者は次の通りであった。  

▲来賓  竹谷道庁工場課長、鈴木警察署長代理、林会議所会頭代理、小林商会理事  
▲     厚谷弁護士、新聞記者  
▲札幌  駒野七郎平、菊地典八郎、上野商店、木下萬次郎、今井誠介、山岸岸太郎、小島清書、桜井理吉、村岸商店、松本貞次郎、林商店、内田商店、十川幸男  
▲小樽  北海製綿株式会社、高岡打綿株式会社、山田定松、国松太冶、野口幸書、 最上吉蔵、  
▲旭川  旭川製綿株式会社  
▲函館  河村定一、西村源二郎、田中嘉三郎、大森徳太郎、田島余太夫、荻野小次郎、小木小之古、高岡三九郎、辻文二郎、五十嵐虎八、川島亀蔵、小林金蔵、架谷久太郎、高田栄太郎、三上徹蔵、
      上川与助、榎波典次郎、城崎城林  寺岡千代吉、大邦初太郎、茎輝久治、手坂慶一郎、坂口善助、長谷川鍵次郎、  松本留三郎、三上福造、伊藤友吉、森田弥吉、山内利作、高谷要太郎、
      山内清吉。日古平造

定刻、荻野小次郎氏(函館)の開会の辞に会長河村定一氏の挨拶、西村源二郎氏(丸 村コドモ印製綿所)の庶務会計報告、来賓坂本会議所会頭祝辞(林常議員代読)竹谷道庁工場課長の工場法に関する講演、林商工聯合会幹事長祝辞、(小林理事代読)後藤綿業新聞社主幹祝辞あり河村会長座長となり議事に入る。 
 一、製綿の貫目を一定にすること。正味一貫匁及正味三。七五キログラムの両方を表示してメートル法を実行すること。(札幌提案)
 一、打綿工場新規許可の制限に関し適当の方法を講ずること(小樽提出)
 一、全道の古綿打直し賃金を一メ目金五十銭以上となすこと。(仝)
 一、天津綿花の水気種の検査を厳重にする様産地に対し交渉すること。(函館提出) 一、天津綿花及古綿原料の風冠を廃止するやう運動するこ     と。(仝) 
 一、道内にて組合の組織なき土地の製綿業者をも聯合会へ勧誘加入せしめること。(仝)
   各案とも読会省略原案通り可決し
 一、経費賦課方法の改正   
       三十人以上の組合は、一ヶ年二十円 
       二十人以上の組合は、一ヶ年十五円  
       二十人未満の組合は、一ヶ年十円   
       十人未満の組合は、 一ヶ年五円 
       組合に属せざる会員一人一ヶ年三円(仝上)

本案は委員付託となる警察部長、商工課長顧間推薦を決議し閉会し、記念撮影あり、小熊冷蔵庫、ドック会社を視察し、五島軒にて午後七時より懇親会を開会し、引き続き湯の川に組合員のみの懇親宴を開催し閉会した。

この全道製綿業聯合会は、それなりに有意義な会合であったと言える。それぞれの思惑を抱きながら参加した組合員達であったが、それぞれの商売上の利害も絡んで居たのは事実であった。
例えば「古綿の打直し賃金を一メ目五十銭となすこと」についての協定が、額面通り受け入れられないのが現実となっていた。コドモ印製綿所の場合、打直し機の改良、新機種の導入により協定価格以下の料金で顧客の要望に応えられるようになっていたが、それは弱小の業者にとって脅威であった。その点を荻野小次郎が念を押したのであったが源二郎が突発的に全組合員の前で述べた次の言葉は組合員の注意を強く引くものがあった。源二郎の発言は組合長である定一を差し置いての発言であり不見識そのものであり偏っているようにも思えたが、一方、それは道理に添っているように受 け取られた。
「最近の顧客は、実用的な品物を求めるようになって来ています。高品質で、価格は出来るだけ安くというのが顧客の最近の傾向です。
お互いの持っている技術を生かし、優れた品物を造り、顧客に喜んで買って頂けるような価格を設定するのが、我々商売人の義務ではないでしょうか。
打直し料五十銭は私の判断では高すぎます。もう少し検討してみませんか::」  考えてみれば、より良い品物が、より安く手に入るのは何時の時代に於いても顧客にとって最も歓迎すべきことである。また、良いものを安く供給することは企業人、産業人にとって永遠の使命と言ってもよいであろう。
会場内が一瞬、静止したかに思えた。
 「あれは誰だ?」
見慣れない精悍な若者を見て、組合員の大半がそう思った。そして、それが丸村コドモ印製綿所の筆頭支配人である西村源二郎である事を知ったのであった。
しかし、この無鉄砲とも思われる価格問題が翌年まで尾を引き、思わぬ展開となって、社長の河村定一を苦しめ、多大な影響を与えることになるのである。 
一方、この大会が端緒となって、第一回全国製綿大会に発展して行く。 河村定一は、この年の七月三日、四日、東京で開催された全国製綿業者大会の発起人となり、業界で初めての全国組織結成に尽力するという歴史的な役割を果たしたのである。北海道から参加した唯一の製綿業者であった。 当時の「製綿時報」の後藤典志雄社長は次のように記している。 
「昭和四年七月三日、四日、の二日間にわたる全国製綿業者連合大会は、いままで一度も顔を合わせたことのない各地の代表的製綿業者が一堂に会し、互いに、名刺を交換し、互いに名乗りあいつつ今後の業界改善の誓いやら申し合わせをされたということは、先ず製綿業界史上未だかってこれ以上有意義な会合は恐らくなかったであろう。
この会の設立には、それぞれ各地区から発起人が選ばれ、ここまで漕ぎつけるのにかなりの紆余曲折があったがとくに北海道の河村織右工門氏の協力はわすれられないことの一つである・・・ 」と。
 
この頃、源二郎は、相変わらずの社宅住まい。昭和三年七月三十日、二男、博之が誕生したが、半年後の昭和四年二月十三日他界した。長男、昌之、五歳、長女恭子、四歳となって、妻とよの育児戦争の最中であった。二月、博之に風邪に似た症状があらわれた。呼吸時にゼーゼーし、呼吸困難になった。医師は「ウイルスに感染した」と言った。水分補給の点滴や酸素吸入を行ったが効果なくあっさりと目を閉じた。病名は明確でなかった。

源二郎一家の住まいは事務所と連接し、食堂の他、八畳二間、の間取りの粗末な住まいであった。絶えず工員や寮生が部屋の前の通路を往き来する。 
源二郎は、とよを、出来るるだけ静かな所に置きたかったが、事実は職住が全く接近し落ち着く暇がない環境に置かれていた。しかし、愚痴は決してこぼさなかった。
とよは、昌之、恭子、二人の育児の真最中であり、更に、二男の博之が生まれ、そして、半年後、他界する事になるが、それなりに懸命の戦いであった。博之を喪った傷心の思いが、とよの表情の中にかすかに憂いの漂いを感じさせるが、誰と会った時でも、決して微笑を忘れない。確かに顔も心も秋田美人の典型のように見えてくる「支配人夫人」であった。
 とよは、寮生の面倒を見る優しさも合わせ備え、絶えず寮生の相談相手にもなっていた。

「若奥さん、子供さんの事で悲観していないの?少し痩せたんじやない?」

と定一や同僚の幹部が源二郎に慰めの言葉をかける時がしばしばあったが、源二郎は

「いやいや、そんなに柔な奴ではありません 」

と、こちらも、いつもニコニコしながら受け応えしている。 

「あの若いおかみさんは立派だった。気が利いて健気で、不憫なくらい一生懸命だった。  年に似合わず腰のすわった話の出来る人だった。逆に支配人は余り、おかみさんの話はせず、おかみさんが、あんなに大変なのに、この男は、一体なにを考えているのか  と思ったりしたよ。でも何かドえらいことをやりそうな:;商人らしくない、小賢しくない、途轍もない大物になりそうな匂いは感じたね・・」
と後で紀太惟修が後で言っている。

 昭和四年(一九二九年)六月、先代織右工門は、郷里福井県甑谷へ久方ぶりに帰省、親戚知己を歴訪して数旬を過ごし、菩提寺甑谷万福寺の境内に先祖代々の墓を建立した。なお、附近にあった初代織右工門俊正の墓、四代目織右工門釈教円の墓、七代目織右工門釈徳行の墓、この三墓はそのまま現在においても柵内に保存されている。この年、定一は、新川町東部衛生火防組合の組合長に就任した。町政の整理改善に東奔西走、町民の和合と町の繁栄のために献身的な努力をした。同じ頃、新川町在郷軍人分団の分団長にも就任している。

昭和四年二月十三日、博之他界後、源二郎は止む無く住居の移転を考えた。職住の接近は会社活動の基本的形態であり、特に、会社寮は青年社員に対する教育の場であった。 
源二郎自身、明治四十一年、河村家に預けられ、奉公生活を始めて以降、昭和四年のこの目までの二十年間、寮に居住し生活し続けてきたのである。寮で生活することにより、徹底的に厳しい教育を施されされたと言ってよい。又、河村家の家族と常時接触することにより独立自尊を初めとする商人道の根幹を、身をもって知らされ、体得して来たと言ってもよい。
寮生活は源二郎にとって修業の場であると同時に人格完成の場でもあった。そして今、総支配人の地位を築き上げ、その日の為に蓄積された資金も充分用意されていた。寮生活は卒業の段階に来ていた。家族四人にとって、新しい環境に移り住むことが家族を支える一つの条件であった。 
二月には、博之を疾病で喪っていた。又、長男、昌之、長女、恭子も小学校入学が近づいていた。「家を借りて一家を構えるのだ」と源二郎は思った。
 源二郎は将来の新築を計画もしていた。大正十四年、人家の疎らな、函館市五稜郭町十三番地の一部、坪数、一三六坪弐合五勺の上地を借地していた。その土地に一本の「けやき」の苗を記念樹として植えた事は第二部の末尾に記した通りである。その場所に自宅を新築する事を決意しながら、その前段階として借家を求めていたのである。従って、生活する期間が短期間である事、新築場所と会社の両方の中間地点である事を条件に借家を探した。その辺の事を中居由太郎は次のように記す。 
 「当時、支配人は事務所の隣室が住居でしたが、私の入社二年後に中島町に引き越され、 私もお手伝いをして夫妻に大変喜ばれたことが記憶に今も残って居ります。」
 

移転先は中島町であった。
 当時の千代ヶ岱電停より白滝橋の方向に少し下がった場所であったと思われる。(函館市地番図昭和七年、小島大盛堂版による) 借家の規模について、今は知る人は居ない。源二郎は、その場所に博之の他界後間もない四月、社長河村定一の許可を得て移り住んだ。
源二郎初めての核家族としての生活の始まりであった。同時に将来の己の独立への展望を秘めた出発の時でもあった。
源二郎、二十九歳の春の事であった。

 昭和四年7月二日、浜口雄幸内閣が成立する。浜口民政党総裁は大命拝受後、親任式を終えて後、左記の如く語る。
  「本日(二日)、計らずも陛下より内閣組閣の大命を拝しましてまことに恐惶の至りにたへませぬ。早速、閣員名簿を捧呈して、今夜九時、親任式を終わった次第であります。今日の時局は内外極めて多端でありますから閣員一致協力して、君国のため、最善の努力を致す覚悟でありますから、何分よろしく御援助願います。内閣の政綱綱領施策方針等については機関紙を経て改めて発表するかも知れませぬが、今夕は、未だ声明の場合に達して居りませぬ。何れ必要に応じて方針を決定し、実行の上、行って行く覚悟であります。」 

大蔵大臣、井上準之助は次のように抱負を述べた。 
 「本日、茲に総裁より現下の行き詰まった我が日本に直面して、死を以って当たる覚悟であるからこれを憂ふるならば緊縮財政の整理、国民生活緊縮等の方面の問題に当たって貰いたいとの交渉を受けた自分は日本の現状につき至極同感であったから、総裁が指導してくれるならばと喜んでお受けした次第である。従って具体的問題に就いては今後相談の上やる心算である自分は、大蔵大臣としては、二度目であるが、山本内閣の時は僅か三ヶ月余りで細い処は何も知らぬから此度は初めてのようなもので大いに勉強する。今や我が国は国家の財政は勿論個人々の生活さへも全く行き詰まって動きさへもとれなくなって居る故に先走った声明や空宣伝は抜きにして政府自らの緊縮に依り国民を緊張せしめなければならぬ金解禁、財政緊縮、財政の整理等山積した重大懸案に対しては慎重なる態度を以って実行第一主義を以って進みたい。併し乍ら金解禁問題について今直ちに声明を発表するようなことはない。尚、財政緊縮は、民政党として国民に約束したものであるから明年度予算は勿論編成替をなすべく本年度実行予算をも出来る限り緊縮
を計る考へである。」
 浜口雄幸首相と井上準之助蔵相の就任挨拶は以上の通りであった。外相には、幣原喜重郎が就任した。 
海軍軍縮と金解禁、これは、浜口内閣の政策上の二大両輪であり、しかも両者は有機的に結びついていた。片方が成功すれば他方不成功に終わってもよいというわけにはいかな χ○ し一身を賭しても、この両者を共に実現させること、これが浜口首相の此であり幣原外相、井上蔵相の決意であった。
 金解禁とは、一言で言えば通貨と金の兌換を自由にすることであり、国際間の金の移動を自由にすることである。つまり、金本位制への復帰を意味する。 金本位制のもとでは、金本位間の為替相場が一定の相場に固定するメリットをもっていた。それと同時にこの仕組みが、各国の通貨価値を安定させる作用をもっていたことが重要である。たとえば、ある国の物価が外国に比較して高くなれば、輸出が減少し、輸入が増える。そうすると海外への支払のために外国為替需要が増加する。外国為替は法定平価以上に高騰し、やがて、金の流出が起こる。金の流出が始まると金準備量が減り、中央銀行は紙幣の発行を減らすことになるので物価が下がりやすい。物価が下がれば、こんどは  輸出増、輸入減となって逆に自国の為替相場は高くなり、金が流入するようになる。
 つまり、金本位制の仕組みが、忠実に働いていれば各国経済と有機的に結びつき国内物価と、国際物価とが連結し、自動的に国際収支のバランスがとれるというのである。これを金本位制の自動調節作用という。しかも金本位制のもとでは貿易や国際的な資本移動が活発におこなわれるから、自由貿易体制はひろがり、各国間の協調体制が不可欠の条件となる。このような金本位制の考え方を基本とし 
 
 一、金解禁は、三井、三菱、住友、安田、第一、などの財閥系銀行の「即時金解禁」の共同声明
 二、貿易関係の資本家が言う為替レートの変動を抑止し、為替相場の安定と、貿易取引の安定を望む強い要求
 三、我が国の代表的輸出産業であった蚕糸業者の為替レートの安定を求める金解禁の決議 
 四、金融資本の金解禁論にひきずられて行った重化学工業、鍼工業、機械工業、造船業などの最終的な利害の一致による同調などにより内閣が成立した半年後の昭和五年一月十二目、金解禁は断行
    されたのであった。

 この時の浜口首相談


                           金解禁断行し得たるは 

                                国民の自覚奮起に依 

                                   国民的協力を将来に向つて 

                                             継続せんことを切望す

 
 【 東京電話 】

 我が国財界にとって大正六年以来の最大懸案であった金輸出解禁の問題も愈々本日を以てその解決を見るに至ったことは邦家のため、洵に同慶に堪えないところである。現内閣成立以来、政府は、本問題の円満なる解決を期するため諸般の準備の完成に努力し、自ら財政の整理、緊縮国債の整理を行ふと共に他方、公共団体に対しても財政の緊縮を実行せしめ同時に一般国民に対し消費節約の勤勉力業を勘めたのである。政府の態度方針は幸にして、国民全般の大なる共鳴協力を得て比較的短期間に緊張したる気分が全国に波及するに至ったのであるが、斯くの如き好成績を見るためには、政府においても万般の施設につき遺憾なきを期したることは勿論であるが、その主なる原因は国民自体が現下の経済的難局を自覚し、一斉に奮起したるに依るものであって、艱難に臨んで益々その光輝を発揮する我国民性の賜といはねばならぬ。公私経済の緊縮実行は直ちに経済界に好影響を与へ昨年の海外貿易は、近年になき好況を示し、物価も漸落し、海外における本邦の信用も従って著しく向上し為替相場も騰貴するに至ったのである。
政府が昨年十二月二十一口金輸出取締令を、本日を期して撤廃する旨の公表をなしたのも斯くの如き内外諸般の状勢が既に解禁の期熟し各種の準備完了するに至ったが故である。従って本日解禁を実行するも財界に対して何等憂慮すべき影響を責すが如きことはないと確信している。併しながら金解禁問題が解決したからとて官民と共に徒に楽観に過ぎて緊張の気分をゆるめるが如きは深く之を戒めなければならぬ。今や我が国の財界は解禁によって国際経済の常道に復帰するに至ったのであるが之を以って完全に経済難局より脱出し得たものと考へる事は勿論早計である。洵に我が国財界の堅実なる発達を図る為には、今後に於いても官民一致緊張した気分を持続し、国際貸借の改善を図り金本位制の擁護に努むる事が最も緊要である。金解禁の結果は我経済界の基礎立て直しであり、今後は此立て直されたる基礎の上に立って大いに産業の振興、貿易の発達を図り国民経済の更正を期さればならぬ。私は堅忍不抜の我国民性に対し深き信頼をつなぐが故に此の難局も必ずや見事なる成功を見る事を信じて疑わぬのである。終わりに臨んで私は繰り返して昨年七月以来の国民的協力を将来に向って継続せんことを切望する次第である。 
この浜口首相の官民に対する期待と願望は最後まで報いられる事はなかった。不幸な事に昭和四年十月二十四日に発生したニューヨークの株式市場での大暴落は、遂に世界恐慌にまで発展していたのである。ウォール街の惨落の時、これがやがて起こる大恐慌の前触れだとは、世界のブルジョア陣営の指導者は誰一人思っていなかった。その最中の金解禁であった。昭和五年一月というのはある意味で最も悪いタイミングであった。政府が金解禁を急いだうらには四年のアメリカの繁栄を見て、一面これならいけるという安心感があり、多面、この際、バスに乗り遅れたら大変だという焦燥感があったのかもしれない。しかし、史上最大のこの恐慌は全世界の資本主義国を巻き込んで四年間も続くのである。従って、浜口内閣の断行したこの金解禁は予期に反し、激しい金の流出を激化させ、商品市場は大暴落、株式市場は崩壊し、貿易は減少し、混乱の一路を辿る事になる。大量首切り、中小企業の倒産で昭和五年の失業者は帰農者を含めて三百万に達しストライキの波は全国に広がった。最大の打撃を受け窮乏のドン底に突き落とされたのは農村である。米と繭の大暴落で農家の借金は累積するばかりで、東北の農村は飢えて娘を身売りするという惨状であった。示作争議が激増し、流血事件となる場合もあった。農村の窮乏はファシズム運動を急進させ右翼テロを引き起こすバネとなった。
 
一方、浜口民政党内閣は幣原外相によって対外政策の転換を図ろうとしていた。昭和五年一月、補助艦艇の保有制限をめぐるロンドン軍縮会議が開かれた。対英米七割を主張する日本と、六割に抑えようとする英米との対立で難航したが、中間をとった妥協案 26 が成立して四月に条約が調印された。海軍の軍令部は、これでは国防の責任は持てないと強硬な反対運動を起し、政府が軍令部の同意しない条約に調印したのは天皇の統師権を干犯するものだと攻撃した。政友会や右翼もこれに同調したが、政府は軍縮を歓迎する世論に励まされ、野党、軍部、枢密院の抵抗を押し切って批准を達成した。

それは政党内閣による平和協調外交の勝利であったが、同時に軍部、右翼の政党政治に対する反感を決定的なものにした。
昭和五年四月二十日、野党の犬養毅政友会総裁は次のような演説を行った。 

                              政府の失政
 

                                         此不景気を来す

諸君、無準備の金解禁と不合理なる緊縮政策の結果は、都鄙をあげて深刻なる不景気を現出し、殊に中小商工業者並に農村の疲弊は驚くべき状態に達し、倒産、閉店あらゆる悲惨の深淵に陥りつつあり之と共に失業者の激増は日に日に其率を高め不完全なる政府の失業統計に依ってすら現に三十五万の失業者を数えている。而も実際は更に驚くべき多数に上っているのである。政府は此不景気を挽回し、失業者を救済し、以って国民生活の安定を図る責任がある。然るに政府は一面に於いては其原因を世界的不景気に籍り以って自ら責を免れんとし、又、一面に於いては無意義な失業防止委員会を組織し、眼前を糊塗せんとしているのみで何等見るべき方策はない。元来、委員会や調査会は平静の時においては兎に角今日現実に、この多数の失業者を如何にして救い、如何にして防止するか、これを目前寸刻も終了すべからざる真の焦眉の急務ではないか。柳々源泉涸れて失流の混々たるべき道理はない。現内閣たるものは須らくその不合理なる緊縮消極政策は国家産業を衰微せしめ公私の有益なる事業を停頓せしめた事と共に準備対策を無視した金解禁はその善後処置を誤りたることはその悲惨なる社会現象を醸成したることを明記すべきである。

 犬養毅政友会総裁は以上の通り浜口内閣の政策を批判しているが、野党総裁の演説通りの日本の経済状況であった。 


 

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